老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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このような素晴らしい日本人がまた取上げていただきました。
反日でしか思考できない日本人、朝鮮・韓国人に改めて読ませてやりたい。
読む学力があるのなら。ごめんなさい、学力ではありません。いろんな角度から判断できる度量があるのなら。




国際派日本人養成講座

人物探訪: 枡富安左衛門
~ 韓国民の精神開発を使命とした日本人
 日本人校長は韓国人学生に「本当に独立を
望むなら学ぶのだ」と口癖のように説いた.


------------------------------------------------------------

■1.韓国政府から国民勲章を授けられた日本人■

 1995(平成7)年12月16日、韓国の京郷新聞は次のような
記事を掲載した。[1,p195]

 15日午前、ソウル市鐘路区三清洞にある中央教育研修
院の講堂では、国民教育に寄与した功労で、3092人に
達する国民教育功労者の褒章式が開かれた。

 そのなかで、もうすでに故人になった一人の日本人が、
私立学校の設立に功績があったとして追贈され、国民勲章
の牡丹章の受章者に選ばれて注目された。(その人物の名
前は)枡富安左衛門氏(ますとみ・やすざえもん)。

 国民勲章とは、政治や経済、社会、教育などの分野で韓国民
の福祉向上と国家の発展に大きく寄与した人物に与えられる勲
章で、日本の文化勲章に相当する。等級は5段階に分かれてお
り、その中で「牡丹章」は2番目に高いクラスである。

 故人の娘の石井武子さん(75)が、父親の代わりに勲
章を受け、参加した人々から熱い拍手喝采を浴びた。・・

 枡富氏は1918(大正7)年から全羅北道富安郡に富安教会、
富安小学校、高敞高等学校を設立して、この地域の人々の
精神啓発に一生を捧げた。・・・

 高敞高校出身のハングル学者の韓甲洙さん(83)も、
「日本人にかかわらず、自分の私財を投じて学校と教会を
建てるなど、韓国を愛し、この地方の開花に種をまいた先
駆者だ」と話し、「日本人だというだけで罵倒してしまう
には、あまりにも大切な方だ」と述懐している。

 1995年といえば、韓国にとっては「光復(植民地からの解放)」
50年にあたっていた。光復節の8月15日には、旧朝鮮総督
府の建物が日本統治の象徴として解体撤去され、その式典で、
金永三大統領が「植民地支配と侵略行為を日本は素直に反省す
べきだ」と演説した。

 こうした反日感情の中で、日本統治時代の朝鮮に生きた一人
の日本人が、韓国政府から「国民勲章」を受けるとは、どうし
たわけか。そこには日韓両国にまたがる人々の強い絆があった。

■2.韓国農業で国利民福を志す■

 枡富安左衛門は、明治13(1880)年、福岡県門司市の醤油製
造業を営む家に生まれた。下関商業学校在学中に父を失ったた
め、17歳にして家業を継ぎ、店を切り盛りしながら、学校で
商業を学んだ。

 明治37(1904)年2月、日露戦争勃発と共に、枡富は出征し
て、食料・物資の調達・分配など後方の兵站部門に従事した。

 出征前から「韓国農業に付きて之れが経営をなして国利民福
(JOG注:国に利益をもたらし民を幸福にする)を謀る考えな
り」と、韓国での農業経営の志を抱いていたが、出征の途上で、
全羅北道(朝鮮半島南西部)の沃野を自らの目で確かめて、そ
の意思が固まった。

 当時の朝鮮半島は、停滞した李朝王朝のもとで農業も荒廃の
極みにあり、しばしば飢饉に襲われていた[a,b]。そこに日本
の進んだ農業技術を導入することで、生産性を飛躍的に上げる
余地があった。

 日露戦争が終わって帰国した枡富は、明治39(1906)年6月、
再び全羅北道を訪れた。この地は李朝末期の東学党の乱の発祥
地であり、この頃でも残党が山野に潜伏して、韓国人地主を襲
撃したりしていた。そんな中を馬にまたがって、土地を物色し
て廻る枡富の姿は、農民たちから「無謀な行為」として驚きを
もって迎えられた。

■3.尊敬と思慕の念を集めた農業経営■

 枡富は、この地で4万坪の土地を購入して、農業経営を始め
た。当時の朝鮮半島での農業は原始的な零細農で、面積当たり
の収穫も少なかった。また毎年のように洪水や日照りに襲われ
ていた。

 枡富は半島でも有数規模の水利組合の結成に参画し、近くの
湖から農業用水を確保して、干ばつや洪水の被害防止に大きな
成果を上げた。また湖からの水流を利用して発電し、この地方
に電灯をともすことに成功したという。燃料源として乱伐が進
んでいた付近の山々の植林事業にも、近隣の日本人農業主や韓
国人農民と協力して取り組んだ。

 さらに悲惨な生活を送っていた小作人たちの救済のために、
畑作の改良、緑肥の調整、二毛作、間作などに取り組ませた。
こうした農業経営を進めた枡富は、小作人を含め近隣住民から
尊敬と思慕の念を集めた。

■4.「韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」■

 枡富の農業経営に思想的な基盤を与えたのが、妻・照子の影
響で入信したキリスト教だった。韓国での農業経営を始めた翌
年の明治40(1907)年、枡富は照子と結婚した。照子は福岡英
和女学校(現在の福岡女学院)在学中に、アメリカ人女性宣教
師と出会い、卒業の年に洗礼を受けていた。

