老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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理性的な林先生と申し上げれば失礼になるかとも思いますが、小生が激昂していても冷静に、理性的に、ご指導いただく先生が福田内閣打倒を口にされました。


平成20年5月5日
愛国心ではなくジコチューだ
 
中国の若者の愛国心の異常さが注目を集めている。過ぐる反日デモの暴力行為は目にあまるものがあったが、聖火リレーの「留学生」集団も、殴る蹴る、旗棹でなぐるなどの行為が見られたそうである。ソウルでは乱闘になり、韓国政府が中国政府に抗議する騒ぎになった。


 直接的な暴力よりもっと恐いのが、自分達を批判してくる相手を「漢奸」(売国奴)呼ばわりして攻撃するやり方である。アメリカでは対立している両者のあいだを仲裁しようとした女子学生が「売国奴」呼ばわりされ、実家には汚物がまかれたという。自分たちに全面的に同調しない者はすべて敵だという態度である。フランスでの聖火への抗議に対する、中国内のコンビニ店、カルフールへの不買運動も、感情的な八つ当たりというべきである。常軌を逸していると言うしかない。


 こうした若者の大量出現は、中国政府の愛国心教育の結果だと分析する人もいる。中国政府は本当に愛国心を教えているのだろうか。


 本物の愛国心とは
第一に、自国の良いところに誇りを持つことである。
第二に、自国の悪いところや間違っているところを指摘・批判されたときに、謙虚に反省し、そこを直し、改善しようとする態度である。もし相手の方が間違っていると思えば、理性的・理論的に反論する。自信があるから感情的に反発したり、激昂したりしない。


 第一の点についても問題はあるが(例えば有人宇宙飛行をやったとか、経済成長が高いとか、オリンピックを主催する、などという外見的なことに価値を見いだすか、国民の人格の成熟度や文化に見いだすか)、分かりやすいメルクマールは第二の点である。


 第二の点に照らしてみれば、中国の若者の行動が愛国心とは似ても似つかぬ代物であることは明瞭である。それは愛国心どころか、程度の低いジコチュー(自己中心主義)にすぎない。


 今の若者の世代は「一人っ子」政策のもとで、親から「王子さま」「お姫さま」のように過保護に育てられ、自分だけが正しく、反論や規制を受けない存在だと思いこんでいるのである。人格が未熟で弱いので、批判されると、相手を全否定しなければ、自分が全否定されると思ってしまう。自分を全面肯定するためには、相手を全面否定するしかないのである。


 こういう連中を政権の基盤として利用せざるをえないなら、中国共産党の独裁は、じつは脆弱な基盤の上に立っていることになる。政権の人間的土台(民度)がもろいということになる。彼等は常軌を逸した攻撃をするから、相手国の国民の反発を買う。しかし抑えようとすると、批判は政府そのものに向かう危険がある。育て方が間違っていたので、扱いに苦慮しているというのが本当のところであろう。


 中国のみが正しいという「中華思想」が「愛国心」教育の核心であり、それと個々人の自己中心主義が合致しているところが、一筋縄ではいかないところである。劣等感の裏返しという側面もあるので、いっそう厄介である。


 この鬼子を教育し直すことができるのか、それともコントロールできないのか、そこに中国という国の成熟度を測るメルクマールがあると言えるであろう。今のままでは、民主的な近代国家となるにはほど遠いと言わざるをえない。


 来日する胡錦濤主席に対して、福田首相は「相手のいやがること」でも、日本の国益のため、主張すべきことをしっかりと主張してほしいものである。間違っても「ご無理ごもっとも」という態度だけは取らないでもらいたい。


 かつて、天安門での武力弾圧に抗議して西側諸国が制裁を科していたときに、天皇訪中を画策し、それが突破口になって制裁が解除されていった経緯がある。中国にとって日本ほど御しやすい、都合のよい国はなかったことだろう。今回もオリンピックをめぐって中国への批判が高まっている中、福田首相が開会式に出席を約束しようものなら、中国にとってこんな旨い話はないが、反面、日本は世界の笑い者になるどころか、中国の家来になったのかと言われかねない。福田首相は決して開会式出席を約束してはならない。


