老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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伊勢先生の「 国際派日本人養成講座」より転載します。

何時もながら、日本とその国柄のす晴らしを感じさせてくださいます。
日ごろ自治体便りにカタカナ語が多いと苦情を言っているのですが、これからも日本語を大切にしたいです。

特に漫画本に、擬音で表現している等耐えられない偽日本語が横行しています。


国柄探訪: 国語の品格

 品格ある国語は、品格ある国民を作る。

■転送歓迎■ H20.06.22 ■ 38,215 Copies ■ 2,875,402 Views■
無料購読申込・ http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/


■1.吾々の護るべき第一の文化財は、日本語そのもの■

 武田鉄矢作詞の海援隊ヒット曲『贈る言葉』を好きな読者は
多いだろう。次のような歌詞で始まる。

暮れなずむ町の 光と影の中
去りゆくあなたへ 贈る言葉

「暮れなずむ」の「なずむ」とは、「すんなりと進まない」
「滞る」という意味であり、したがって「暮れなずむ」は「暮
れそうで暮れない」という意味となる。そんな夕暮れと同様、
「去りゆくあなた」も、去り難い気持ちを抱いているのだろう。

 我が祖先は「日が暮れる」という単純な現象を濃やかに観察
して、初めは「暮れそめる」が「暮れなずむ」となって、徐々
に「暮れ行き」、やがて「暮れ果てる」と表現した。

「近年、文化財の保護ということが重視されているが、吾々の
護るべき第一の文化財は、日本語そのものでなければならぬ筈
と思う」とは、慶應義塾塾長にして今上陛下の皇太子時代の教
育掛であった小泉信三の言葉である。

「日本語が文化財」というのは、「暮れなずむ」という言葉を
知り、共感できれば、そこから時の移りゆく様を惜しむ先人の
感じ方、生き様、すなわち文化を受け継ぐことができるからで
ある。

「日本語を護る」といっても、大仰に考える必要はない。我々
が「暮れなずむ」という言葉に感ずる所があれば、その言葉の
生命は我々の心の中で継承され、護られていると言える。

 そのようにして護りたい美しい言葉のいくつかを本号では紹
介したい。

■2.あけぼの、あかつき、しののめ■

 清少納言の『枕草子』の冒頭の一節は、学校で学んだ人が多
いだろう。

 春はあけぼの、やうやうしろくなりゆく、山ぎは少しあ
かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

(春はあけぼのがよい。だんだんあたりがしらんでゆき、
山際の空が少し明るくなって、紫がかった雲が細くたなび
いてるのがよい風情である)

「あけぼの」の語源は不明だが、「あけ」は「開け」または
「朱(あけ)」、「ぼの」は「ほのか」と同根だろう。太陽は
まだ地平線に姿を現さないが、東の空がほのかに明るくなって、
明け行く時を言う。

「あけぼの」の前、薄暗い時間を「あかつき」、東の空が少し
明るくなる時刻を「東雲(しののめ)」と言う。

「あかつき」は、奈良時代の「あかとき(明時)」が平安時代
に「あかつき」と転じたもの。かつては「宵」「夜中」に続い
て、まだ暗い「未明」の頃を指した。男が女の家を訪れる通い
婚の時代には、この頃に男が去っていくので、「あかつきの別
れ」という表現もある。今は空が白み始める「明け方」を指す
ようになった。転じて、物事が成就した時期を指すようにもな
り、「試験に合格したあかつきには」などと使われる。

「しののめ(東雲)」の語源は諸説あるが、山の端が細く白む
のを「篠(小竹)の芽」の細さに喩えて言ったとする説などは
視覚的で美しい。「あかつき」と同様に「しののめの別れ」と
も言う。

 あかつき時を詠った名歌を一つ。

 ひむがしの野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれ
ば月傾かたぶきぬ

(東の野にあかつきの陽炎が射すのが見えて、振り返って
見れば月が傾いていた)

 万葉集中の柿本人麻呂の絶唱である。地平線上に現れた「あ
かつきの陽炎」を「炎(かぎろひ)」と呼び、その反対の西側に
静かに沈んでいく白々とした月を対比している。

■3.月明かり、雪明かり、星明かり、花明かり、川あかり■

 昔は電灯などはなかったので、月、星、雪、花、川など、か
すかな明かりに敏感だった。月の光を「月明かり」、または
「月影」とも言う。

をとめらは夏の祭りのゆかた着て月あかりする山の路ゆく

 平成19年歌会始のお題「月」に、常陸宮華子妃殿下が詠まれ
た御歌である。

 同様に「雪明かり」「星明かり」「花明かり」「川あかり」
などとも言う。特に「花明かり」は、桜が咲き乱れて、日が暮
れても、なおそのあたりが明るく感じられる様を指す美しい言
葉である。

蜜蜂の暮れて戻るや花明かり(花臾)

は、河東碧梧桐の選んだ句で、情景が目に浮かぶようだ。

■4.五月雨(さみだれ)■

 わが国土は雨が多いので、先人たちは、雨を細かく観察し、
描写した。まずは言わずと知れた芭蕉の名句:

五月雨(さみだれ)を集めて早し最上川

(長く山野に降り続いた五月雨を集めて、速い勢いで流
れて行く最上川であることよ)

 五月雨(さみだれ)は文字通り5月に降る雨のことだが、旧
暦の5月は新暦の6月から7月にかけて。したがって梅雨時に
降る長雨を指した。

 一説に、早苗(さなえ)を植える「早苗(さなえ)月」が
「五月(さつき)」となり、その「早苗が乱れる雨」が「さみ
だれ」となったという。水田に植えられた早苗が、梅雨時の長
雨によって右に左に傾いている光景が思い浮かぶ。

■5.時雨(しぐれ)■

「時雨(しぐれ)」は秋の終わりから、冬の初めにかけて降っ
たり、止んだりする雨の事をいう。「しぐれ」は「過ぎる」に
通じ、「通り過ぎていく雨」の意と言われる。

九月(ながつき)のしぐれの雨に濡れとほり春日の山は色づ
きにけり

は、万葉集中の作者不詳の歌。紅葉で色づいた山が、しぐれ
の雨に「濡れとほり」、ひときわ、しっとりとした様が浮かん
でくる。

 旧暦の九月は新暦の10月から11月にかけての時期であり、
「夜が長くなる月」なので「長月(ながつき)」と呼ばれた、
というのが通説である。

 その他にも、季節に結びつけられた雨として、春雨(はるさ
め)、夕立(ゆうだち) 、秋雨(あきさめ)などがある。

■6.霧雨、小糠雨、篠つく雨■

 この他にも雨の降りざまによって、様々な表現がある。夏目
漱石は『草枕』の冒頭で雨の降り出す情景を次のように精密に
描写している。

 四方(しほう)はただ雲の海かと怪しまれる中から、し
としとと春の雨が降り出した。菜の花は疾(と)くに通り
過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃(こま
や)かでほとんど霧を欺(あざむ)くくらいだから、隔
(へだ)たりはどれほどかわからぬ。・・・