 当初、照子は韓国に渡って新婚生活を営んだが、慣れぬ土地
で体調を崩し、病気がちになったため、国内に戻って療養生活
を送るようになった。以後、枡富は韓国を、照子は日本国内を
本拠地とし、数ヶ月単位でお互いに行き来するようになった。

 照子は枡富にキリスト教入信を勧めたが、枡富は「仏教にも、
儒教にも良い所はある。すべての宗教の長所をとって、国のた
めになしたい」と言って、なかなか聞き入れなかった。

 しかし、照子とともに教会通いをしているうちに、ついに折
れて、「僕も信者になる。韓国の仕事は信仰を元としてやりた
い」と言った。結婚3年後のことであった。

「信仰に基づいた農業経営」を目指した枡富は、デンマークを
自らの事業のモデルとした。この点を次のように語っている。

 850年代(*)に一人の牧師が現れて、信仰に基づいた農業
と教育の振興を唱え、それが広く国民に受け入れられた。
その結果、やせてどうにもならなかった土地が開墾され、
世界にも模範的な農業国になった。[1,p145]

(*JOG注:[1]では「1850年代」となっているが、960年頃
デンマーク初のキリスト教王が登場しているので、「850
年代」の誤りと思われる)

 枡富は、まずは自身の信仰を確かなものとするために、大正
元(1912)年、神戸の神学校に入学した。韓国での事業は、一時
的に友人に託した。さらに将来の韓国での教会事業は、韓国人
自身の手によらなければならないとして、3人の優秀な韓国人
学生を呼び寄せ、自分とともに神学校に入学させた。この後、
枡富は多くの韓国人学生に奨学金を出して、日本やソウルの大
学、神学校で学ばせるようになった。

■5.私立小学校の設立■

 神戸の神学校で学んでいる間に、枡富は韓国の農場の近隣で、
子ども向けの学校として「私立興徳学堂」を設立した。当時の
韓国全土には、370万人の就学年齢の児童がいたが、寺子屋
のような私塾を含めても、18万5千人、全児童の5%しか、
教育を受けていなかった。

 当初は、村人たちも子供を通わせるのをいやがり、入学希望
者は非常に少なかった。経済的な理由からであろう。そこで枡
富は、児童全員に教科書やノート、鉛筆などを無料で提供し、
授業料までもただにした。村民たちは、こうした枡富の教育へ
の熱心さや、正規の小学校と変わらない充実した教育内容ぶり
を知って、すすんで子供たちを学堂に通わせるようになった。

 神戸神学校で学んでいた3人の奨学生が大正5(1916)年に卒
業して教員に加わった。彼らは学校に寝泊まりして、教育内容
の充実に智恵を絞った。

 こうした努力が実って、大正8(1919)年、興徳学堂は学校法
人としての認可を受け、私立吾山普通学校と改名した。当時、
普通学校は1郡に1校を原則として設立が進められていたが、
いち早く普通校を持てた高敞郡は、他地域の住民たちから非常
に羨ましがられたという。

■6.学校存続に立ち上がった郡民たち■

 大正7(1918)年、枡富は所有する土地約2100坪を使って、
「私立吾山高等学校」を設立し、中等教育に乗り出した。早く
も2年後に、正式な学校法人としての認可を受け、「吾山高等
普通学校」に昇格した。当時の高等普通学校は、朝鮮全土でも
12校しかなかったところに、近隣6道での初めての高等普通
学校が人口まばらな寒村に出現したことは、大きな話題となっ
た。

 ここまでは順調に成長してきたが、第一次大戦後の経済不況
の波が、枡富の事業経営を直撃した。今まで農業で得た利益を
学校経営につぎ込んできたのだが、それも難しくなった。

 枡富は、大正11(1922)年3月31日限りで、吾山高等普通
学校を廃校させざるをえない、と発表した。生徒全員は他の学
校に転校させ、その学費と交通費を負担することとした。

 しかし、この地方ではかけがえのない高等普通学校を潰して
はならない、と高敞郡守・金相鉛の呼びかけのもと、地元郡民
たちが立ち上がった。もともと独立意識の強い地方で、「自主
独立は教育を通じての知性の開明が伴わなければならない」を
合い言葉に、学校存続を決議した。

 郡民は募金活動を展開し、約30万円を集めた。意気に感じ
た枡富も生徒たちへの弁済にあてるつもりだった1万5千円を
寄付した。枡富はしばらく校長、理事長の立場に留まることと
なった。

 同時に人里離れた吾山から郡庁のある高敞に移転され、こ
こに「高敞高等普通学校」として再スタートした。大正15
(1926)年、校舎を近代的な赤レンガ造りの2階建てに改築した
際の落成式には斎藤実・朝鮮総督が参列した。斎藤は「文化政
治」を標榜していた。枡富と親交があり、人作りを最優先した
枡富の事業に共感を抱いていたのだろう。

 吾山普通学校も、枡富は敷地、校舎、施設のいっさいを当局
に寄付し、富安公立普通学校と改称された。

■7.「本当に独立を望むなら学ぶのだ」■

 枡富は「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように生
徒たちに説いた。韓国の人々の独立への思いに共感し、そのた
めには現地の青年たちが将来様々な方面で活躍し、自分の力で
発展できるよう、生徒たちの教育に心を砕いた。

 その精神は、高敞高等普通学校にも受け継がれた。抗日運動、
独立運動に参加して公立学校を退学させられた生徒たちを進ん
で受け入れ、勉学の場を提供した。やがて高敞は「民族運動揺
籃の地」として、朝鮮全土に知られるようになる。

