老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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伊勢先生が述べておられますように、“「万世一系」の皇室こそが日本文明のエネル
ギーを生み出した源泉である、”と言えるのではないでしょうか。


伊勢雅臣先生の  国際派日本人養成講座  より転載しました

国柄探訪: 日本文明のエネルギー

 人類史に巨大な足跡を残してきた日本文明
の活力、創造力はどこから来たのか?


■転送歓迎■ 無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/

------------------------------------------------------------
国際派日本人養成講座・総集編(電子ブック版)
最新版発売開始 定価 \800

 
■1.世界最古の土器■

 世界最古の土器は、日本で見つかっている。最新の発見では
1万6500年前のものだという。それに次ぐのが揚子江中流
域で見つかった約1万4千年前のものである。

 世界の四大文明、すなわちメソポタミア、エジプト、インド、
シナのいずれの文明においても、土器は捧げ物、食べ物を盛り
付けるために使われたのだが、日本の土器は煮炊きのために使
われていた。時期においても、用途においても、日本の土器は
他文明よりも、はるかに進んでいたようだ。

 20世紀最大の先史学者と呼ばれるゴードン・チャイルドは、
土器の発明を「化学的変化を応用した人類最初の大事件」と見
なしている。粘土を焼いて、水に溶けない土器になるという化
学的変化を「人類最初の大事件」としたのだが、土器を煮炊き
に用いる、とは、その特性を最大限に活用した工夫であった。

 さらに粘土は可塑性を持ち、それを焼くことで、自由な造形
や模様づけが可能である。撚糸(よりいと)を土器表面に回転
させて縄目模様をつけた縄文土器、燃え上がる炎の形状を模し
た火炎土器など、芸術性の豊かな土器を、われわれの先祖は生
み出した。

 後のモノづくり大国・日本の遺伝子は、はるか先史時代から
発揮されていたようだ。

■2.世界最古の漆器■

 漆(うるし)の技術も先史時代から、日本で花開いていた。
従来は、揚子江流域の河姆渡(かぼと)遺跡で発見された7千
年前の漆工品が最古のものとされていたが、北海道の垣ノ島B
遺跡から出土した赤色漆が9千年前の物だと判明した。

 上述の土器でも出てきたが、長江(揚子江)文明は漢民族の
黄河文明よりも早く開けたもので、その末裔は現在の中国南方
の少数民族であり、さらにその一部は台湾から日本に渡ってき
たという説がある。いずれにしても黄河文明とは関係がなさそ
うだ。[a]

 約5500年前から1500年間、縄文時代前期から中葉にかけて栄
えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡では、直径が30セン
チほどもある見事な漆塗りの皿も出土して、専門家を驚かせた。
現代にひけをとらない漆の技術がすでに存在していたのだ。[b]

 江戸時代には、オランダが長崎で大量の漆器や磁器を買い付
け、ヨーロッパに持ち込むようになった。18世紀のヨーロッ
パでは、日本の漆器が一大ブームとなり、漆器が「ジャパン」
と呼ばれるようになった。日本の漆器は値段が高いために、ヨ
ーロッパで模造品が作られたが、その質においては本物に到底
及ばなかった。[c]

■3.「高天原にとどくほど」■

 我々の先祖は、土器や漆器というような工芸品ばかりでなく、
巨大な建造物についても、世界史に大きな足跡を残している。

 前述の三内丸山遺跡では、約100棟もの堀立柱建物が整然
と配置されているが、それらは直径2メートル、深さ2メート
ルの巨大な柱穴に、クリの巨木を立てたもので、柱の高さは
10メートル以上と推定されている。最大の建物は長さが32
メートル、床面積が100坪もある。[b]

 縄文時代の日本人は毛皮を着て洞穴に住み、狩りをして生活
していたというイメージは、すでに過去のものとなっている。

 その巨大建造技術がさらに蓄積されて作られたのが、出雲大
社であろう。現在の出雲大社本殿は高さ24メートルで、延享
元(1744)年に造営されたものだが、平安時代に建てられた本殿
は高さ約48メートルであり、さらにそれ以前は約96メート
ルもあった、と宮司である千家(せんげ)家に代々伝わる『金
輪造営図』に記されている。

 96メートルというのは事実かどうか分からないが、48メ
ートルの方は物証がある。出雲大社の境内3カ所から巨大な柱
が発見されているのである。それぞれの柱は、直径1.35メ
ートルの杉材3本を金輪で締めて一組にしたもので、さしわた
し約3メートルもあった。

 これらの柱は、『金輪造営図』で記されている図とよく一致
しており、また科学分析の結果、宝治(1248)年に造営された本
殿跡の可能性が高いとされている。

 神話によれば、大国主神(おおくにぬしのかみ)が天津神
(あまつかみ)に国譲りをした時に、天津神が大国主神の住居
を造り、「高天原にとどくほど千木(ちぎ、屋根の上で交叉さ
せた2本の木)を高く聳(そび)えさせる」と約束したという。
大国主神を祀る出雲族との平和的統一を実現しようという狙い
があったのだろう。

 大国主神を祀ることを命ぜられたのが、天照大神の第二子
・天穂日命(あめのほひのみこと)だが、現宮司の千家尊祐氏
はその84代の子孫にあたる。ちなみに第一子の天忍穂耳尊
(あめのおしほみみのみこと)の子孫が現在の皇室である。

■4.世界最大の陵墓■

 木造建築技術とともに、日本全国に数万基あるといわれる古
墳は、古代の土木建築技術の蓄積を物語っている。その最大の
ものが、大阪府堺市にある仁徳天皇陵である。

 全長が486メートル、高さ34メートル、取り囲む二重の
濠を含めた総面積は34万5480平米である。秦の始皇帝陵
墓の底面積11万5600平米の3倍、エジプト最大のクフ王
の大ピラミッドの底面積5万2900平米の6倍以上である。