 糠(ぬか)のように見えた粒は次第に太く長くなって、
今は一筋(ひとすじ)ごとに風に捲(ま)かれる様(さま)
までが目に入(い)る。

 霧雨は「雨の糸が濃(こま)やかでほとんど霧欺く位」の雨。
霧雨よりもやや雨粒が大きくなると「小糠(こぬか)雨」と呼
ぶ。「小糠」は米を精白する時に出る細かい粉のこと。

 さらに雨足が太くなると「篠つく雨」という。「篠」は「し
ののめ」でも言及したが、群がって生える細い竹のこと。篠を
付き降ろしたように、激しく降る雨を描写した表現である。

 その他にも、雨の降り方に従って、俄雨(にわかあめ) 、
驟雨(しゅうう) 、豪雨(ごうう) などがある。

■7.山笑う、山滴(したた)る■

 山の景色も四季折々に表現された。「山笑う」は、山に花が
咲き乱れ、新緑が芽吹き、明るく華やいでいる様子の表現であ
る。俳句では春の季語に使われる。この場合の「笑う」とは、
高笑いというよりは、朗らかな明るい笑顔を想像すべきだろう。

 もともとは、11世紀の北宋の山水画家、郭熙の『郭熙画譜』
にある:

 春山淡治にして笑うが如く、夏山蒼翠として滴るが如く、
秋山明浄にして粧ふが如く、冬山惨淡として眠るが如し

から、俳句の季語として広まった表現とのこと。

故郷やどちらを見ても山笑ふ

 は、正岡子規の句。故郷・松山を囲む山々が、春の陽光のも
と、賑やかで活き活きとした緑で子規を迎えた様が偲ばれる。

 夏の山は「山滴(したた)る」、「緑滴る」の意である。

山滴るそのしづかさにひとりゐる

は、現代の俳人・大橋敦子氏の作。深い滴るような山中の緑の
視覚的な賑わいと聴覚的な静寂とが、対照の妙をなす。

 秋の山は「山装(よそお)う」、紅葉で美しく装った様を言
う。冬の山は「山眠る」で、白い雪に覆われて、眠り静まって
いる。

 山を擬人化して捉える表現は、古来から、山も「生きとし生
けるもの」の一つとして考えた日本人の感性には当然のもので
あったろう。

■8.いざよう、たゆたう、たなびく■

 自然を細やかに観察し、和歌や俳句で表現してきた日本人は、
その過程で美しい形容語を生み出してきた。その一つが「いざ
よう」。

もののふの八十宇治川(やそうじがわ)の網代木(あじろ
ぎ)にいさよふ波の行方知らずも

(宇治川に仕掛けられた網代木に寄せる流れは一時行く手
を遮られて行方は分からないことだ)

 柿本人麻呂の歌である。「もののふ」は「物部氏」で、多く
の氏があったことから「宇治、八十、八十宇治川」にかかる枕
詞となった。「網代木」は「網代(川魚をとるしかけ)」を支
える杭のこと。「いさよふ」は「ためらう、ぐずぐずしてはや
く進まない」の意味。

 十六夜(いざよひ)も「いざよう」が語根で、月が十五夜の
満月よりも、少し遅れてためらいがちに出てくることから、こ
う呼ばれた。

「たゆたう」は、ゆらゆらと水や空中をさまよう様子を表現す
る。

天の原吹きすさみける秋風に走る雲あればたゆたふ雲あり

 江戸時代中期の国学者・歌人、楫取魚彦(かとりなひこ)の
歌である。

「たなびく」は、雲や霞(かすみ)などが横に薄く長く引くよう
な形で空にただよう様を表す。

秋風にたなびく雲の絶えまよりもれ出づる月の影のさやけ


 新古今集に収められ、百人一首にも選ばれている藤原顕輔
(ふじわらのあきすけ)の清涼感あふれる一首である。

■9.「日本語は日本人の精神的DNA」■

 明治期の近代化の過程で、標準語や仮名遣いの統一に尽力し
た東京帝国大学国語研究室の初代主任教授・上田萬年(かずと
し)は、こう言っている。

 言語はこれを話す人民に取りては、恰(あたか)も其血
液が肉体上の同胞を示すが如く、・・・日本語は日本人の
精神的血液なりといひつべし。[1,p177]

 現代なら「日本語は日本人の精神的DNA」と言う所だろう。
本稿で紹介した歌や俳句が、あなたの心の中に響いてくるなら
ば、それはあなたの生まれや人種を問わず、あなたが日本人の
精神的DNAを継承している同胞の一人であることを示してい
る。

 そして日本語の精神的DNAを継承して、「暮れなずむ」と
いうような言葉に共感できる人は、夕暮れの一時をそれだけ豊
かな気持ちで過ごすことができる。言葉は我々の心を豊かにす
る糧でもあるのだ。

 この精神的DNAはここで紹介したように代々の日本人を通
じて継承され、発展してきたものだ。本稿では8世紀初頭に活
躍した柿本人麻呂の和歌を紹介したが、13百年前の日本人の
和歌を現代の日本人がほとんどそのまま理解し、共感できると
いうのは、驚くべき事なのである。

 こうした豊かな精神的DNAを受け継いだ幸福を、子孫に受
け渡していく義務が我々にもあるのである。
(文責:伊勢雅臣)

国際派日本人養成講座  よりの転載です。

国柄探訪: アインシュタインの見た日本
 アインシュタインが日本で見たもの、それは
人びとが慎み深く和して生きる世界だった。

皆様にも御購読をお勧めします。
無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/

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■■■ 伊勢雅臣 講演会「国際社会と日本の国柄」 ■■■
日時 :5月25日(日)14:00〜17:00
場所 :大阪府吹田市「吹田市民会館」2階宴会場
参加費無料(先着30名)。本メールの返信にて申込み下さい。

この講演会に参加しませんか。小生も参加します。
------------------------------------------------------------

■1.アインシュタインの感動■

 大正11(1922)年11月17日、アインシュタインを乗せた
日本郵船の北野丸は、瀬戸内海を通って、神戸港に近づいた。
フランスのマルセイユを出てから、1カ月以上の船旅だった。
瀬戸内海の景色について、アインシュタインはこう記している。