 冒頭の新聞記事に登場したハングル学者の韓甲洙氏もその一
人だ。昭和5(1930)年に光州学生独立運動に参加して、それま
で学んでいた学校から退学処分となり、監獄出所後はどこの学
校も編入学を認めようとしなかった。風の噂をたよりに高敞高
等普通学校の門を叩くと、応対に出た職員は「韓国のために戦
う学生は、勉強させなければならない」とただちに入学を認め
てくれた。

 韓甲洙氏は、教鞭をとっていたハングル語学者・鄭寅承に出
会い、ハングル研究の道を志す。後に韓国で初めてのハングル
辞典の編纂委員の一人となり、戦後は李承晩大統領の秘書室長
も務めるなど、韓国の政界、教育界の中枢で活躍した。

■8.「私の使命は韓国民の精神開発」■

 昭和10(1935)年に高敞高等普通学校を卒業した一人が鄭成
沢氏である。枡富はすでに日本に戻り、その前年に亡くなって
いたので、直接の面識はなかった。鄭氏は卒業後、教育者の道
を歩み、戦後の1966(昭和36)年、富安国民学校の校長に任命
された。

 鄭氏が教育の一環として、生徒たちに学校の歴史を調べさせ
たところ、同校が枡富の手によって設立されたことを初めて知っ
た。自分でも関連資料を探したところ、近隣の老人が『枡富安
左衛門追想録』と題した分厚い本を差し出した。枡富の夫人・
照子が編纂したもので、枡富自身の手紙や文章が収録されてい
た。それを読んだ鄭氏は深く心を動かされた。

 鄭氏は翌年の創立記念日に、全校児童にこう語りかけた。

 皆さんは、日本人が建てた学校に通っている。韓国民を
熱烈に愛した日本人が、その熱情に動かされて建てられた
学校に通っているのだ。皆さんは、それを誇りに思って貰
いたい。

 鄭氏は枡富の命日に追悼式を行い、さらに私費を投じて顕彰
碑を建てた。「枡富先生教育功労碑」としたかったが、当時の
反日感情の中では打ち壊される恐れもあったので、「学校設立
記念碑」とし、裏面に設立の歴史として、枡富の事績を記した。

 しかし、反日教育を受けた若い職員らから「倭人を称えるな
ど、もってのほかだ」と批判され、その一人が「親日校長」な
どと非難する投書を教育委員会などに送り続けた。鄭氏は、学
校や同僚にも迷惑がかかるとして、教職を去った。

■9.「私の使命は韓国民の精神開発」■

 1995(平成7)年、枡富の60回忌の年に、鄭氏は韓甲洙氏
らとともに再び立ち上がった。学校を設立した外国人が韓国政
府から相次いで表彰されていたので、同様の政府表彰を申請し
たのだった。「日本人を表彰するなどもってのほか」と担当の
役人たちは迷惑そうな表情を隠さなかったが、韓氏の人脈を通
じて粘り強く説得し、ついに大統領の決裁がおりたのである。
こうして冒頭の「国民勲章牡丹章」授賞が実現した。

 富安国民学校の校庭には、開校時に植えられたアカシアの苗
木は今は巨木となって、子供たちに格好の日陰を提供している。
校庭の片隅には、鄭氏の建てた石碑が今も残っている。その側
面には、鄭氏の好んだ枡富の言葉がさりげなく刻まれている。

 私の使命は韓国民の精神開発であり、私のすべてのもの
は、即ちそのためにあるだけだ。
(文責:伊勢雅臣)
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国際派日本人養成講座 より転載しています。

少し長文ですが、我慢してお読みください。
読む価値のある記事とお勧めします。

人物探訪: 山下奉文、使命に殉じた将軍

シンガポール攻略の英雄は、使命に忠実に
その後の悲運の人生を生き抜いた
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■1.ヨーロッパのアジア支配を全面的に崩壊させる一撃■

 大東亜戦争が始まった昭和16(1941)年12月8日、マレー
半島北端に上陸した日本軍は、抵抗するイギリス軍を蹴散らし
ながら、2ヶ月足らずで1100キロを進撃し、翌昭和17
(1942)年2月15日、ついに英国の東洋支配の根拠地であるシ
ンガポールを攻略した。「大航海時代以来の、ヨーロッパのア
ジア支配を全面的に崩壊させる一撃であった」と評されている。
[1,p20]

 英国の歴史家クリストファー・ソーンは著書『太平洋戦争と
は何だったのか』の中で、日本の勝利を眼前にしたインド人将
校や外交官の言葉を紹介している。

 日本軍の勝利はアジア人の志気を大いに高めた。武器が
イギリス人の手から日本人とインド人の手に移るとともに、
英知もまたわれわれの手に移った。とくに日本人がイギリ
ス人よりもずっと折り目正しい聡明な態度をとりはじめた
ので、アジア人全体が、イギリス人を低級な人種のように
思い始めた。

 ソーンは、イギリス植民地支配の失墜の最大の原因が、「白
人」が面目を失い、打ちのめされたことである、としている。

■2.束の間の成功■

 大東亜戦争開戦時の日本はオランダ領東インド(インドネシ
ア)の石油を確保して、自存自衛の体制を確立することを目指
したが、それに立ちはだかっていたのが、イギリス東洋艦隊の
根拠地・シンガポール要塞であった。