 大林組の試算によれば、土を盛り上げるために10トンのダ
ンプカーで25万台分の土が運ばれたという。1日3千人ほど
の労働力で15年8か月もかかったであろうと推定されている。

 この古墳の埋葬者とされる仁徳天皇は第16代天皇で、記紀
によれば西暦400年前後に崩御された。その記述では、仁徳
天皇は次のように語られたという。

 そもそも天が君(天皇)を立てるのは、まったく百姓の
ためなのである。従って君は百姓をもって本とする。それ
だから、昔の聖王は、一人でも飢えこごえる者があれば、
反省して自らの身を攻めたのである。[1,p33]

 人家のかまどから炊煙が立ち上っていないことに気づいて租
税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替
えなかった、という有名な逸話も伝わっている。

 さらに日本書紀によれば、天皇は河内平野の水害を防ぎ、開
発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付
近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だった
とされる。その他にもいくつかの土木事業を行われた。 [2]

 こうした仁徳天皇の善政は、当時の国民の心を掴んだ。天皇
の宮室造営の命が下った時に、こう書かれている。

 百姓は、みずから進んで、老人を扶(たす)け、幼児を
携えて、材料を運び、簣(き、もっこ)を背負って、昼夜
を問わずに、力を尽くして競いつくった。[1,p36]

 全国に数万もあるという古墳は、それ自体が日本民族の先祖
崇拝の証であろう。そして皇室こそ、民族の宗家であった。天
皇陵とされる古墳だけでも80近くあるという。古代の国民は、
肉親の情を持って、歴代天皇をお祀りするために、古墳を作り
続けてきたのであろう。

 秦の始皇帝は中国を統一して初めての皇帝となったのだが、
巨大陵墓などの大土木工事によって民衆の反乱を招き、わずか
一代で滅んでしまったのとは、まことに対照的である。

■5.美しき最古の木造建築、法隆寺五重塔■

 再び、木像建築の分野に戻るが、現存する木造建築として世
界最古のものが法隆寺である。その五重塔は高さ32メートル
余、総重量は1200トン。心柱は直径2.5メートルで、樹
齢2千年以上の檜(ひのき)材を用いている。

 通説によれば、推古天皇9(601)年、聖徳太子が法隆寺を建
立された。『日本書紀』には670年に焼失したという記事があ
ることから、その後に再建されたという説もあるが、五重塔の
心柱は年輪年代測定によって591年のものと判明している。い
ずれにせよ、これだけの建物が600年頃に建てられたという事
実は動かない。

 その後、1400年間、記録に残っているだけでも40回以
上の地震が畿内にあったが、倒壊せずに残っている。マグニチュ
ード7.2の直下型地震に襲われても、塔は蛇のような動きを
して衝撃を分散して、倒壊しないという、高度に合理的な構造
設計がなされている。[d]

 また、法隆寺のデザインの秀逸さについて、国際美術史学会
副会長の田中英道・東北大学名誉教授は、こう評価している。

 右手に雄大な金堂を配し、左手に高秀な塔を置き、さら
にそれを取り囲む回廊が、見事な統一性をつくり出してい
る。左右に並ぶ独特な配置による、金堂、五重塔の黄金分
割による比例美は、中国・朝鮮にも存在しない。[1,p49]

 この寺院の中で、1400年後の現在も修行僧たちが勉学を続け、
四季折々の行事を続けている事も、その美しさに花を添えてい
る。

■6.ブロンズ像の傑作、奈良の大仏■

 世界最古の木造建築・法隆寺と比肩するのは、現存する中で
世界最大級の木造建築である東大寺大仏殿である。正面の幅
58メートル、奥行き51メートル、高さ実に57メートルに
達する。

 この中に鎮座まします奈良の大仏は、これまた世界最大のブ
ロンズ像とされている。創建は天平勝宝4(752)年。当時の大
きさは高さ16メートル、重量250トンと計算されている。

 大仏は二度の大火に遭い、創建当時の姿は唯一焼け残った大
仏蓮弁の線刻から窺い知ることができるとされているが、それ
を見ると、現在の大仏と同様に、顔、首、肩にかけての豊かな
肉付き、前方に掌を向けた右手の一本一本の指の関節にいたる
までの自然な動き、ゆるやかな衣服のひだ、などがリアルに表
現されている。

 大仏建立の中心となった仏師は、国中連公麻呂(くになかの
むらじきみまろ)であり、前述の田中英道教授は公麻呂をミケ
ランジェロ、古代ギリシャのパルテノン神殿の建築と彫刻を残
したフェイディアスとともに、世界三大巨匠としている。単に
最大のブロンズ像というだけでなく、芸術的にも人類史に残る
ものである。[e]

 大仏建立を発願された聖武天皇は、次のような詔を出してい
る。

・・・三宝(仏法僧)の威光と霊力に頼って、天地共に安
泰になり、よろずの代までの幸せを願う事業を行って、生
きとし生けるものがことごとく栄えることを望むものであ
る。・・・ただ徒に人々を苦労させることがあっては、こ
の仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるい
はそしり(悪くいうこと)を生じて、かえって罪に陥るこ
とを恐れる。・・・国・郡の役人はこの造仏のために、人
民の暮らしを侵し、乱したり、無理に物資を取りたてたり
することがあってはならぬ。[1,p75]

 大仏は国民の安寧を願う聖武天皇の大御心の産物なのである。

■7.現存する世界最古の博物館■

 天平勝宝8(756)年、聖武天皇が崩御されたのだが、光明皇
后の嘆きは深く、天皇の遺品を東大寺に献ぜられた。その品々
は約1万点にも及び、それぞれに由緒、来歴、造作、形式など
を正確に記載した『国家珍宝帳』が作成された。