 私の好奇心が最高潮に達したのは、「北野丸」が日本の
海峡を進むとき、朝日に照らされた無数のすばらしい緑の
島々を見た時でした。[1,p140]

 景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態
度も、アインシュタインを感動させた。

 しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組
員全員の顔でした。いつもは朝食前にけっして姿を見せた
ことのない多くの華奢なご婦人たちは、一刻も早く祖国を
見たいと、ひんやりとした朝風も気にせず6時ごろにはい
そいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。私は
そうした人々を見て深く感動しました。

 日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛
しています。・・・[1,p140]

 これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始
まりだった。

■2.「神秘のベールに包まれている国」■

 アインシュタインの来日は、改造社の山本実彦社長からの招
待によるものだった。

 山本氏(改造社)から日本へ招待いただいた時に、私は
数ヶ月を要する大旅行に行こうとただちに意を固めました。
それに対する私の説明しうる理由というのは、もし私が、
日本という国を自分自身の目で見ることのできるこのチャ
ンスを逃したならば、後悔してもしきれないというほかあ
りません。

 私が日本へ招待されたということを周囲の人びとが知っ
たその時、ベルリンにいた私が、あれほどまでに羨望の的
になったことは、いまだかつて、私の人生の中でなかで経
験したことはありませんでした。というのも、われわれに
とって、日本ほど神秘のベールに包まれている国はないか
らです。[1,p140]

 当時の日本を限りない愛情を込めて西洋に紹介したのは、ラ
フカディオ・ハーンであった[a,b]。アインシュタインはハー
ンの著作を読み、日本への期待を抱いていた。来日後、彼は次
のような手紙を親友に認めている。

 やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はハーンの本で
知った以上に神秘的で、そのうえ思いやりがあって気取ら
ない。[1,p117]

 当時のヨーロッパは、第一次大戦が終わったばかりの荒廃し
た状態だった。多くのヨーロッパ人は、現代西欧文明の精神的
な行き詰まりを感じていただろう。それに対して日本はいまだ
「神秘のベールに包まれている国」であった。

■3.熱狂的な歓迎■

 11月17日に神戸に上陸したアインシュタインは、京都で
一泊。翌朝、東京に向かった。

 朝、9時から夕方7時まで雲ひとつない空の下、展望車
に乗って東京まで汽車旅行。海、入り江を通過。雪に被わ
れた富士山は遠くまで陸地を照らしていた。富士山近くの
日没はこのうえなく美しかった。森や丘のすばらしいシル
エット。村々は穏やかで綺麗であり、学校は美しく、畑は
入念に耕されていた。・・・

 東京に到着! 群衆に取り囲まれ、写真撮影で凄まじい
フラッシュを浴びた。無数のマグネシウムをたく閃光で完
全に目が眩む。[1,p17]

 この情景を翌日の大阪毎日新聞は大きな写真入りで、こう伝
えた。

東京駅で人びとが絶叫----「アインシュタイン!」「アイ
ンシュタイン!」「万歳!」怒濤のごとく群衆が博士に殺
到し、東京駅は大騒ぎとなった。日本人の熱狂ぶりを見て、
駅に博士を出迎えたドイツ人関係者らは喜びのあまり目に
涙を浮かべる人さえいた。[1,p19]

 この熱狂的な歓迎について、アインシュタイン自身こんな談
話を残している。

 私の生涯に、こんあことはありませんでしたよ。米国に
行った時も大騒ぎでしたが、とてもこんな赤誠はありませ
んでした。これは日本人が科学を尊ぶためでしょう。ああ
愉快だ、心からうれしい。[1,p17]

■4.「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」■

 11月19日には、アインシュタインは長旅の疲れをものと
もせずに、慶應義塾大学にて6時間もの講演を行った。読売新
聞はこう伝えている。

 6時間におよぶ講演に聴衆が酔った----慶應義塾大学で
の日本初の講演は内容は「特殊および一般相対性理論につ
いて」。1時間半から3時間の講演後、1時間の休憩をは
さみ、講演が再開され8時半に閉会。実質6時間の長講演
にもかかわらず、2000人以上の聴衆は一人として席を立た
ず、アインシュタインと通訳石原純の一言一言に静粛かつ
真剣に聞き入っていた。理屈が理解できる、できないにか
かわらず、皆アインシュタインの音楽のような声に酔いし
れたという。[1,p20]

 その後も、東京帝国大学での6回連続の特別講演、東京、仙
台、京都、大阪、神戸、博多での一般講演などが続いたが、ど
の会場も盛況で、千人単位の聴衆が集まり熱心に聞き入った。

 アインシュタインがいかに分かり易く説いたとしても、これ
だけ多くの一般的な聴衆が、相対性理論をよく理解し得たとは
思えない。東京駅での熱狂的な歓迎、そして講演での熱心な聴
講態度は、何が原因だったのだろう。

■5.「外国の学者に対する尊敬の念」■

 12月10日、京都に戻ったアインシュタインは、講演後、
京都御所を訪問し、「御所は私がかつて見たなかでもっとも美
しい建物だった」との感想をもらした。

 中庭からは即位式用の椅子がある即位の間が見えた。そ
こには約40人の中国の政治家の肖像画があった。中国か
ら実のある文化を日本にもたらしたことが評価されたため
である。

 外国の学者に対するこの尊敬の念は、今日もなお、日本
人のなかにある。ドイツで学んだ多くの日本人の、ドイツ
人学者への尊敬には胸を打たれる。さらには細菌学者コッ
ホを記念するために、一つ寺が建立されなければならない
ようだ。

 嫌味もなく、また疑い深くもなく、人を真剣に高く評価
する態度が日本人の特色である。彼ら以外にこれほど純粋
な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、尊
敬すべきである。[1,p95]

「外国の学者に対するこの尊敬の念」は、日本人の伝統だが、
近代西洋科学への尊敬はまた格別の念があった。富国強兵は、
世界を植民地化しつつある西洋諸国から国家の自由と独立を護
るための日本の国家的課題であった。そして経済力にしろ、軍
事力にしろ、その根幹は近代西洋の科学技術にあったからだ。

 そしてアインシュタインこそ、その西洋近代科学の最高峰を
体現する人物であった。当時の日本人が、彼を熱狂的に歓迎し、
その講演に陶酔したのは、「外国の学者に対する尊敬の念」と
いう伝統と共に、近代西洋科学の国家的重要性を国民の多くが
感じ取っていたからであろう。