 昨日、来日にさきだって胡錦濤主席が記者会見し、パンダの貸し出しを検討していると恩に着せるような発言をしたそうが、貸し出し料はオス・メスのペアで年間一億円とか。世界中のパンダはすべて貸し出しであり、生まれる子供も中国の所有となり、貸出料を取られる。パンダ利権と言うべきだ。有り難がって押し頂くような話ではない。それとも今回だけは無料にしてくれるとでもいうのか。もしこちらが金を出して、友好の演出をされ、北京オリンピックの露払いをさせられるようなことになれば、国際社会の軽蔑を買うことになろう。福田氏が首相であるかぎり、こうした関係は続くのであろう。いよいよ福田政権打倒しかないか。

林先生の寸評が出されました。

皆様にご紹介いたします。



平成20年4月28日

横暴な中国人の沿道占拠 ──赤旗林立は日本国民への侮辱

http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/sunpyo.html

 長野とソウルの聖火リレーは、機動隊を中心にした4000人規模(ソウルでは8000人)という異例の警備体制のもと「予定どおり」行なわれた。警官隊の人垣の中を走るということ自体、異常であり、歓迎されていないなによりの証拠である。

 異様であったのが、「中国人留学生」と称する3000人とも4000人ともいわれる一団(ソウルでは一万人)が沿道を占拠し、赤旗(中国国旗・五星紅旗)を林立させ、歌を歌い、「ワンチャイナ」と叫んで応援したことである。当然日本人の一般市民は閉め出され、「ここは日本なのか、中国の街角なのか」と思わせる光景であった。

 中国が国家権力をもって動員すれば、このくらいは朝飯前であろう。力と数で圧倒すれが「勝ち」という感覚は、「友好」とはほど遠い感覚である。遠慮という感覚もなければ、礼儀の感覚もない。あるのは力づくで勝ちさえすればよいという感覚だけである。赤旗を林立させて人海戦術で沿道を埋めるという作戦は、日本国民を人と思っていない、横暴な感覚がなければできない所業であり、日本国民への侮辱である。それはチベット人を人と思っていない民族否定、文化否定にも通じている。中国共産党独裁の本質が露呈された光景であった。

 中国はオリンピックそのものを私物化しているが、聖火リレーにもそのことがよく表れている。聖火を管理するのは中国だということにこだわり続けている。青いトレーナー姿の「警備隊」は、日本では日本警察の面子を尊重して警備行動こそしなかったが、二人がランナーにぴたりとついて、管理権を執行していた。「あくまでもすべてを中国が取り仕切るのだ」という強い意思表示である。世界の皆に参加してもらい、ともに協力しあって成功させようという姿勢は見られない。自分たちが仕切り、そういう形で「成功」させたいという私物化・政治利用の動機が前面に出たやり方である。

 そもそも各国の聖火リレーは、各国のオリンピック委員会が管理すべきものであって、主催国が管理すべきものではない。各国でリレーをしながら盛り上げていくべきものである。主催国がしゃしゃり出るものではない。聖火リレーの段階で、これだけ不愉快なことがあった。始まったら、どれだけ政治利用されることか。まず開会式だが、政府要人が出席するだけで、私物化に花をそえることになりかねない。日本の福田首相はまだ態度を鮮明にしていないが、直前になって出席を表明する腹であろう。中国の顔色をうかがって、おろおろするとは、日本もなさけない国になり下がったものである。アメリカにむかっては「言うべきことを言え」と常日頃言っている連中は、中国に向かっても言うべきことを言ったらどうか。

気がつくのが遅くなりご迷惑をおかけしました。
林道義先生の寸評、思い切った発言をなさっています。
でもその通りなんですね。
先生有難うございました。


中国共産党の強権的姿勢と隠蔽体質
 国威発揚のためのオリンピック誘致が、皮肉なことに中国にとって裏目に出て、近代国家としての水準に達していないことが世界に明らかになってしまった。チベット弾圧は言うに及ばず、各国選手団が中国国内での合宿を避けるというほどの公害のひどさ、毒入りギョーザ問題をはじめとする食品安全の危うさ、貧富の差、人権無視、ありとあらゆるマイナスが一挙に世界の目にふれてしまった。

 今までチベット抑圧についてどんなに訴えても世間の関心を引かなかったのに、オリンピック開催時と重なったために、一挙に大きな関心をまきおこした。中国にとってオリンピック開催が凶となりかねない事態となった。