 その内容は仏具、武具、文房具、楽器、遊戯具、調度、食器
類、装束、文書類など、美術品のみならず文化人類学や民俗学
的資料に及んでいる。また唐代の遺品も数多くふくまれ、さら
に遠く中近東・ギリシャ・ローマにつながるものも少なくない。

 このようなコレクションは世界でもほとんど例がないために、
正倉院の宝物は、世界中の人々から驚異の眼差しで称賛され、
人類の宝とまで呼ばれている。

 宝物の保存状態も、時代の最先端をいっていた。まず建物が
檜材を井桁状に積み重ねた「校倉(あぜくら)造り」で、空気
の吸入、排出の作用があり、湿度が調整される。檜材の放つ芳
香が、室内の空気を清浄にし、殺菌の効果を持っている。さら
に宝物は杉の唐櫃(からびつ)に入っており、湿度は70パー
セントに保たれ、空気に触れることも少なかった。日本の古代
からの木造建築の技術が活用されたのであろう。

 貴重な文化財を国家が管理・保存し、展示するという「博物
館」の概念は、16世紀フィレンツェのウッフィチ美術館、
18世紀中葉の大英博物館、同世紀末のルーブル美術館などを
通じて確立されたものだが、この意味で正倉院は現存する世界
最古の博物館と言って良い。

■8.日本文明のエネルギーの源泉■

 以上の日本文明の足跡を見れば、世界最古とか世界一がかく
も多いことに驚かされる。これ以外にも、[1]には我が国が世
界一を誇る文物が多数、紹介されている。国土としては小さな
国なのに、このような文明の活力、創造力はどこから湧いてき
たのだろう。

 本稿で紹介した項目を通して見ると、以下の2点が言えるよ
うに思う。

・我が国は古代から豊かな自然環境の中で、国内が早くから皇
室を中心に平和にまとまり、そこで蓄積された富と技術を用
いて先進的な文明を育んできた。その中には、皇室自身が主
導的な役割を果たしたものも多い。

・皇室がひたすらに国民の安寧を祈り、それを受けて国民の間
にも国家公共のために尽くそうという公共心が充溢していた。
それが、利己的な国民には及びもつかないような文明の産物
を生み出した。

 こう考えれば、「万世一系」の皇室こそが日本文明のエネル
ギーを生み出した源泉である、と言えるのではないか。
(文責:伊勢雅臣)
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この記事を拝読しながら、東京のs女史と兵庫県にお住まいのマイミクのR女史を想起していた。s女史とは東京ということもあり未だお目にかかっていない。上京の折には是非お逢いしたいお一人です。
兵庫のこの女史は、家庭での仕草は存じませんが、外出されたときの姿は着物姿です。
そのお姿を偲びながら、読ませていただきました。
この記事は皆様のご紹介しない手はないと、ここにご紹介する次第です。



伊勢雅臣先生の 国際派日本人養成講座 より転載しています。

国柄探訪: きものの叡智 ~ 愛・美・礼・和
きものに込められた我が先祖の叡智を知ろう
■転送歓迎■

■1.法王ヨハネ・パウロ2世ときもの■

 1985(昭和60)年、バチカン市国のサン・ピエトロ寺院講堂
には、法王ヨハネ・パウロ2世に拝謁するために世界中から8
千人の人々が集まっていた。法王が姿を現すと、どよめきが起
こり、全員で厳かに祈りを捧げた。

 最前列の1番から100番までの席には、和服を着た日本人
の一行が座っていた。法王はそれらの人々に向けて、日本語で
こう挨拶した。

 日本の皆様、よくいらっしゃいました。世界を回って
日本の伝統的なきものと、きものの美しさを世界に紹介し
ておられる装道きもの文化使節団の皆様に、私も心からの
挨拶を贈ります。ありがとう。

 その後、法王はわざわざ壇上から下りて、使節団の団長・装
道きもの学院院長の山中典士氏の手をしっかりと握り、記念の
メダルとロザリオを贈った。山中氏は、こうお礼を述べた。

 法王様にまじかにお目にかかることができ、また日本語
で暖かいお励ましのお言葉をいただき、大変感激しており
ます。この感激を忘れずに、世界平和に役立ちたいと思い
ます。今日は法王様に日本の平和の象徴のきものをお贈り
しますので、ぜひお召しいただきたいと存じます。

 山中氏がきもの一式を献上し、羽織を広げると、法王はその
場で法衣の上から羽織られ、「ありがとう」と何度もお礼を述
べ、使節団一人ひとりの手を堅く握られた。この異例の光景に、
8千人の観衆は期せずしてどよめき、拍手が湧き上がった。
[1,p193]

■2.「こんなに美しい衣服が地上には存在するのですね」■

 昭和45(1970)年に第一回の「装道礼法きもの文化使節」を
香港・マカオに送って以来、毎年100名から150名の使節
団が海外に派遣されてきた。これまで訪問した国は100カ国
に達し、87都市で「きものパレード」、67会場で「装道講
演ときものショー」を行っている。参加者は出発から帰国まで、
きもので通す。

 使節団に参加した若い女性は、次のような感想を語っている。

 どんなに豪華なものを身につけても、ドレス姿では欧米
の女性には気おくれしてしまいます。プロポーションが違
いますから。でも、きものを着ると、最高級ホテルでもレ
ストランでも、格式の高いパーティーの席でも、自信を持っ
て胸を張っていられます。[1,p199]