 海に面した南側は重砲群とトーチカ群に守られ、また北側の
マレー半島は1100キロにおよぶジャングルとゴム林が広が
り、大小250本の河川が流れて、天然の防壁をなしていた。

 日本軍は戦車と自転車装備の歩兵部隊に、航空兵力、工兵部
隊による渡河支援、自動車による兵員・物資輸送、舟艇による
海上からの側背攻撃を組み合わせて、この天然の防壁を突破し
たのである。

 日本軍の大胆かつ細心の作戦を指導したのが、山下奉文(と
もゆき)陸軍中将だった。山下中将はこの成功によって国民的
英雄になったが、それも束の間の事だった。以後、次々と悲運
が襲ってきた。

■3.「イエスかノウか」■

 2月14日、英軍から降伏交渉をしたいとの軍使を迎えた夜
のことを山下は次のように記している。

 いよいよ英国軍の降伏となったのですが、実はその前の
晩、恥ずかしい話だが、わたしはもう嬉しさで一杯で寝れ
なかったくらいだった。むかし評判であった乃木大将とス
テッセルの会見の場面を、夜中に何度も思い出したりした。
そして、乃木将軍のように敵将をいたわり、慰めてやろう
と、ひそかに考えていました。軍人として、一生の間にこ
の日をもった自分は、何という幸せ者だろうと、私は涙が
出るほど嬉しかった。[1,p65]

 ところが、山下の思惑は見事に外れてしまった。敵将パーシ
バル中将は約束した時間に遅れてきたうえ、緊張のためか落ち
着きがなく、キョロキョロしている。

 イギリス側は、日本側が示した12条の一つ一つに対して、
少しでも条件を緩和しようと粘る。日英双方の通訳も拙くて、
なかなか要領を得ない。なぜ潔く降伏しないのか、と山下は苛
立った。腹立ちのあまり怒鳴るような調子で、通訳に対して、
イエスかノウか結論だけを聞けばよろしい、と言った。

 しかし、「イエスかノウか」という言葉は痛烈に、イギリス
側の耳朶に響き、交渉は一転して妥結した。

 わたしは通訳の言葉に対して、イエスかノウか、結論だ
け聞けばいい、という意味を、その時通訳にいったので、
決して、パーシバル中将にいったのではなかったのです。
ところが、わたしが直接パーシバル中将に、イエスかノウ
か返答を詰め寄ったように新聞、ラジオで宣伝されてしまっ
た。

 前夜来、わたしは、精一杯の温情をもって、美しい会見
にしようと思っていたのに、そんな気持は無惨にこわされ、
その上、勝利に思い上がった傲慢な態度であったごとく宣
伝されてしまったことが、今でも私は寝ざめの悪い思いで
いるのです。[1,p67]

 英国側が交渉で粘るつもりなら、とことん粘ればよいのに、
山下の一言に勝手に怯えて、妥結してしまったとすれば、その
程度の敵将を相手にしなければならなかった山下の不運という
ほかはない。

 そして堂々たる体躯の山下が敵将を一喝する、という作られ
たシーンは、日本国内に報道され、連戦連勝に湧く国民の歓喜
をいやがうえにも盛り上げたのである。

■4.再び表舞台へ■

 この降伏交渉からわずか5ヶ月後、山下はシンガポールから
満洲北部、ソ連との国境近くの牡丹江へと転任になった。任地
に直行するよう、大本営は厳命を下した。山下は帰国して天皇
に戦勝を奏上し、マレー戦についてご進講する事を希望して、
その草稿まで準備していたが、それもムダになった。この処置
に、東條英機首相兼陸相の山下に対する警戒心を見る論者は少
なくない。

 確かに陸軍大学校を抜群の成績で卒業し、将来の陸軍大臣と
噂されていた山下が、歴史的なマレー戦勝利を掲げて凱旋帰国
すれば、東條を脅かす存在になったろう。現実に昭和20年1
月、近衛文麿は、天皇に対して、戦争終結のために山下を首相
にすべきと奏上している。

 山下は満洲という舞台裏で2年間を過ごし、いつしか国民か
ら忘れられていった。しかし、この間にも山下は対ソビエト戦
の準備を怠らなかった。もともと日本陸軍はソ連を仮想敵国と
して準備してきたもので、米英を敵とすべきではない、という
のが山下の考えであった。マレー作戦自体が、山下の志ではな
かったのである。

 山下が再び舞台に姿を現すのは、昭和19(1944)年9月、フィ
リピン第14方面軍司令官に任ずる命令が届いた時である。山
下にしてみれば、南方作戦をやらせるなら、そのままシンガポ
ールか、ジャカルタなりに配置しておけばよいものを、と脈絡
のない人事に憤懣やる方のない思いであったろう。

 山下は、満洲からフィリピンに向かう途中、東京に立ち寄り、
天皇による親任式を受けることに強くこだわったという。山下
はかつて226事件で反乱を起こした青年将校たちに深く関わ
り、昭和天皇から遠ざけられている、という風聞があった。こ
のままでは死ねないという思いが強かった。

 幸い、今回は拝謁を許され、昭和天皇から「帝国の安危は一
に比島(フィリピン)軍の肩にかかっている」と励まされた。

■5.一蹴された持久戦構想■

 しかし、フィリピンで待っていたのは、またも悲劇的な状況
だった。日本軍はフィリピン周辺での制空権も制海権も失って
いた。正面から決戦を挑んでも勝ち目はない。

 航空機の攻撃を受けにくいルソン島北部の山間部やジャング
ルに強固な陣地を敷いて、アメリカ軍に持久戦を強要し、兵力
を消耗させる。それによって、台湾、沖縄への侵攻を可能な限
り遅らせる。それが当時のフィリピン方面軍にとって唯一、戦
況に貢献できる作戦だ、と山下は判断した。