 このピンチに対処するのに、中国共産党は強権発動という硬直した姿勢と、都合の悪いことは隠して表面だけ取り繕うという、独裁政権の定番のやり方しか思い付かないらしい。聖火リレーへの抗議に対する対策に、そのことが典型的に現れている。

 一方では「警備隊」で聖火の周りを固めて力づくで聖火を守ろうとする。彼等は守るだけではなくて、聖火の受け渡しから持ち方まで指図し、ランナーを木偶か傀儡のように扱っていた。国内で人民を支配するときの感覚がもろに出たのであろう。が、それでも抗議行動を防げないとなると、こっそりとルートやゴールを変更して(発案は市長らしいが、もちろん中国側が「ウン」といわなければ実行されない)、こそこそと隠れて走ったことにして、「成功、成功」と宣伝する。

 国民には事実を知らせないで、公式発表だけを信じさせる独裁政権のやり方を、世界に対しても通用させようという、独断的で硬直した発想である。長いあいだ安易な独裁に慣れてしまうと、これほどまでに愚かな糊塗策しか思い付かないと見える。

 中国共産党にオリンピックを開催する資格のないことが、誰の目にも明らかになった。IOCは中国を主催国に選んだ条件としての「人権改善」がなされていないという声明を発表した。

 オリンピックを政治利用したのはヒトラーだった。聖火リレーを始めたのもヒトラーである。独裁者はみな同じことを考える。だが今は時代が違う。政治利用しようとした中国は、政治的に追いつめられている。ただ国内向けの報道管制によって、「市民から歓迎を受けた」と嘘を報道しても、世界には通用しない。ボロをかくしとおすことのできる時代ではないのだ。

 さて、問題は長野での聖火リレーである。ヨーロッパやアメリカでこれだけ激しい抗議が行なわれたのに、日本だけ無風地帯のように「無事に」聖火リレーが行なわれたら、世界の心ある人たちの笑い者になる。暴力的な抗議は日本人にはふさわしくないが、そのかわりできるだけ多くの抗議団を組織し、数の力で抗議の意思を見せつけることができれば理想的である。可能な人は一人でも多く長野に結集しよう。行けない人は自分の町で集会やデモを組織して、抗議の意思表示をしよう。

 欽ちゃんや星野監督など、ランナーは全員辞退すべきである。


林道義先生の寸評がだされました。連続している「自滅的殺人」に多くのお方が感心を寄せられ、その動機についてもお考えあぐねておられるのではないかと思っています。

この点に林先生は、短文ではありますが、鋭く迫っておられます。

やはり「父性の欠如」と結論付けておられます。

ご紹介します。


http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/sunpyo.html

平成20年4月3日

自滅的殺人はなぜ起きたのか

 「人を殺したかった」「相手は誰でもよかった」という理由で、人を殺す事件が立て続けに二件も起きた。「動機が分からない」と言われている。「動機」とは何かを考えてみる。

 殺人事件の犯人に対して、警察・検察や裁判所は必ず「動機」を明らかにしようとする。「動機」によって、処分の程度を決めるためである。鬼畜にもまさる身勝手な「動機」ならば極刑にするし、情状酌量の余地のある「動機」ならば減刑にする。「動機」がない(分からない)となると精神鑑定を行い、「心神耗弱」などと診断されると「責任能力なし」とされて、刑事責任を問われなくなる。

 私はかねてより、このシステムに疑問を持っていた。「動機」やそれを生んだ「原因」によって殺人に対する刑罰の程度が異なるというのは、犯人に対する同情心(とまでは言わないとしても、犯人に対する配慮)から出たシステムである。つまり犯罪を犯すのは「社会が悪いからだ」「育てられ方が悪かったからだ」という思想(階級闘争史観)を反映したシステムであり、原因を本人の外に見いだす考え方である。

 しかし被害者の立場から見れば、「動機」や「原因」は関係ないのである。命を奪われた者、その家族、友人等々から見たら、「動機」が何であろうが、殺人そのものが極刑に値する。失われたものの価値は、失わせた者の「動機」によって異なってくるはずがないのである(ただし「動機」の中には同情すべきものがあることも確かであり、まったく無視してよいという意味ではない)。例の光市の妻子を殺された本村氏が犯人の死刑を要求しつづけていることに、私は最大限の同情と支持を送りたい。