 男性も同様で、袴(はかま)をつければ、腰が据わり、腰板
がついているので、背筋も自然に伸びる。外国人から見れば、
立派なサムライに見える。

 別の若い女性は、こんな感想を漏らしている。

 きものは、世界のどんな国の人が見ても、美しく魅力的
なのだということがわかりました。私たち日本の女性には、
きものという外国人に向かって誇るべきものがあるのです
ね。私はこれから、洋服を着ているときも、心にきものを
装わせることにします。そうすれば、どんな人にも引け目
やコンプレックスを感じずに、胸を張ってつきあっていけ
ると思います。

「きものは、世界のどんな国の人が見ても、美しく魅力的なの
だ」とは、使節団からきものを贈られた人々の感想が証明して
いる。スペインのソフィア妃殿下は、贈られたきものを着て、
こんな実感の籠もったメッセージを寄せた。

 美しい。美しいというしかありません。こんなに美しい
衣服が地上には存在するのですね。

■3.愛と美と礼と和の四つの叡智■

 この使節団訪問とともに行われるのが、山中氏による装道講
演である。山中氏は国連本部からの招請を受けて、1980(昭和
55)年に「きものと日本の精神文化」、その2年後に「世界
を包むきものの愛」と題した講演も行っている。

 装道講演は、まず歴訪の目的から語り始める。

 世界は今、物質文明、科学技術文明が進歩し、人間生活
が大変便利に、豊かに、快適になりました。人類は今、宇
宙までも征服しようとしています。しかし、世界各地では、
宗教や民族の違いによる憎しみなどで、殺戮が繰り返され
ています。また、自然破壊や環境汚染で、地球が危機に瀕
しているといわれていますが、これは、人間が本来持って
いる優しい愛の心や、美しく生きようとする美の心、周囲
の人を尊敬する礼の心、皆と仲良くしようとする和の心を
現代文明によって失ってしまったからだと思います。
・・・

 私は、この日本のきものの中に、現代人が失った、人間
の理想である愛と美と礼と和の四つの叡智が込められてい
ることを発見しました。今日は皆様方にそれをお目にかけ
てご理解いただきたいと思います。[1,p201]

■4.きものに込められた愛の智慧■

 この後で、反物を持った5人のモデルが舞台に登場する。幅
38センチ、長さ約13メートルの反物を広げて見せて、これ
がきものの原型であることを紹介する。その布はあらかじめ裁
断され、マジックテープでつないである。

 テープをはずして、それぞれの布を身ごろ、袖、襟などとし
てモデルの身体にかけて糸で留めていくと、きものの形がほぼ
できあがる。

 数十年前まではこの布を織り上げるにも愛の心を込め、
さらにこれを妻は夫のため、母はわが子のために、一針一
針に愛の心を込めて縫い上げたのです。そうすることで、
きものは深い愛の心が込められていくのです。

 ついで、きものから糸を引き抜き、マジックテープでつなぐ
と、また元の反物に戻る。観客は驚いて、一斉に拍手を送る。

 洋服は身体にフィットさせるために曲線裁ちをして、余った
部分は捨ててしまうが、きものは直線裁ちで、余った部分は端
を折って調整する(「端折る」から「はしょる」という俗語と
なった)ので、元の反物に戻せるのである。

 このように、きものはすべて直線裁ちのため、何度も仕
立て直し、デザインの染め替えができるのです。ですから
きものは、親から子、子から孫へと、代々引き継がれてゆ
きます。そしてさらに、手さげ鞄、風呂敷、装飾品、掛け
軸、布団、座布団、子供の遊具、雑巾など最後までリサイ
クルできるのです。

 これが、地球環境を守る愛の智慧なのです。また、きも
のが引き継がれるときには、愛の心を伴った役目も果たし
ています。実際、私の着ている黒紋付きのこのきものは、
約百年前、父が結婚式の折りに仕立てたものを兄が着て、
さらに母が私の寸法に合わせて仕立て直ししてくれたもの
です。このきものを着ると、父の導き、母の愛をひしひし
と感じます。[1,p203]

■5.美の智慧■

 次に山中氏は、きものに込められた美の智慧について語る。

 洋服は、着る前にデザインが完成されるのに対して、き
ものは、着る人が着るときにデザインを完成させるのです。
ですから、一枚のきものは、着る人によって優雅にも無粋
にも装われます。また、きものはプロポーションを見せる
表現をしないのが特長です。ですから、きものを美しく装
うことは芸術であり、教養や品性や感性という心の美の表
現になるのです。[1,p206]

 西洋のイブニング・ドレスの場合は、着る人はデザイナーが
デザインしたドレスを身につけるだけで、選択の余地は少ない。
それに対して、きものの場合は、その下に着て襟元や袖口を見
せる長襦袢、そして帯、履き物、バッグまたは巾着など、着る
人自身で、さまざまなコーディネートができる。

 また、イブニング・ドレスは身体の線がそのまま出てしまう。
若いスタイルの良い女性にはそれで良いだろうが、お年を召し
た女性、恰幅のよくなった女性にはまことに気の毒である。

 それに対して、きものは身体の線を見せない。したがって、
若い女性はあでやかさなきもの、中高年女性はしっとりとした
落ち着いたきもの、というように、年齢や個性に合った美しさ
を表現することができる。

 まさに、自分に合ったきものを選び、装うことは、それ自体
が芸術であり、「教養や品性や感性という心の美」の表現なの
である。

■6.礼の智慧■

 第三は、礼の智慧である。

 日本には、昔から、襟を正す、折り目正しく、つつまし
く、袖振り合うも他生の縁、辻褄が合う、躾をする、など
の礼を表現する言葉があります。これらはすべて、きもの
から生まれた礼を表現する言葉で、謙虚な心を表し、相手
に対する尊敬を表しています。きものは先に述べたように、
肉体をすっぽりと包みますから、つつましい謙虚な心を育
むのです。だからこそ以前の日本人は、自己主張を避け、
相手を尊敬する礼儀作法の習慣を身につけたのです。
[1,p207]