■6.「微笑みの背後に隠されている感情」■

 日本は明治以降、ヨーロッパに多くの留学生を送り、西洋近
代科学を学び取ろうとしていた。アインシュタインは来日前か
ら日本からの多くの留学生と出会い、ある印象を抱いていた。

 われわれは、静かに生活をし、熱心に学び、親しげに微
笑んでいる多くの日本人を目にします。だれもが己を出さ
ず、その微笑みの背後に隠されている感情を見抜くことは
できません。そして、われわれとは違った心が、その背後
にあることがわかります。[1,p140]

 日本滞在中、講演と観光の合間を縫って、アインシュタイン
は多くの日本人と会った。長岡半太郎や北里柴三郎ら日本を代
表する科学者、学生、ジャーナリスト、そして一般家庭の訪問
まで。そして「微笑みの背後に隠されている感情」が何かに気
がついた。

 もっとも気がついたことは、日本人は欧米人に対してと
くに遠慮深いということです。我がドイツでは、教育とい
うものはすべて、個人間の生存競争が至極とうぜんのこと
と思う方向にみごとに向けられています。とくに都会では、
すさまじい個人主義、向こう見ずな競争、獲得しうる多く
のぜいたくや喜びをつかみとるための熾烈な闘いがあるの
です。[1,p141]

 全世界の植民地化、そして1900万人もの死者を出したと言わ
れる第一次大戦は、この「熾烈な闘い」の結果であろう。

■7.「日本人の微笑みの深い意味が私には見えました」■

 それに対して、日本人はどうか?

 日本には、われわれの国よりも、人と人とがもっと容易
に親しくなれるひとつの理由があります。それは、みずか
らの感情や憎悪をあらわにしないで、どんな状況下でも落
ち着いて、ことをそのままに保とうとするといった日本特
有の伝統があるのです。

 ですから、性格上おたがいに合わないような人たちであっ
ても、一つ屋根の下に住んでも、厄介な軋轢や争いになら
ないで同居していることができるのです。この点で、ヨー
ロッパ人がひじょうに不思議に思っていた日本人の微笑み
の深い意味が私には見えました。

 個人の表情を抑えてしまうこのやり方が、心の内にある
個人みずからを抑えてしまうことになるのでしょうか? 
私にはそうは思えません。この伝統が発達してきたのは、
この国の人に特有のやさしさや、ヨーロッパ人よりもずっ
と優っていると思われる、同情心の強さゆえでありましょ
う。[1,p142]

「不思議な微笑み」の背後にあるもの、それは「和をもって
貴し」とする世界であった。

■8.「自然と人間は、一体化している」■

 日本人の「個人の表情を抑えてしまうこのやり方」のために、
アインシュタインは日本滞在中も、その心の奥底に入り込むこ
とはできなかった。

 けれども、人間同士の直接の体験が欠けたことを、芸術
の印象が補ってくれました。日本では、他のどの国よりも
豊潤に、また多様に印象づけてくれるのです。私がここで
「芸術」と言うのは、芸術的な意向、またはそれに準じ、
人間の手で絶えず創作しているありとあらゆるものを意味
します。

 この点、私はとうてい、驚きを隠せません。日本では、
自然と人間は、一体化しているように見えます。・・・

 この国に由来するすべてのものは、愛らしく、朗らかで
あり、自然を通じてあたえられたものと密接に結びついて
います。

 かわいらしいのは、小さな緑の島々や、丘陵の景色、樹
木、入念に分けられた小さな一区画、そしてもっとも入念
に耕された田畑、とくにそのそばに建っている小さな家屋、
そして最後に日本人みずからの言葉、その動作、その衣服、
そして人びとが使用しているあらゆる家具等々。

 ・・・どの小さな個々の物にも、そこには意味と役割と
があります。そのうえ、礼儀正しい人びとの絵のように美
しい笑顔、お辞儀、座っている姿にはただただ驚くばかり
です。しかし、真似することはきません。[1,p142]

「和をもって貴し」とする世界で、人びとは自然とも和して生
きてきたのである。

■9.アインシュタインの警告■

 明治日本が目指した富国強兵は、西洋社会の闘争的世界に、
日本が参戦することを意味していた。国家の自由と独立を維持
するためには、それ以外の選択肢はなかった。しかし、闘争的
な世界観は「和をもって貴し」とする日本古来の世界観とは相
容れないものであった。

 また富国強兵を実現するために、明治日本は西洋の科学技術
を学んだ。しかし、近代科学の根底には、自然を征服の対象と
して、分析し、利用しようとする姿勢があった。それは自然と
一体化しようとする日本人の生き方とは異なるものであった。

 西洋近代科学を尊敬し、アインシュタインを熱狂的に歓迎し
た日本国民の姿勢は、彼が賛嘆した日本人の伝統的な生き方と
はまた別のものであった。両者の矛盾対立について、アインシュ
タインはこう警告している。

 たしかに日本人は、西洋の知的業績に感嘆し、成功と大
きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいます。けれど
もそういう場合に、西洋と出会う以前に日本人が本来もっ
ていて、つまり生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素
さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保っ
て忘れずにいて欲しいものです。[1,p144]

 科学技術の進展から、人類は核兵器を持ち、地球環境を危機
に陥れてきた。アインシュタインが賛嘆した人間どうしの和、
自然との和を大切にする日本人の伝統的な生き方は、いまや全
世界が必要としているものである。
(文責:伊勢雅臣)


伊勢先生の「国際派日本人養成講座」より転載します。

国柄探訪:『論語』が深めた日本の国柄
〜 岩越豊雄著『子供と声を出して読みたい「論語」百章』

『論語』の説く「まごころからの思いやり」は、
我が国の国柄を深めてきた。
無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/


■1.孔子の喜びに弾んだ肉声■

「孔子は、その思想が当時の為政者に入れられず、不遇の人生
を歩んだ人だ」と思っていたのだが、実は「その内面では学ぶ
ことの喜びに充ち満ちた幸福な人生を送った人ではなかったか」
と『子供と声を出して読みたい「論語」百章』[1]を読みつつ
今更ながらに気がついた。

 著者の岩越豊雄さんはこう語っている。

 私は小学校の校長を退職した後、子供を対象に、江戸時
代の「寺子屋」をモデルに、素読と習字を組み合わせた塾
を始めました。対象は小学生たちですが、喜んで『論語』
を素読しています。リズムの美しい簡潔な文で、読んで心
地よい名文だからだと思います。[1,p31]