 どんな境遇であれ、立派に生きている人はいくらでもいるのであり、私は殺人犯の処遇の程度を決めるものとして「動機」に注目する今のシステムには大きな疑問を持っている。しかし私は別の意味で殺人犯の「動機」に注目している。それは彼等の真の「動機」を解明することによって、真の原因を明らかにし、それによってこうした無差別殺人のような理不尽な殺人を防ぐことが可能だからである。

 殺人の「動機」には大きく分けて二つある。ひとつは「意識的動機」であり、いまひとつは「無意識的動機」である。強盗に入って顔を見られたから殺したというのが「意識的動機」、今回のように「なんでもいいから人を殺したかった」というのは、真の「動機」が本人にも意識されていない場合である。こうした場合は、殺人にまで至るケースは氷山の一角で、いじめや鬱病や自殺という現象として社会を覆っていると言っても言い過ぎではない。

 今回の事件のうち、土浦市の8人殺傷事件も、岡山市の突き落とし事件でも、犯人の真の「動機」は「人生をゲームセットにしたい」というものである。心理学の専門家は「自滅的」と言っているそうだが、それは正しいと思う。現場の捜査員は「殺人そのものに興味を持っている」のが動機だという見方をしているらしいが、それは目の前の現象を見た印象であろう。自滅するための手段として殺人を考えるようになって、殺人に興味を持ったのであり、殺人への興味は二次的派性的なものであろう。根本は人生をゲームセットにしたいという心理である。ただし「自滅的」ならば端的に自殺をすればよさそうなものだが、じつは自殺には多大なエネルギーとある種の「強さ」が必要なのである。この二人の犯人には、それだけの「強さ」もなかったということである。だから殺人を犯して刑務所に入れられたり、死刑になることで、「この世」から「おさらば」したかったのである。

 問題は、(いかに困難を背負っていたとはいえ)人生を捨てて「この世」から去りたいと思うほどに、しかしそうかといって自殺もできないくらいに、ひ弱な人格にどうして育ってしまったのかというところにある。

 この疑問へのヒントとして、あるテレビが放映した、岡山の「突き落とし」事件を起こした少年の父親のインタビューに注目したい。この父親は驚くほど冷静に、自分と少年との関係を「分析」していた。すなわち、この父親は「子供の心にかかわってやれなかったのかもしれない」「受け止めてやれなかったのかもしれない」といった意味のことを語っていたのである(記憶だけなので言葉遣いは正確でない)。

 他人事のような言い方が気になる点は別として、こう言う「感想」は「母性的な対応をしてやれなかった」という感慨である。父親には父親として、子供を強く育てる、鍛えるという役目があり、それを十分に果たせなかったという反省は、この父親の口からは語られなかった。この父親自身にまったく父性が欠けているとしか考えられないのである。

 この少年は何度も環境の変化を経験し、カネが足りなくて大学にも行けず、就職もうまくいかなかった。それが真の「動機」だという見方もあるそうだが、それらは直接のきっかけではあるが、真の原因・動機ではない。隠れている真の動機は、困難に出会って人生を捨ててしまいたいというものであり、真の原因は父性欠如で育ってしまったひ弱な人格にある。

 自分の人生をゲームセットにしたいというときに、他人を巻き込むことの重大さに思い至らないというのは、自分勝手であると同時に、最大の「甘え」の発露である。これは自分の不満を「いじめ」という行動に出ることによって晴らすという心理と原理的には同じである。いじめられる側の立場に立って考えることができない、自己中心的な「甘え」の極致が、今回の「身勝手殺人」となって現れたと言うことができる。

 「身勝手殺人」の真の原因は、父性の欠如である。父親自身が「母性的な対応が欠けていた」と反省するようでは、まだまだ父性の大切さが子育ての現場に浸透していないと言わざるをえない。


私が師事している前東京女子大教授の林道義先生のHPに好評されている、寸評というのがあります。先日底に記載されたものをご紹介します。

http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/sunpyo.html

平成20年1月21日

危険運転致死傷罪について ──「正常な運転」とは ?