「つつましい」の語源は「包む」と同じで、むき出しの心を包
んで覆う意味である。辻褄の「辻」は「縫い目が十文字に合う
ところ」、「褄(つま)」は「長着の裾の両端の部分」で、合
うべき部分が合わないことを「辻褄があわない」という。「躾」
とは仕立てが正確にできるように、「仕付け糸」で仮縫いをす
ることから来ている。

 きものを作り、着こなす技術は、日本人に礼の智慧を教えて
きたのである。

■7.立ち居振る舞いの礼■

 さらに、山中氏はきものを着たときの立ち居振る舞いを「装
道礼法」として教えている。その一部を紹介しよう。[1,p53]

 美しい姿勢
頭まっすぐ、顎(あご)引いて
視線は遠く、水平に
背筋伸ばして、胸を張り
両腕真横に、指先そろえ
おなかを引いて、両足そろえ
天地と我と一直線

 美しい立ち方
上体ゆらさず、腰うかせ
爪先たてて、左右の踵(きびす)はなさずに
左足より、半足すすめ
上体おしあげ、起ちながら
左足後ろに引いて、そろえつつ
すうっと静かに、直立姿勢

 このような気品ある立ち居振る舞いは、自らの姿勢を正すと
共に、相手に対する礼の心を育てる。

■8.人と自然の和、人と人との和■

 最後に、山中氏はきものに込められた「和」の智慧を語る。
[1,p209]

 日本は、春夏秋冬の美しい四季に恵まれています。昔は
きものを装う場合に、装う季節の自然の紋様を選んで装い
ました。そこで、きものを装うことが、自然と調和する心
を育んできたのです。季節ごとの花鳥風月をきものの絵画
模様に取り入れてきました。これが自然と調和して生きる
智慧なのです。

 また、不思議なことに、きものを着ると女性は女性らし
さを、男性は男性らしさを、男女それぞれの特質を発揮し、
平等の立場で調和していきます。きものは、人と人とを結
び、調和させていく、すばらしい智慧の衣服なのです。

 まさに、きものは、人と自然の和、人と人との和を育む働き
を持っている。

■9.形から心に至る「道」の文化■

 講演のしめくくりに、山中氏は、日本の「道」の文化を紹介
する。[1,p211]

 日本には、繰り返し稽古をすることで身につけていく叡
智があります。それが形から心に至る「道」の文化です。
「茶道」「華道」などに代表される「道」の文化は、その
行為の中で、技術を身につけるだけではなく、礼から道へ、
人間性を高めていくのが目的です。

 西洋では紅茶の入れ方や、フラワー・アレンジメントは技術
や芸術とはなっても、それが人間性を高める「道」とまでは考
えられなかった。「道」こそ日本文化の本質である。

 そこで私は、世界中の人々の共通行為である衣服の装い
に着目し、それを「道」に高める「装道」を展開していま
す。毎日繰り返し行う装いの中で、きものに込められてい
る愛美礼和を身につけ、理想的な美い人生を実現していた
だきたいのです。

 この装道を教育改革に活かしたいという文部省からの依頼も
あって、昭和49(1974)年から毎年100人以上の高校の先生
に装道の教育が行われてきた。以来、3千校の先生方が受講し、
全国各地の高校できもの教育が行われてきた。あるアンケート
調査では、きもの教育を受けた女子高生の実に94%が「きも
のを着たい」と答えている、という。

 平成10(1998)年には、衆議院において「中学校における和
装教育実施に関する請願」が全会一致で採択され、平成14
(2002)年度から小中学校の「技術・家庭」の中で、きもの教育
ができるようになった。

 こうしたきもの教育を通じて、日本のすべての子供たちに、
我々の先祖が数千年の歳月をかけて育んできた愛・美・礼・和
の智慧に触れて欲しいと思う。
(文責:伊勢雅臣)

小生、「年寄りの冷や水」ではありませんが、この年になって、ベテランの中に交じって中国語を学び始めていますが、そこで築いたことは、文字に対する感覚が中国人と日本人では180度の違いがあることです。

一言でいえば、「簡略化されることは、合理的だ」という考えです。
感じが意味するものなんて無関係です。
日本でいうカタカナがありませんから、外来語も発音からその発音に近い簡略漢字を当てています。

こんな国にまともな文化が育つはずがないと思うのは極論でしょうか。

以下転載です。



伊勢雅臣先生の国際派日本人養成講座 より転載しています。

国柄探訪: 大和言葉の世界観

「鼻」は「花」、「目」は「芽」。大和言葉に
は古代日本人の世界観が息づいている。

■1.目と芽、鼻と花、歯と葉■

 目と芽、鼻と花、歯と葉、耳と実(み)、頬と穂(ほ)。顔
と植物の各パーツが、まったく同様の音を持つ言葉で呼ばれて
いるのは、偶然だろうか?

 万葉学者の中西進氏の説によれば、これらは語源が共通して
いるからだと言う。漢字にすれば、まったく別の言葉のように
見えるが、古代の日本人は、顔のパーツも植物のハーツも、
「め」「はな」「は」「み」「ほ」と同じように呼んで、同じ
ようなものと考えていたようだ。

 たとえば、鼻は顔の真ん中に突き出ている。同様に「花」も、
植物の枝先の先端に咲く。そして岬の端も「はな」と呼ぶ。薩
摩半島の「長崎鼻」がその一例である、さらに「かわりばな」
「しょっぱな」「寝入りばな」など、物事の最初を表す意味も
持つ。

「からだ」とは、幹をあらわす「から」に接尾語の「だ」がつ
いたものである。「から」が植物にも使われた例は、稲の茎の
「稻幹(いながら)」、芋の茎の「芋幹(いもがら)」などの
言葉に残っている。