 実際にこの戦法は、翌年春、栗林忠道中将が硫黄島で採用し、
小さな島ながら36日間も米軍を引き留め、米軍に死傷者2万
6千余の打撃を与えている。[a]

 しかし、山下の構想は認められなかった。南方総軍は米軍上
陸の予想されるレイテ島での決戦を命じてきた。山下から見れ
ば、狭隘なレイテ島では持久戦は成り立たず、むざむざ兵と資
材を浪費するだけである。山下は意見具申したが、一蹴されて
しまった。

 やむなく、ルソン島から第1師団、第26師団をレイテ島に
送ったが、到着する前にほとんどが米潜水艦と爆撃によって海
中に沈められてしまった。海軍も総力をレイテ沖海戦に注ぎ込
んだが、敗北に終わった。

 昭和20(1945)年1月1日、山下奉文率いるフィリピン方面
軍は、マニラを放棄し、ルソン島北部の高地バギオに司令部を
移した。

■6.持久戦■

 山下軍司令部は、米軍の攻勢にさらされながら、4月半ばま
でバギオで持ちこたえた。そこからフィリピン方面軍は、じり
じりと北方山中へ後退しながらも、米軍との持久戦を戦った。

 日本軍の抵抗は凄まじかった。斜面全体に蛸壺を掘り、迫り
来る米軍に反撃を加え、奪われた陣地を、夜間の切り込みで奪
回する。戦車を道路側面に穴を掘って隠し、米軍の戦車の通過
を待って体当たりするという戦法をとった。

 山下は全将兵に対して、玉砕をきびしく禁じ、何があっても
生き残るよう命じた。決戦を避けて、一人でも多くのアメリカ
兵をルソン島に貼り付けておくことが、祖国防衛のためにフィ
リピン方面軍がなし得る貢献だった。

 物資・食料の輸送もままならず、飢餓に襲われながら、日本
軍は戦った。もはや山下の乗る車もなく、険しい山道を杖をつ
きながら夜陰に紛れて退却した。道路沿いには、マラリアなど
に倒れた兵士や、軍とともに逃れてきた在留邦人たちがうずく
まっていた。

■7.最後の使命■

 9月2日、ポツダム宣言を日本政府が受諾してから2週間以
上もたった後、山下は幕僚を連れて、山々に囲まれた町キアン
ガンまで降りてきて、米軍に投降した。シンガポールの南方軍
総司令部から与えられた命令が「停戦」だったことを盾に、無
条件降伏を拒否し、条件付停戦をアメリカ軍に呑ませていた。

 翌日、山下はバギオに連行され、降伏調印式に臨んだ。会場
にはマッカーサーの指示で、かつてシンガポールで降伏した英
軍のパーシバルも参列していた。山下への意図的な侮辱である。

 山下はその後、マニラに護送されて、10月9日に戦争犯罪
容疑者として起訴された。フィリピン各地で配下の将兵が起こ
したとされる事件に関する容疑で、山下自身には何の覚えもな
い事ばかりであった。

 山下につけられた米人弁護士フランク・リールは、指揮官が
命令もせず、知りもしなかった部下の戦争犯罪について、責任
を問うことは、従来の法理論を覆す悪法になると考えていた。

■8.山下に惹きつけられた米人たち■

 リールのアドバイスに従い、山下は積極的な法廷闘争を行っ
た。磨き上げられた拍車付長靴を履き、ありったけの勲章をつ
けて証言台に立った。山下にとっては、一人でも多くの部下を
無事に帰国させ、また祖国の名誉を護るための戦いであった。

 降伏調印式や戦犯裁判で屈辱を味わうよりは、ひと思いに自
決してしまった方が、山下個人としては、はるかに楽であった
ろう。しかし、司令官として戦いを収め、一人でも多くの部下
を無事に帰国させることを、山下は自らの最後の使命と考えた
のである。

 そんな山下の人柄にリール弁護士は魅せられてしまった。
「私が知る限り、山下を知って、個人的に彼にひきつけられな
かったアメリカ兵は一人もない」

 山下の法廷への出入りの警護を受け持っていたケンワーシー
少佐も、リールに対して「法廷がどのようなことを言おうとも、
私は、いつも彼を偉いやつ----本当の紳士だと思っているとい
うことを山下大将に告げてもらいたい」と頼んだという。

 山下はその人格で、祖国の名誉を護ったと言える。

■9.「赤ちゃんを大事に立派な日本人になるよう育てゝ欲しい」■

 年開けて、昭和21(1946)年1月7日、山下らを収監してい
る既決犯収容所を、フィリピン方面軍のかつての部下たちが訪
れて、草むしりをした。処断されるかつての上官たちの住居の、
せめて周りだけでも見苦しくないようにしたい、という思いで
あった。山下は部下たちに気づき、次のように語ったと伝えら
れている。

 閣下が私共の側に歩み寄られて、「ご苦労さん、皆元気
かな」と言葉をかけて下さり、次のことを仰いました。

 私は現在米軍の捕虜収容所にいる君達全員が一日も早く
内地へ送還されるのを見届けたいと思っていたが、米軍の
都合はそうは参らぬ様である。君達は恐らく復員したら自
分達が頑張って、焦土と化した日本を復興させるのだと意
気込んでいることゝ思う。そこで私から諸君に言って置き
たいことがある。