 この本は、岩越さんが子供たちに『論語』の一章ずつを読み
聞かせた内容をまとめたものだが、その文章を通じて、孔子の
喜びに弾んだ肉声が聞こえてくるような気がした。『論語』の
解説書は何冊か読んだことがあるが、こういう経験は初めてで
ある。

 こういう本を通じて、子供の時から学問の喜びを感じる事が
できれば、それはこれからの長い一生を支える「学ぶ力」「生
きる力」となるだろう。

■2.「学びの喜び」■

 孔子の喜びは『論語』冒頭の第一章から弾んでいる。 [1,p37]

 子(し)曰(いわ)く、学びて時にこれを習う。また説
(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来た
る。また楽しからずや。人知らずして慍(いか)らず、ま
た君子ならずや。

 先生がおっしゃった。学んだ時に、よくおさらいをする。
それが自分の身についたものになってくる。なんと喜ばし
いことではないか。心知る友が遠くから訪ねてきてくれる。
なんと楽しいことではないか。人が認めてくれなくとも怒
らない。なんと志の高い優れた人ではなかろうか。

 この一章を、岩越さんは、子供たちにこう解説する。

「学ぶ」は「まねをする」に由来するといいます。「習」
は雛鳥(ひな)が巣の上で親鳥の羽ばたきをまねて、飛び
立つための練習をしている字形だといいます。

 どのようなことでも、練習して初めてできるようになっ
た時の喜びは誰でもよく覚えています。例えば自転車に乗
れるようになった時とか、体が水に浮いて泳げるようになっ
た時の喜びなどは、生涯忘れられない思い出です。学んだ
時にはそれを何度も繰り返し、練習してできるようになる。
それが「学びの喜び」です。小さな事でも、「わかった」、
「できた」、「やり遂げた」という喜びを体験し、積み重
ねると、自信にもなり、物事に意欲的に取り組めるように
もなるのです。

 自転車や水泳を例に「学びの喜び」を説くあたりが、いかに
も小学生にふさわしい。

■3.「学び」と「友」と「不足を思わない」■

 その後に続く「朋(とも)あり、遠方より来たる」と「人知
らずして慍(いか)らず」については:

 学んだことが身につき、自信がつけば自然と互いに心が
通じる友ができ、楽しく語り合うこともできます。そうし
た友が、思いがけなく訪ねてくれた時は、本当に嬉しいも
のです。

 水泳の例で言えば、一緒に水泳を習う友達どうしが、自分は
背泳もできるようになったよ、などと語り合う喜びだろう。

 しかし、たとえ自分が学び、力をつけても、他の人がわ
かってくれない、認めてくれない時もあります。それでも
怒ったり、不足を言ったりしない。そうできる人は、ほん
とうに志の高い優(すぐ)れた人です。

 へたくそな泳ぎで、級友も先生もなかなか褒めてくれないが、
別に不満を言ったりしない。自分自身の上達そのものが喜びだ
からだ。

「学び」と「友」と「不足を思わない」、この3つの事柄
は、学問の喜びということで一貫しているのです。

 岩越さんのこの指摘から、私は初めて、孔子の抱いていた
「学問の喜び」に触れえたような気がした。

■4.「あれが目の不自由な楽師を助ける作法なのだ」■

 さて孔子の志した学問とは、どのようなものだったのか。そ
れを孔子の行動を通じて説いた小学生にも分かりやすい一章が
ある。[1,p204]

 師冕(しべん)見(まみ)ゆ。階(かい)に及ぶ。子
(し)曰(いわ)く、階なりと。席に及ぶ。子曰く、席な
りと。みな坐す。子之(こ)れに告げて曰く、某(それが
し)はそこにあり、某(それがし)はそこにありと。師冕
出(い)ず。子張(しちょう)問いて曰く、師と言うの道
かと。子曰く、然(しか)り。固(もと)より師を相(た
す)くるの道なりと。

 目の不自由な楽師冕(べん)が訪ねてきた。先生は自ら
出迎えて案内し、階段に来ると「階段ですよ」と言われ、
席に来ると「席ですよ」と言われた。一同が座ると、「誰
それはそこに。誰それはここに」と一人ひとり丁寧に教え
られた。師冕が帰った後で子張が「あれが楽師に対する作
法ですか」と訪ねた。先生が答えられた。「そうだ。あれ
が目の不自由な楽師を助ける作法なのだ」



 目の不自由な者の身になって、きめ細かに対応する孔子
の温かな配慮が伝わってきます。相手の身になって行動す
る、まさに仁者の在り方を具体的に学べる章です。

 子張が質問したのは、一盲目の楽師に対して、孔子の取っ
た対応があまりにも丁寧で、礼に過ぎるのではと思ったか
らです。「然(しか)り。固(もと)より師を相(たす)
くるの道なりと」ときっぱりと答える孔子の言葉に、まご
ころからの思いやり、「忠恕」を「一以て之を貫いた」孔
子の確信ある生き方を髣髴(ほうふつ)とさせます。

 目の不自由な人を導いてあげることは小学生でもできること
である。そういう誰にでもできる「まごころからの思いやり」
が、孔子の学問の核心であった。

■5.「人を尊び、まごころから思いやる」■

「忠恕」を「一以て之を貫いた」とは、次の一章に出てくる言
葉である。

 子曰く、参(しん)や、吾(わ)が道、一(いつ)以
(もっ)てこれを貫(つらぬ)く。曾子曰く、唯(い)と。
子出(い)ず。門人、問うて曰く、なんの謂(い)いぞや。
曾子曰く、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。

 先生が曾子に呼びかけておっしゃった。「参(曾子)よ、
私の生き方は一つのもので貫かれているのだが」と。曾子
はただ「はい」と答えた。先生は部屋を出て行かれた。門
人たちが「何を言いたかったのですか」と尋ねた。曾子が
言った。「先生が貫かれている生き方は、人を尊ぶまごこ
ろからの思いやり、それに尽きる」と。



「忠恕」の字の作りは、「中と心」と「如と心」です。
「中心」とはまごころのこと、「如心」とは、自分の心の
如く人の心をおしはかるという意味です。つまり「人を尊
び、まごころから思いやる」ことです。『論語』でしばし
ば触れられる「仁」にも通じます。それは孔子の一貫した
生き方でした。

 ちなみに「仁」については、こう解説されている。

「仁」とは「人」と「二」を組み合わせた漢字です。つま
り、人と人との人間関係における倫理・道徳の基本である、
「まごころから人を思いやる」ことです。[1,p40]