 古くは手足のことを「枝(えだ)」と呼んだ。「手」「足」
と呼び分けるようになったのは、奈良時代あたりからである。

 もう明らかだろう。我々の先祖は、植物も人体も同じものだ
と見なしていたのである。すべては「生きとし生けるもの」な
のだ。こうして古来の大和言葉の源を辿っていくと、古代日本
人の世界観が見えてくる。

■2.咲く、幸い、盛り、岬、酒■

 花が「咲く」のと、人の「幸い」も同根である。「幸い」は
「さきはひ」で、「さく」と「はひ」に分かれる。

「さく」は「咲く」である。ものがそのピークの状態になるこ
とを意味する。ちなみに「花盛り」の「盛り」も、「さか」+
「り」で、花が咲きあふれているピークの状態を意味する。岬
も「み(美称)」+「さき」で、海や湖に突出した形状の土地
を指す。お酒の「さけ」も、酒を飲むことで、気持ちが高揚し、
幸福感を抱く。

「はひ」は「延ふ」で、ある状態が長く続くことを指す。「味
はひ」は、「あの人の言葉には味わいがある」と言うように、
「長く続く味」を意味する。

 とすると、「さきはひ」とは「咲く」という花の満開状態が
「延ふ」、長く続く、ということになる。心が花開くような嬉
しさが、持続的に続く状態と考えれば、古代人がこの言葉に込
めた語感がよく伝わってくる。

 現代人は「幸福」とは何か、などと抽象的に考えるから、訳
が分からなくなる。「さきはい」とは「心の中に花が咲きあふ
れて、長く続く状態」と知れば、それはお金や地位などの外的
物質的なものに関わりなく、純粋に心の有り様であることが分
かるだろう。

■3.人と草木の一生■

 草木が春に芽ぐむことを「萌える」と言う。「萌える」は
「燃える」と同じで、火が盛んに起こった状態を指す。「仕事
に燃える」「燃える恋」などと、人が心の中で情熱を燃やして
いる状態にも使われる。

 人が最も燃える時期が「青春」だが、同様に春に草木の生命
力が盛んに燃えて、新しい芽を出すのが「萌える」である。

 この後に、前述の「花盛り」を過ぎて、実が「なる」時期が
到来する。「なる」は人にも使われて、現在でも「大人になる」
「人となり」などと使われる。「なる」とは、そのものの生命
力が発現された状態を指した。

 やがて人も草木も老いて、生命力を失っていく。植物では水
分を失ってしおれる事を「しなゆ」と言った。「ゆ」は自然に
そうなる事をいい、「しぬ」は「萎(しな)える」、水分を失っ
て、くたっとなった状態を指す。「しぬ」は、人間の「死ぬ」
にも使われているが、本来の意味は命が絶えた状態ではない。

 植物の命が絶えるのは「枯れる」である。完全に水分が失わ
れた状態を指す。「枯れる」の古語は「離(か)る」と言い、
人間で言えば、魂が体から離れることを言った。

 体から離れた死者の魂は、「ねのくに(根の国)」に戻ると
古代日本人は考えた。「ね」は母なる大地である。そこから、
人も草木もまた「たね」を育み、「め」を出し、「はな」を咲
かせていくのである。

■4.「生きる」「息」「命」■

「生きる」「息(いき)」「命(いのち)」は、どれも「い」
で始まっている。「いきる」の古語は「いく」であるが、これ
は息(いき)と同根である。息をすることが、生きることであ
る。だからこそ、息をする器官である「鼻」が、顔の中心だと
考えられたのである。

「いのち」の「い」は、「生く」「息」と同じである。そのほ
かにも、「い」は「忌(い)む(慎んで穢れを避けること)」
「斎(いつ)く(神などに仕えること)」など、厳かな意味を
持つ。

「いのち」の「ち」は不思議な力を持つもの、すなわち霊格を
表す言葉で、「おろち(大蛇)」「いかづち(雷)」「ちち
(父)」などに使われている。生けるものの体内を流れる「血」
も、不思議な力の最たるものであった。この「ち」に「から
(そのもの)」を合わせた言葉が「ちから(力)」である。
「ちち(乳)」も、生命を育む不思議なちからを持った存在で
ある。

 したがって、「いのち」は「忌(い)の霊(ち)」とでも言
うべき、忌み尊ぶべき霊力である。そのような尊厳ある「いの
ち」が、草木や人間に宿っていると、古代の日本人は考えたの
である。

■5.「たまきはる命に向う」■

『万葉集』の相聞歌に、中臣女郎(なかとみのいらつめ)が大
伴家持に贈った、次のような歌がある。

直(ただ)に逢(あ)ひて見てばのみこそたまきはる命に
向うわが恋止(や)まめ

 お便りだけでなく、じかにお会いしてこそ、「たまきはる命
に向う」私の恋心も安らぐでしょう、という意味である。

「命に向う恋」とは、諸説あるが、ここでは、自分の生命力の
根源である「いのち」に相対して、それを苦しめている恋心で
ある、とする説をとる。「いのち」が人を生かしめている不可
思議な力である、とすればこそ、それをすら苦しめる恋心の強
さが感じ取れる。

「たまきはる」とは何か。「たま」とは霊魂である。「きはる」
は「きわめる」の古語「きはむ」で、極限(きは)を求めるこ
とを意味する。わが魂の根源にある「いのち」、それが「たま
きはるいのち」だと考えられる。

「命に向かうわが恋」を「命を賭けた恋」とする解釈もあるが、
それでは「成就しなければ命を捨てよう」という、迷いも苦し
みもない意志的な生き方となる。「魂の根源にある生きる力を
苦しめている恋」に比べれば、きわめて平板な人間観になって
しまう。