 それは、君達が内地に上陸した時「お母さんの膝の上で
抱かれてオッパイを飲んでいる赤ちゃんを大事に立派な日
本人になるよう育てゝ欲しい。その赤ちゃんが、きっと将
来日本を復興させてくれると思う。そのこと、しっかりと
頼むよ」と仰言って、かすかな笑みを浮かべてその場を去
られました。[1,p206]

 山下は辞世として次の3首を詠んでいる。

野山わけ集むる兵士十余万かへりてなれよ国の柱と
今日もまた大地踏みしめかへりゆく我がつはものの姿たの
もし
待てしばしいさを残して逝きし戦友(とも)あとをしたひ
てわれもゆきなむ

 昭和21(1946)年2月23日午前3時、マンゴーの樹の下に
設けられた絞首台の前に山下は立たされた。黒い袋を頭にかけ
られる際に、「皇室の弥栄(いやさか)を祈り奉る」とつぶや
いた。煌々たるライトの下、山下は13階段を昇っていった。
(文責:伊勢雅臣)

伊勢先生の国際派日本人養成講座より転載しています。
『蔵和辞典』編纂の為に人生をかけられた彗海さんのエピソードをお読みください。

長文ですが、よろしく。

人物探訪:河口慧海のチベット行(下)

 国民教化の夢を目指して、慧海は冒険につぐ
冒険の人生を送った。
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 ■1.「これは世界最大のコレクションであろう」■

 明治37(1904)年、日露戦争の最中、英国遠征隊がチベット
に侵入し戦闘を始めた、というニュースが伝えられた。

 帰国して2年、慧海は講演と執筆の多忙な日々を送っていた
が、このニュースに再度のチベット入りを決意した。戦争の混
乱の中では鎖国体制もほころびが出ているだろう、前回の探検
では十分収集できなかった仏典を入手できるのではないか、と
考えたのである。

 10月11日、神戸港から出発。11月3日、カルカッタに
上陸した後、ビザを得て、翌1905(明治38)年3月に、まずネ
パールに入った。

 2年前にネパール国王に拝謁した時、慧海は漢訳の大蔵経と、
サンスクリット語の原典を交換しようと約束していた。慧海が
漢訳版を献上すると、国王は慧海に下賜する仏典収集を収集す
るよう命じた。日本びいきの工部大臣キショル・ナルシン
・ラナの肝いりで、10人もの人手を出して、各地の旧家に保
存されている仏教原典の収集が進められた。同時に慧海も自費
での買い付けを行った。

 慧海はネパールに9カ月滞在し、346部もの教典をカルカッ
タに持ち帰った。後に慧海を訪ねた著名なドイツ人インド学者
ヘルマン・オンデンベルヒは「これは世界最大のコレクション
であろう」と感嘆した。

■2.亡命中のダライ・ラマに拝謁■

 慧海は、その後インド北東部ガンジス河沿いの都市ベナレス
に7年間滞在し、仏教原典を読解するために、サンスクリット
語を学んだ。この地はサンスクリット研究のメッカとして知ら
れ、慧海は中央ヒンドゥー学院(現在のベナレス・ヒンドゥー
大学)の名誉学生となり、ここの教授の指導のもと、毎日9時
間から10時間もの猛勉強をした。

 日本にもサンスクリットの学者はいるが、チベット語もでき
る人はいない。サンスクリット語の原典とそのチベット語訳の
比較研究は、自分の双肩にかかっている、というのが、慧海の
使命感だった。

 この時期に慧海は第一回のチベット探検をテーマとした『西
蔵旅行記』の英語版『スリー・イヤーズ・イン・チベット』を
出版した。チベット人の風俗、習慣、精神生活をアジア人の視
点から描き、また手に汗握る冒険物語の魅力も備えたこの本は、
エカイ・カワグチの名を世界に広めた。

 慧海はこの間にも、再度のチベット入りの機会を窺っていた。
2回目の旅では、ダライ・ラマ、パンチョン・ラマといった然
るべき宗教指導者に話をつけて、チベット大蔵経を入手しなけ
ればならない。

 そのダライ・ラマは1904(明治37)年に英軍がラッサに迫っ
た際、モンゴルのウルガ(現・ウランバートル)に亡命してい
た。1909年にダライ・ラマは5年ぶりにラッサに帰還したのだ
が、今度は清の軍隊2千が東チベットを武力で制圧した。

 ダライ・ラマは昨日の敵・英国の庇護を求めて、インドに脱
出し、国境近くの高原都市ダージリンに国賓として迎えられた。
この時のダライ・ラマは13世であったが、現在の14世とまっ
たく同じ格好である。

 慧海はダージリンにダライ・ラマを訪ね、何度か拝謁して、
チベット入国を許された。

■3.人食い坂■

 1913(大正2)年12月20日、二度目のチベット行に出発。
今回はダージリンからまっすぐ北上し、シッキム王国を通って、
チベット入りするという最短ルートをとった。

 1月10日、慧海と現地人の荷物運び3人の一行はメト坂に
さしかかった。ここは人食い坂とも呼ばれ、雪嵐に襲われて凍
死または餓死する旅人が前年だけで十数人も出た、という名う
ての難所である。

 幸いに朝から空は晴れていた。ティスタ川上流の氷河を幾度
も渡りながら、急坂を登る。午後4時、斜めに切り立った大岩
壁の陰に狭い空き地を見つけ、その晩はここに泊まることとし
た。火を起こして夕食をとり、周囲に床を延べて眠りについた。