 孔子の学問は、誰でもが持つ「まごころ」「おもいやり」を
いかに引き出し、発展させるか、という所にあった。

■6.「素直な社員は良く伸び、仕事もできる」■

「まごころ」と「おもいやり」を伸ばすために、孔子は次のよ
うに若者に教え諭している。

 子(し)曰(いわ)く、弟子(ていし)、入りては則
(すなわ)ち孝、出でては則ち悌(てい)、謹みて信あり、
汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力有らば、
則ち以(も)って文(ぶん)を学ばん。

 先生がおっしゃった。若者よ、家では、親孝行、外では
目上の人に素直に従う。何事にも度を過ごさないように控
えめにし、約束を守る。多くの人を好きになり、善き人に
ついて学ぶ。そうした上で、まだゆとりがあるなら、本を
読んで学んでいけばいい。



「親に孝行することや、人に素直であること」と「勉強す
ること」と、どっちが大切かと問えば、今は親も子も大抵
は「勉強すること」と答えます。でも、孔子は逆だと言っ
ています。

 一流大学を優秀な成績で卒業しながら、違法な株取引で逮捕
されたり、エセ宗教にひっかかって人を殺めたりする人間は、
勉強ばかりしていて、「まごころ」や「おもいやり」を磨かな
かった人間失格者であろう。

 本当に優秀な人は大抵、素直です。経営の神様といわれ
た松下幸之助も「素直な社員は良く伸び、仕事もできる」
と言っています。[1,p46]

 親孝行、素直さ、謙虚さ、謹み、信頼、こうした人格的基礎
を土壌として、その上に知識や技術が花開くのである。

■7.『論語』が深めた我が国の国柄■

『論語』は16百年ほど前に、海外から我が国にもたらされた
最初の書物であった。そしてその「忠恕」や「仁」を核とする
思想は、民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、すべての生
きとし生けるものが「一つ屋根の下の大家族」のように仲良く
暮らしていくことを理想とした我が国の国柄[b]には、まこと
に相性の良いものであった。

 そして我が先人たちは『論語』に学びつつ、我が国の国柄を
深めていった。岩越さんは、その歴史を簡潔に振り返っている。

 聖徳太子は、『論語』の「和」を深めて、「十七条憲法」の
第一条に「和を以て貴しと為す」と説いた。鎌倉時代の「曹洞
宗」の開祖・道元禅師は、世を治めるのは『論語』がよいと推
奨していたという。

 江戸時代には『論語』研究が盛んになり、中江藤樹[c]、山
鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠などが独自の思想を発展させた。
こうした学問の系譜から、吉田松陰、西郷隆盛など幕末の志士
が生まれ、明治維新への道を開いていく。

■8.「素読」の合理性■

 こうした歴史を俯瞰した上で、岩越さんは語る。

 偉人や学者だけではありません。江戸時代は一般の武士
も庶民も『論語』を学びました。各藩の藩校はもちろん、
庶民の子弟の教育が行われた寺子屋では、『論語』等の素
読が行われていました。

「素読」とは、文章を意味はさておき、声を立てて暗唱で
きるまで、繰り返し読むことです。「読書百遍、意自ずか
ら通ず」という言葉があります。声を出して何度も読んで
いくうちに、自然にその意味が表れてくる、分かってくる、
そうした読み方を言います。[1,p28]

「意味もわからない文章を丸暗記させるなど、なんと封建的な」
と考える人も多いだろう。それに対して、岩越さんは小林秀雄
の次の言葉を引用する。

(素読を)暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪
い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記していまう。暗
記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言
うが、それでは『論語』の意味とは何でしょう。それは人
により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。
一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れ
ない。それなら意味を考えることは、実に曖昧な教育だと
わかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりとし
た教育です。[1,p30]

■9.『論語』の言葉を胸に、人生を歩んでいく■

「朋(とも)あり、遠方より来たる。また楽しからずや」とい
うような言葉も、少年時代、壮年時代、そして熟年時代と、人
生経験を積むにしたがって、自ずからその味わいも深まってい
くだろう。素読とは、そのような言葉の種を幼児期から心に埋
め込んであげることである。

 小学生にたわいのない英会話を教えるよりは、はるかに高級
な人間教育ではないか。そこから、しっかりとした精神的バッ
クボーンを持った日本人が育っていくだろう。

 すでに大人になってしまった人でも、『論語』の中の心に響
く一節を暗記して、それを時々反芻しながら、自らの人生を歩
んでいく、という生き方も良いのではないか。

 ちなみに天皇陛下は「忠恕」という言葉がお好きだそうだ。
ひたすらに国民の安寧を祈られる陛下ならではの言葉である。

『論語』の言葉を胸に抱いて人生を歩んでいくのが、我が先人
たちの生き方であった。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(488) 中国の覚醒(下) 〜 日本で再発見した中国の理想
 中国で根絶やしにされた孔子の理想は、日本で花開いていた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h19/jog488.html
b. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog074.html
c. JOG(324) 中江藤樹 〜 まごころを磨く学問
 馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、ひたひ
たと琵琶湖沿岸から広がっていった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog324.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

伊勢先生のこれは、H14.01.05に公表されたものですが、この底力が今も専門職といわれる技術部門に生かされ、確実に文化を継承しています。

明日は、青年たちの熟練を目指した生き様を書かれた文をお知らせします。


国際派日本人養成講座_______

国柄探訪: 日本の技術の底力

 幕末の日本を訪れたペリー一行は、日本が
工業大国になる日は近いと予言した。

■1.ペリー一行の驚き■

 幕末にやってきたペリー艦隊は、蒸気船に代表される近代科
学技術で日本人を驚かせたが、逆にペリー一行も日本人のもの
作りの底力に目を見張った。一行が帰国後にまとめた「ペリー
提督日本遠征日記」には、次のような一節がある。

 機構製品および一般実用製品において、日本人はたいし
た手技を示す。彼らが粗末な道具しか使ってなく、機械を
使うことに疎いことを考慮すると、彼らの手作業の技能の
熟達度は驚くほどである。日本人の手職人は世界のどの国
の手職人に劣らず熟達しており、国民の発明力が自由に発
揮されるようになったら、最も進んだ工業国に日本が追い
つく日はそう遠くないだろう。

 他国民が物質的なもので発展させてきたその成果を学ぼ
うとする意欲が旺盛であり、そして、学んだものをすぐに
自分なりに使いこなしてしまうから、国民が外国と交流す
ることを禁止している政府の排他的政策が緩められれば、
日本はすぐに最恵国と同じレベルに到達するだろう。文明
化した国々がこれまでに積み上げてきたものを手に入れた
ならば、日本は将来きっと機構製品の覇権争いで強力な競
争国の一つとなるだろう。[1,p21]