 遅まきながら、福岡市の飲酒運転追突事故の判決について、重大な疑問を呈しておきたい。検察の求刑は「危険運転致死傷罪」を適用して25年の懲役であったが、判決は「危険運転ではない」「脇見運転による業務上過失致死罪」として7年6月の懲役と結論した。

 この判決の最大の問題点は「被告は事故当時、酩酊状態とは言えない」「アルコールの影響で正常な運転が困難な状態にあったとは認められない」というところにある。この判決の特徴は、

 1 「酩酊」を最も狭く厳しく定義し、

 2 「正常な運転」を最も広く甘く定義している

点にある。すなわち、

 1 川口裁判長は、被告が「正常な運転が困難なほどに酩酊していなかった」証拠として、追突までの約8分間、幅が狭くカーブの多い道路で蛇行や衝突をしないで運転していたという事実を挙げ、「酒気帯び」ではあるが、「酩酊による危険運転」には当たらないと結論した。

 また追突直前には気が付いて急ブレーキを踏んでおり、避けようとしてハンドル操作もした。だから「酩酊状態ではなかった」と川口裁判長は判断した。この判断は「酩酊」を最も厳格に解釈した結果である。

 この解釈だと、「酩酊」運転というものは存在しないことになる。なぜなら、「酩酊者」が運転しようとしても、とたんに何かにぶつかってしまい、運転そのものが不可能だからである。つまり「危険運転致死傷罪」の法律は必要ない、というよりほとんど適用されることのない法律ということになる。



 2 時速50キロ制限の一般道路を酒を大量に飲んで時速100キロでとばし、しかも脇見をすること自体、常識で考えると「正常な運転」とは言えないと思うが、常識でなく法律に照らしても50キロもオーバーしていれば、飲酒とは無関係に「危険運転」に該当すると認定することが可能である。

 しかも、事故の原因は「酩酊」ではなく、「脇見運転」であるというが、ただの1、2秒間の「脇見運転」ではない。脇見をしていなければ、直線道路の先に車が止まっているのを発見できたはずなのに、脇見をしていて発見できなかった時間は10秒前後あったらしい。ただの脇見ではなくて、「正常な運転」とはとうてい言えないほどの脇見であった。「時速100キロ+約10秒の脇見」は、「正常な運転が困難な状態にあった」どころか、そもそも「正常な運転がなされていなかった」なによりの証拠ではないのか。しかし、この判決は「100キロ+約10秒の脇見」までも「正常」の中に入れるという、「正常」概念の不当な拡大解釈に依存している。

 そもそも、法律自身の定義によれば、「危険運転致死傷罪」とは「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。」(刑法第208条の2)。法律の条文の中には「酩酊」などという用語は存在していない。「アルコールの影響」があって、「正常な運転が困難」なら「危険運転」になるのである。

 ところが、この裁判官は「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態」=「酩酊」と定義し、酩酊か否かから出発してるから、酩酊でなければ単なる脇見と結論づけることになった。

 「正常な運転が困難な状態」とは具体的に言うと、「前方注視やハンドル、ブレーキの操作が困難な状態」のことである。被告はかなり長いあいだ脇見をしていたことになるので、「前方注視が困難」どころか、はっきりと「前方注視をしていなかった」ことになる。これだけを見ても「危険運転」であることは明らかではないか。

 このように、この判決が求めるような厳格な意味での「酩酊」は「危険運転」の要件にはなっていないのである。「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ」れば、危険運転とみなされるのである。「時速100キロ+約10秒の脇見」は「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」どころか、「正常な運転をしていなかった状態」と言うべきである。



 このように、この判決は「酩酊」の立件を最も厳格に要求し、「正常な運転」の範囲を最も広く定義した結果、「危険運転致死傷罪」には当たらないという、被告に不当に有利な結論が導き出されることになった。

 法律の専門家の中には、法律自体が曖昧なのがいけない、とコメントしている人たちがいるが、法律があいまいな場合には、常識や良識に則って、適切な解釈をするのが裁判官の務めである。事実、この判決においても、「酩酊」「正常な運転」の概念について、一定の定義や解釈をしているのである。問題は、その解釈が正しいかどうかである。

 福岡地裁の川口裁判長の判決は、「酩酊状態」と「正常な運転」の概念に関する解釈が間違っている。それらの概念を被告に有利なように解釈しているという無理がある。そのような解釈では、この法律の存在意義がなくなってしまう。この法律の立法趣旨にかんがみ、この法律を正しく活用するためには、「正常な運転が困難な状態」を適切に解釈し、この事例に「危険運転致死傷罪」を適用すべきである。