■6.「恋ふ」「思ふ」「悲し」■

「恋い」とは、「魂乞(たまご)い」であり、恋人の魂を乞う
ことだ、というのが、国文学者で歌人であった折口信夫の説で
ある。「恋い」と「乞い」は、古代の発音は多少異なっている
が、だからこそわずかな意味の違いを持つ仲間語だとも言える。

「乞ふ」とは離ればなれとなっている恋人同士が、互いの魂を
呼び合うことだった。魂の結合こそが、恋の成就だったが、そ
れがなかなか実現しない切なさ、それこそが「こひ」だった。

 そう考えれば、「わが恋止(や)まめ」とは、「あなたの魂
を乞う思いが、ようやく止まるだろう」という切なさが伝わっ
てくる。

「恋ふ」と同様な言葉に「思ふ」がある。現代語でも「あの人
を思っている」と言う。「おもふ」の「おも」は、「重い」の
「おも」であり、心の中に重いものを感じとることが「思ふ」
である。「あの人を思ふ」「国の行く末を思ふ」とは、大切な
ものの重みを心の中に感じながら、あれこれと考えることであ
る。

「悲し」という言葉もある。「妻子(めこ)見れば かなしく
めぐし」とは大伴家持の長歌の一節である。「かなし」の語源
は「かぬ」で、今日でも「その仕事はできかねる」というよう
に、力が及ばなくて、果たすことができない、という意味であ
る。「会いたいのに会えない」「幸せにしてやりたいのにでき
ない」、そのような愛するものに対する、切なる悲哀を表す言
葉が「悲し」であった。

■7.「ねがふ」「いはふ」「のろふ」■

 求婚することを古代の日本語では「よばふ」と言った。「よ
ばふ」とは「呼ぶ」+「ふ」で、「ふ」は継続を意味する。
恋人の魂を「呼び続ける」ことである。

 同様に「妻子の幸せを願う」などと言う時の「願う」は「ね
ぐ」に「ふ」がついた言葉で、「ねぐ」とは「和らげる」とい
う意味。神様の心を和らげて、何度もその加護を願うことだっ
た。神職の一つに「禰宜(ねぎ)」があるが、これは神の心を
和ませて、その加護を願う仕事を指す。

 同様に、「いはふ」は「言う」を続けること。神様を大切に
する気持ちを繰り返し言うことで、これが「斎ふ」という言葉
になった。

「のろふ」は、「のる」+「ふ」で、「のる」を続けることで
ある。「のる」は「祝詞(のりと)」、「名のり」などに、残っ
ているように、「重大なことを告げること」を意味する。転じ
て、神様の力を借りて、相手にわざわいをもたらそうとするの
が「のろふ」である。

 日本の神様は、それぞれに支配する範囲が決まっていて、時
おり、その地に降りてきて、人間の「ねがひ」「いはひ」「の
ろひ」などを聞いてくれる。その神様に出てきて貰うために、
笛を吹いたり、囃したりして、「待つ」ことが「まつり」だっ
た。その動詞形が「まつる」である。

 古代日本人にとって、神様とはそのような身近な具象的な存
在であった。

■8.「天(あめ)」「雨(あめ)」「海(あま)」■

 そうした神様の元祖が「天之御中主神(あめのみなかぬしの
かみ)」である。「天(あめ)」の「御中(みなか)」にいる
「主(ぬし)」である。

「天(あめ)」は「海(あめ)」でもあった。「天」は「海」
のように青く、そこからときおり「雨(あめ)」が降ってくる。
そんなことから、古代日本人は天には海と同じような水域があ
ると考えたようだ。

 水が大量にある所を「海(うみ)」と言う。「うみ」は、昔
は「み」とも言った。「みず」の古語は「みづ」だが、これも
同じく「み」と言った。一面にあふれることを「みつ(満つ)」
と言う。

 この「みつ」から「みづみづし」という言葉も生まれた。
「瑞穂(みずほ)の国」とはわが国の古代の自称であるが、水
を張った水田に青々とした稲穂が頭を垂れている姿は、古代日
本人のふるさとの原景なのだろう。

■9.和歌は日本人の固有な韻文に対する自負と誇り■

 以上のような大和言葉で歌われるのが、和歌、すなわち「日
本の歌」である。和歌は神様を褒め称えたり、恋人に思いを伝
える時に使われる特別な形式であった。

「いのち」という言葉に根源的な生命力を感じたり、また「恋」
という言葉に、相手の魂を乞う、そのような濃密な語感を込め
て、和歌は神や恋人に思いを伝えるものであった。

 そのような和歌を集めた歌集として、現存する最古のものが
万葉集である。雄略天皇(第21代、5世紀後半)の御歌から始
まり、農民や兵士など一般庶民の歌まで収められたまさに「国
民歌集」であるが、その中に使われた外来語は16語くらいし
かない。

 当時の語彙の数は、「古代語辞典」で解説されているものだ
けでも8千5百語ほどあるが、そのうちのわずか16語である。
それもこれらのほとんどは、「法師」「餓鬼」「香」などの仏
教用語で、巻16の戯れの歌などに使われているのみである。

 万葉集は、歌い手としては天皇から一般庶民に至るまで区別
なく登場させているが、外来語は排除し、「大和言葉」で表現
された思いを集めようとする意図が徹底されているのである。

 現存する日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』は、
万葉集とほぼ同時期に編纂されている。その時期に我が先人た
ちは中国から入ってきた漢詩に対抗して、外来語を排して大和
言葉だけの和歌集を編んだ。この点について、中西進氏はこう
語る。

 このいきさつを考えると、和歌は日本人の固有な韻文に
対する自負と誇りを示すものと思われる。漢詩とあい対立
せしめつつ、わが国の韻文を対等に位置づけようとしたも
のであった。[2,p116]