■2.日本は将来きっと強力な競争国の一つとなる■

 ペリーらをこのように驚かせた「一般実用品」の一つが、贈
与された蒔絵漆の硯箱だった。硯箱のゆがみのない直線、バラ
ツキのない厚み、そしてガタのない嵌めあいは、とても手作業
とは思えない高精度の仕上がりであった。当時アメリカではす
でに各種の工作機械が使われていたが、日本人がこれだけの技
能でさらに工作機械を使いこなしたら、「最も進んだ工業国に
日本が追いつく日はそう遠くないだろう」と予測したのも当然
であろう。

「機構製品」については、茶運び人形を目にしたのかもしれな
い。これはからくり人形の一種で、人形の持っている茶台にお
茶を入れた茶碗をおくと、人形は前進して客の所に行き、客が
茶碗をとれば止まる。飲み終えた茶碗を置くと、180度方向
転換をして、元の所に戻る、という動作をする。鯨のひげで作
ったゼンマイを動力源として、歯車や腕木など50個ほどの部
品からなるロボットである。

 こうした技術に関心の高い日本人は、ペリー一行が持ってき
た文明の利器に対しても、強い好奇心を発揮した。1マイルば
かりの電信線を張って、通信ができることを見せると、「日本
の役人や人民は、日ごとに寄り来たって、(米人)技師に向か
ってその使用を懇請し、その機械の動きを飽かず興味をもて眺
めていた。」 またミニチュアの蒸気機関車を走らせると、
「真面目くさった役人が、寛闊(かんかつ)なる着物を翻しな
がら1時間20マイルの速力をもて、円を描いて軌道を運転す
る図は、実に滑稽のいたりであった。」[2,p155]

 こうした「学ぼうとする意欲」から、「日本は将来きっと機
構製品の覇権争いで強力な競争国の一つとなるだろう」とペリ
ーらは考えたのである。

 ペリー来航から半世紀後には日清・日露戦争を経て日本は世
界5大国の一つとなり、1世紀後の大東亜戦争ではアメリカと
世界最大の航空艦隊決戦を行い、1世紀半後の今日では自動車
やエレクトロニクスなどの先端技術製品で世界トップレベルの
競争力を持つまでになった。ペリーらの予言は実に正確なもの
であった。

■3.伝統技術と現代技術のつながり■

 この予言から130年後、1983年にボストンで開催された日
本の人間国宝展で、彫金の花器を食い入るように見ていたアメ
リカ人青年は、こう呟いた。

 こんな精巧な伝統技術をバックグラウンドに車を作るの
だから、(アメリカは日本に)かなわない。

 日本の自動車がアメリカでの地位を確立し始めていた時期で
あったが、その頃アメリカで流された日本車のTVコマーシャ
ルで記憶に残っているものがいくつかある。一つは、ボンネッ
トと車体との間の数ミリの隙間にパチンコ球をころころと転が
して、「あなたの車でこれができますか?」とアメリカ人が問
いかけるというものだった。

 もう一つは、休日の早朝、日本人ビジネスマンらしき男性が、
ゴルフバッグを持って車に乗り込む。エンジンをかけても、か
すかな音しかしない。「しーっ」と人差し指をたてて、近所を
起こさないように静かに出かけていく、という場面である。当
初アメリカに輸出された日本の車は小型大衆車が中心だったが、
その価格や性能もさることながら、「丹誠込めた作り、精巧な
出来映え」というイメージが消費者にアピールしたのである。

 人間国宝展でアメリカ人青年が日本の「精巧な伝統技術」か
ら、まず車の事を思い浮かべたのも、こうしたイメージのため
である。しかし、その直観はあながち間違いではない。我々日
本人は、明治維新や敗戦で歴史が断絶したものと思いこみ、現
代の技術と伝統技術の間に何か関係があるなどとは想像だにし
ないが、実は現代日本の技術力の根底には、ペリーらを驚かせ
た江戸時代やそれ以前からの蓄積があるのである。

■4.奈良の大仏から、車、パソコンまで■

 たとえば、自動車はエンジンを始め、主要部品のほとんどは
鋳造によって作られる。鋳造は金属を溶かし、鋳型に流しこん
で所要の形に造る技術だが、本誌272号で紹介したとおり、今
から1250年も前に作られた奈良東大寺の大仏は鋳造で作られて
いる。高さ16m、重量250トンもの世界最大の青銅像だが、
当時の日本の鋳造技術は世界的なレベルに達していた。飛鳥、
奈良、京都などの古寺に数多く残されている金銅仏(銅に金メ
ッキした仏)では、精密鋳造技術により細やかな芸術表現がな
されている。

 寺院の鐘や梵鐘は真鍮(銅と亜鉛の合金)の鋳造で作られた。
美しい余韻を残すには、形状や肉厚に厳密な仕上がりが必要で
あった。江戸時代には庶民層にまで普及した茶道で使う茶の湯
釜は鉄の鋳造品で、「重いものに名品なし」と言われるように
ぎりぎりの肉厚にして、表面には花鳥風月の精巧な図柄が浮き
彫りにされていた。

 現代では車の燃費向上のために、軽いアルミ合金の部品が使
われるようになっているが、これは融点の低いアルミ合金を鉄
製金型に高圧で流し込むダイカスト法という新しい鋳造方法が
用いられている。最近のノートパソコンなどの筐体用に使われ
だした軽くて強いマグネシウム合金にもこの方法が適用されて
いる。奈良の大仏から、現代の車やパソコンまで、脈々と鋳造
技術が継承され、発展しているのである。

 同様に、江戸後期の伊万里焼などに見られる磁器技術は、現
代のセラミック電子部品などにつながり、漆の技術は合成樹脂
技術として開花し、磁気テープや半導体封止材料などに適用さ
れている。

■5.伊勢神宮に見る技術の継承・発展のシステム■

 このように現代日本の誇る先端技術製品は、一朝一夕に開発
されたものではなく、長い歴史を通じた技術を基盤として生み
出されているのである。その背景には、一度つかんだ技術は絶
対に手放さず、過去の蓄積の上に代々の革新、改良が積み重な
っていくという重層的な発展パターンがある。その典型が伊勢
神宮に見られる。

 よく知られているように、伊勢神宮の建物は式年遷宮と言っ
て20年ごとに新築される。その際に建物だけでなく、装束神
宝と呼ばれる700種類、1500点ほどの装飾品もすべて作
り直される。織機のミニチュアや木彫り馬から、衣服、手箱、
硯、刀剣、弓矢、扇などにいたるもので、技術的には織工、木
工、刀工、漆工など、伝統工芸技術のほとんどをカバーしてい
る。それらを各分野で日本最高の腕を持つ職人たちが作る。