 暴雪風が始まったのは、真夜中のことである。従者の一人が、
慧海を起こして言った。

 ラマ(お坊)様、風は南から強く吹いて、雪は大雪、空
は真っ暗。本当に暴風になる気配です。ラマ様、祈祷して
この大難を払って下さい。

■4.慧海の涙■

 それでは、と慧海は起き上がり、「わしは今からこの難を逃
れるために祈願するから、お前たちは安心していなさい」と言っ
て、敷布の上に座り直し、一心不乱に釈迦牟尼の姿を観じ、こ
の暴風雪を晴れしめ給え、と祈った。しかし、暴風雪が岩壁を
打つ音はますます激しさを加えていく。

 嗟呼(ああ)斯(か)くては我は信力少く徳微(かすか)
にして此処(ここ)に死に果てんか十年以来我帰朝を待ち
給へる我老母は云何(いか)に感ぜらるゝならん、不孝の
我身よ。

 こう思った途端、十数年前の最初のチベット旅行の際には、
どんな危難にあっても、決してこぼれたことのない涙が、慧海
の両眼からどっと溢れ出た。

 それからしばらく、従者の叫び声が、慧海の瞑想を破った。

 ラマ様、雪が止んで、空に2、3の星が見え、雲がまば
らになってゆきます。この分なら、私らも死なずにすみそ
うです。まことにありがたいことです。

 慧海は、晴れゆく空を見ながら、仏がこの凡夫の真心を受け
取って下さったのだと、改めて熱い涙を流した。

■5.首都ラッサの変貌■

 チベットに入ると、一行は馬を提供され、宿のない所では、
その地方の村長宅に泊めてくれた。この優遇の理由を、慧海は、
チベット人の間で日本を妙に買い被る風潮があったためと指摘
する。

 日本は、義のため、平和のために他国を救う仏菩薩の国であ
る。だから、日本人を大切にしておいたならば、他日、日本が
チベットを救う時、まずわれわれを率先して救ってくれるだろ
う、と現地の人々は考えていたようだ。これにはロシアの極東
侵略を防いだ日露戦争の影響が多分にあるだろう。

 また前回ラッサ滞在中に評判となったセライアムチ(セラの
医師)が来た、という報を聞きつけた人々が、毎日のように治
療を受けにやってきた。慧海は前回の経験から、出来るだけの
医薬を持ってきていたので、惜しげもなく施薬した。生まれて
から薬を飲んだことのないチベット人には、面白いように効い
た。耳かき一杯ほどの薬を与えると、翌日には治って、お礼に
来るほどであった。

 8月7日、首都ラッサ入り。慧海は12年ぶりに見る「仏の
地」の変貌ぶりに驚いた。侵入してきた中国軍との戦闘で、市
街地の3分の2は火災を被り、今なおあちこちに空き地が残っ
ていた。

 ダライ・ラマ13世は、独立を維持するために、英国の後ろ
盾を得たい、と考えていたようだ。また元日本陸軍軍曹・矢島
保次郎が、ダライ・ラマに見込まれて、チベット軍要請訓練教
官を務めていた。ダライ・ラマは、チベット軍を近代化するた
めに、日本の協力を期待していたらしい。

 国際社会の荒波は、世界の秘境にも、ひたひたと押し寄せて
いた。

■6.仏典収集■

 前回のチベット入りでは十分な仏典収集ができなかったが、
今回はダライ・ラマ、パンチョン・ラマと直接会って、仏典の
下付を願い出た。

 パンチョン・ラマには漢文大蔵経を献上し、チベット大蔵経
の下付を請願した。パンチョン・ラマは著名なナルタン版の版
木を管理しており、西の都シガツェ近郊のナルタン大僧院で1
組、印刷されて、慧海に下賜された。

 ダライ・ラマは、慧海のためにサンスクリット語の仏典の写
本を探させた。中央チベット南部の町ギャンツェのパンコル
・チョエデ寺で良い写本が見つかったので、それが慧海の下賜
されることになった。

 また慧海自身も、各地の古寺を訪ねて仏典を探した。シガツェ
の東方22キロのところにあるシェル寺を訪ねた所、11世紀
に書写されたサンスクリット語仏典が見つかり、そのうち『法
華経』と仏教詩集の2部を贈られた。

 こうした旅の途中、慧海はチベットの高山植物の採集にも、
熱心に取り組んだ。

 昼間長い道を旅して、夜はまた採集した植物の整理をす
るのは並大抵のことではなかった。昼間も従者達が食事の
支度をしている間に、標本に当てた湿った紙を取り替える
など、少しの暇もなかったが、幸に身体が壮健であったし、
珍しい植物を集めて持ち帰ったら日本の植物学者がどんな
にか喜ぶだろうと考えると、困難も忘れて熱心に採集した。
[『慧海伝』,1,p282]

 慧海が収集した1千余点と言われる植物標本は、後に国立科
学博物館に寄贈された。この中から、新種、新変種などが20
種ほど発見されている。

 さらに化石を含む鉱物標本、毛皮などの動物標本、仏像、仏
画、仏具、装飾・工芸品、日用雑貨などが、大量に収集され、
現在は東北大学文学部の「チベット資料室」に河口コレクショ
ンとして保管・展示されている。