 日本語は歴史的に中国や西洋の概念用語も積極的に取り入れ
つつ、最先端の科学技術論文にも使われている現代的な論理的
言語となっている。と同時に、その根源にある大和言葉は太古
の日本人の世界観・人生観をそのままに伝える詩的言語である。

 これは世界最古の皇室を戴きながら、世界の経済大国・技術
大国であるというわが国の姿に良く似ている。言葉と国柄とは、
お互いに支えあうもののようだ。「祖国とは国語」という言葉
が改めて思い起こされる[a]。
(文責:伊勢雅臣)

欧米の個人主義に基づく家族観が、日本社会を瓦解し始めてきた。
いまこそ日本的家族観の再確立を強く願うものです。
 欧米の個人主義こそ、日本社会をいろんな側面から崩壊させている元凶である。


国際派日本人養成講座 より転載しています。

国柄探訪: 日本人の家族観

 先祖から子孫への連綿たる生命のリレーの
中間走者として自分がいる。

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■1.「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」■

 秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前
で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いき
れない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざ
から崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま
動けなくなった。

 両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的
責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。

 かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒
す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の
加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。

・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁
(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親
は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧
米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。そ
れに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する
可能性さえある。[1,p6]

 殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、
日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見な
さない。

 加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一
体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれな
い感覚や意識」だとする。

 こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とは
まったく異なるという事が窺われるのである。

■2.家族観の違い■

 日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に
姿を現す。

 たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まっ
てきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするの
は良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、
どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」と
は他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われ
るというのは、どうしてもなじめない。

 欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の
契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖な
ものなのだ。

 また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、
もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人
した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」など
と語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつ
かないな、と感じたことがある。

 当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければなら
ない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち
得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。

 実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、
キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、そ
れが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同
じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだ
ものである。

■3.先祖の霊は「草葉の陰」で子孫を見守っている■

 古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀し
てくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。
日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのであ
る。

「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする
疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともに
ある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。

 また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖
父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の
悲しみを和らげてくれる物語であった。

 先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神とし
て祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、
という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道と
なり、中国においては儒教に発展した。

 キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国
か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない
限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。

 よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは
未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、
ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、とい
うだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるもの
ではない。

■4.インド仏教と先祖祭祀の生死観の違い■

 魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、と
する古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入って
きた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。

 インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わ
るか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。
だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これ
が本当の火葬である。

 日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に
収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なので
ある。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼
び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死
ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地
下で大切に守るのがお墓である。

 これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の
「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の
遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄
を供養できないと考えるからだ。

 これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よ
ど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー
田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋め
たい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日
本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されること
になったという。

 共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと
「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の
死生観が根づいている証左である。

■5.拒否された仏教の死生観■

 輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は
焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる
中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。

 そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼
び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。

 わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖
祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的
抵抗は少なかった。

 それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。
鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうと
いう本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却
できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。

 しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先
祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓
を作り、葬儀や先祖供養を行っている。

 今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・
葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教
に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人
の心の奥底に根付いているのである。

■6.仏壇に向かう■

 仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国に
おいては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物
を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)
や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。

 日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそ
こに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各
家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特
のものであるそうだ。[1,p191]

 仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊
が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのもので
ある。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてき
て、位牌に依りつく。

 そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して
「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願
い申し上げます」などと挨拶をするのである。

 今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先
祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族の
ため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これ
が先祖祭祀に基づく生き方だろう。

 核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏
壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもととも
に、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜
んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だ
ということを教える何よりの機会である。

■7.「出家」と「在家」の衝突■

 もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点
は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、
財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求め
ることである。

 しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀
る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の
霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場から
は、とんでもない「不孝」と考えられたのである。

 そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生
活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の
長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の
女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた
「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。

 前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、そ
の在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日で
も日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。

 オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積
めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じ
て家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。
これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。

■8.家族制度は利己心の抑制力■

「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、
まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行っ
て、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。

 しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられ
て、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族
の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活
を送る事も、そもそも不可能なのである。

 さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その
恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を
学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義
務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考
えない利己主義者になってしまう。

 西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の
自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会にお
いては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転
化する抑止力となってきた。

 わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、
家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視
する思潮がある。

 しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力
となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制
を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑
踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。

■9.「なぜ生命は大切なのか」■

 こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切に
しよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。

 それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生
命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たち
から何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教
えることができるのである。

 先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬
式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人
たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫
へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族
観が生きている。

 その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片
付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的
混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。

 これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)

改めて、御皇室のありがたさが理解できます。
御皇室は祈りにあります。

国際派日本人の情報ファイル■より転載しています。

日本人として忘れてはならない4つの日

伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1461 ■ H20.07.07 ■ 9,632 部 ■■■■■■■


 今上陛下は皇太子時代に「日本人として忘れてはならない4
つの日がある」と仰った。終戦記念日(8月15日)、広島・
長崎原爆投下の日(8月6日、9日)、沖縄戦終結の日(6月
23日)である。これらの日には、陛下は戦没者の慰霊のため
に、お慎みになる。前侍従長は・渡部充氏は次のように回想さ
れている。

 平成6(1994)年に米国を訪問された時、サンフランシスコに
到着したのが、ちょうど現地時間で6月22日、日本では沖縄
戦終結の日だった。

 陛下は「ちょうど重なってしまうが、沖縄で慰霊式典が
行われる時間はこちらでは何時ごろだろうう」とお尋ねに
なった。調べたところ、公式晩さん会の始まるころでした。
「それでは少し遅らせてもらえないだろうか」とおっしゃっ
て、両陛下はその時間にはホテルの部屋で黙とうをされて
いたようです。[1]

「皇室は祈りでありたい」とかつて皇后陛下は言われたが、こ
のお言葉そのままのエピソードである。

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