 面白いのは、装束神宝には設計図やマニュアルなどが皆無だ
という点である。職人たちは現物を見て、その寸法を測ったり
技法を調べたりして、「見真似」で作る。大きさや様式は厳重
に古式に則っている必要があるが、出来映えは恥ずかしくない
ものにしなければならない。そこに先人の技術を真似しつつ、
自らの創意工夫で技術を積み重ねていく作業が行われる。これ
があらゆる分野の技術で、20年ごとに繰り返されて、千数百
年も繰り返されたら、その蓄積はとてつもないものになる。

 伊勢神宮の装束神宝の原型は、正倉院の宝物にあったと推定
されている。それらのほとんどは唐の時代に、大陸からもたら
されたものであった。しかし、今の中国にはそれらのオリジナ
ルはほとんど残っていない。古代の製法は失われてしまったの
である。あるのは、近年たまたま遺跡から発掘されたものだと
いう。古代にいくら素晴らしい発明がなされても、その製法が
失われて単に「もの」だけしか残っていないのでは、生きた技
術とも文化とも言えまい。

 伊勢神宮の式年遷宮というシステムを通じて、各種の製造技
術が脈々と受け継がれ、重層的に発展している所に、日本の技
術の独自の特徴がある。

■6.オリジナルとコピー■

 欧米ではオリジナルとコピーの区別がやかましく、少し前ま
では日本の技術は、欧米の「猿真似」に過ぎないなどという批
判があった。また、中国や朝鮮でも、日本の文化や芸術は自分
たちが伝えたものだ、と主張する輩もいる。しかし、こうした
声は技術の発展のプロセスを理解していない所からくる。

 たとえば磁器は陶器と違う特別な粘土を用い、より高温で焼
成するものであるが、その技術基盤は戦国時代に朝鮮から帰化
した李参平によって築かれたものと言われている。そこから柿
右衛門の名で有名な白地に豪華な色彩を施した伊万里焼(有田
焼)が作り出され、オランダ東インド会社によってヨーロッパ
に輸出されるや、たちまちのうちに本場・中国の景徳鎮のもの
を駆逐して、王侯貴族の間で珍重されるに至った。

 ヨーロッパでは磁器のイミテーションが作られるようになっ
ていたが、ドイツ国王アウゲストは陶工に命じて、伊万里焼を
モデルとして本物の磁器技術を開発させ、柿右衛門風のものを
作らせた。これが現在、ヨーロッパ随一となっているマイセン
磁器である。この技術がヨーロッパに広まり、西洋人好みの純
白で細かい肌合いを持つ磁器を完成させた。

 こうした歴史を見れば、技術の源流のみで云々することは意
味がないことが分かろう。源流が外にあるから「単なるコピー
だ」「意味がない」という事にはならない。逆にいくら技術の
源流と威張ってみても、現時点で優れた価値あるものを生み出
せていなければ、生きた技術とは言えない。

 技術とは国境や民族を超えて伝播していくものであり、その
過程でどれだけの工夫を積み重ねたかが問題なのである。その
積み重ねられた工夫にこそ、オリジナリティがある。

■7.「学ぶ」は「真似ぶ」■

 日本語の「学ぶ」は「真似ぶ」、すなわち「真似をする」と
いうのが語源らしい。優れた先達の真似をすることは、技術の
発展の最初の基礎となるステップなのであって、なんら恥じる
ことではない。そのうえにどれだけオリジナルな工夫を積み重
ねたかが問われるのである。

 伊勢神宮の装束神宝の制作者たちが、先代の作品を「見真
似」て、その技法を自分なりに一から捉え直し、さらに先代に
負けないような立派な作品を作ろうと努める、というプロセス
は、こうした技術の本質を捉えたシステムであると言える。

 ペリー一行が、日本人を「他国民が物質的なもので発展させ
てきたその成果を学ぼうとする意欲が旺盛であり、そして、学
んだものをすぐに自分なりに使いこなしてしまう」と記述して
いるのは、短期間の滞在にも関わらず、先人の上に新しいオリ
ジナリティを発揮していこうとする日本人の姿勢を鋭く捉えて
いるのである。

■8.先祖に申し訳ない■

 伊勢神宮に見られる技術の継承・発展のシステムで、もう一
つ特徴的な側面は、一度つかんだ技術を大切に継承するという
姿勢である。伝統工芸の職人たちは、「先祖が残してくれたも
のを絶やしたり、レベルを下げたりしては申し訳ない」という
発言をよくする。

 これはプロの職人だけのことではなく、最近でも町おこし、
村おこしと称して、郷土に根ざした工芸・祭り・芸能などの復
活が盛んに試みられている。郷土の先人が残してくれたものを、
埋もれたままにしておくのは忍びない、という意識が働くから
であろう。

 そして、このように従来の技術を消滅したり、衰退したりは
させない、という無意識の自信が、新しいもの、外国のもので
も積極的に「真似び」、自分のものにして行こうという姿勢に
結びつく。

 こうして伝統技術の蓄積と継承が、新しい技術革新の土台と
なっているのである。しっかりした土台があるからこそ、高い
跳躍も可能となるのである。

■9.「伝統を土台とした革新」■

 明治維新後、短期間の間に欧米諸国以外で唯一の近代工業国
にのし上がり、敗戦後も「奇跡」と呼ばれるほどの経済成長を
遂げた日本の底力は、この「伝統を土台とした革新」から生み
出されたと言える。

 21世紀のグローバル競争の世界で、わが国の生きる道は
「技術大国」である、とは衆目の一致する所である。そのため
にも、我々は「伝統を土台とした革新」という先祖伝来の底力
を意識的に、最大限に発揮していくのが良いであろう。

 ちなみに技術力とはもの作りだけではない。金融やサービス
産業、娯楽産業などにも、それぞれの技術がある。もの作りに
比べて、金融分野などで国際競争力がないのは、今まで政府の
規制に縛られて、国際競争の場に出るのが遅かったからであろ
う。

 これらの分野においてもペリーらの言った通り「国民の発明
力が自由に発揮されるようになったら」、「国民が外国と交流
することを禁止している政府の排他的政策が緩められれば」、
わが国は「覇権争いで強力な競争国の一つとなるだろう」。グ
ローバリズムといったいたずらな拝外主義を排して、「伝統を
土台とした革新」という我々自身の底力を発揮していけば。
(文責:伊勢雅臣)


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