■7.11年の収穫■

 慧海は、大量の仏典と収集品をインドに持ち帰り、1915(大
正4)年8月7日、カルカッタから日本郵船の博多丸で帰国の
途についた。

 11年にも渡った今回の旅の収穫は大きかった。主目的であ
るサンスクリット語およびチベット語の仏典を手に入れ、また
植物・鉱物・仏教関連の膨大な資料を収集した。

 さらに、今後の仏典研究のために、サンスクリット語を習得
し、パンチョン・ラマなど、数多くの人々と親交を結んだ。

 しかし、これらの業績は、慧海にとっては志を実現するため
の一里塚に過ぎないものであった。慧海の本志は、仏教の原典
を辿ることによって、その真の教えを明かし、広めることであっ
た。

 この志を抱いたのが、明治23(1890)年頃であったから、す
でに四半世紀ほどの年月が経っていた。慧海はようやくサンス
クリット語、およびチベット語の仏教原典を入手し、両言語を
習得して、仏典和訳の入り口に立ったのである。

■8.仏典500巻の和訳へ■

 慧海は、帰国した翌年の大正5(1916)年4月から、有志の資
金協力を得て、仏典の研究・翻訳に着手した。同時にチベット
語学生を募集し、東洋大学で週に12時間、また夜間、自宅に
おいてもチベット語を教授し、3年後には一通りチベット語を
学び終えた弟子を5人ほど得た。

 これに力を得た慧海は、サンスクリット語、チベット語仏典
で、漢訳を改訳すべきもの、漢訳されていないもの500巻を
選び、今後10年かけて和訳する、という青写真を作成した。
これに従って『法華経』『維摩経』などの和訳対訳が、次々と
刊行されていった。

 こうした原典の研究を通じて慧海は、多くの宗派に分裂した
仏教界のあり方に根源的な疑問を得た。釈尊の入滅後、仏教は
中国を経由して、日本に伝わったが、その間に分裂を重ね、互
いに優劣を競ってきた。各宗派は、自らが伝えるもののみを真
として、他を貶(けな)しているので、いずれが真の仏教であ
るか、分からない。

 慧海はサンスクリット語、およびその逐語訳に近いチベット
語訳の仏教原典を通じて、釈尊の思想そのものに迫っていった。

■9.「生ある間はその尽くすべきに尽くさんことを期す」■

 こうした仏典の研究・翻訳の傍ら、慧海はチベット語の文法
書である『西蔵文典』の著述を大正5(1916)年から始め、10
年ほどかけて完成させたが、実際に出版に漕ぎ着けたのは、昭
和11(1936)年であった。

 文法書が出来上がると、慧海は休む間もなく、チベット語辞
書『蔵和辞典』の編纂にとりかかった。辞書があれば、チベッ
ト大蔵経に収録された数千の仏典を、統一された訳語で、効率
よく和訳する道が開ける。和訳大蔵経による国民教化という夢
に至る道である。

 昭和12年に知人たちに送った書状では、13万語の辞書を
13年の年月をかけて完成させる、という決意を述べている。
この時、慧海はすでに72歳である。

 何時死ぬか解らぬ生命を以て、斯(かく)の如き長時を
要する事業をなさんとするは、実に冒険事なりと云うべし。
然れども大方の事業は冒険なしに成就するものは甚だ稀な
り。故に自らその険を冒して、自衛自進以てその業を成ぜ
んことを期す。・・・生ある間はその尽くすべきに尽くさ
んことを期す。

 慧海は昭和25年の完成を目指して、辞書編纂に邁進したが、
大東亜戦争末期の昭和20年2月、眠るように亡くなった。享
年80歳。『蔵和辞典』は、ついに完成することはなかった。

 国民教化という見果てぬ山頂を目指して、チベット探検から
大蔵経和訳、そして『蔵和辞典』編纂と、冒険につぐ冒険の人
生であった。
(文責:伊勢雅臣)

伊勢先生の  国際派日本人養成講座  よりの転載です。

人物探訪:白洲次郎(下)~ 日本復興への責任と義務
「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々
の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」


         
■1.「吾々が招いたこの失敗」への「責任と義務」■

 戦後の日本に関して、白洲次郎はこう書いている。

 吾々(われわれ)の時代に馬鹿な戦争をして、元も子も
なくした責任をもっと痛切に感じようではないか。日本の
経済は根本からの立て直しを要求しているのだと思う。恐
らく吾々の余生の間には、大した好い日を見ずに終わるだ
ろう。それ程事態は深刻で、前途は荊(いばら)の道であ
る。然(しか)し吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも
取り返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義
務を私は感じる。[1,p270]

 自分たちは被害者だ、軍国主義者に騙された、という風潮が
支配的な時代において、「吾々が招いたこの失敗」の「責任と
義務」を主体的に負おうというのが、次郎の生き様であった。

 昭和21(1946)年4月、戦後初の総選挙で自由党が第一党と
なったが、社会主義政権誕生を目論むGHQ民政局のケーディ
スらは、党首・鳩山一郎を公職追放処分にしてまで、組閣を阻
止した。

 そこで鳩山や前首相・幣原に推されて、吉田茂に組閣の大命
が下った。その吉田にも公職追放の手が伸びていた。その情報
を掴んだ次郎は、ケーディスの対抗勢力であるウィロビー少将
と必死に掛け合って、なんとかそれを阻止した。

 首相に就任した吉田は、マッカーサーに会って「日本を赤化
させるおつもりですか」と迫った。おりしもソ連との冷戦の緊
張が高まり始めていた時期でもあり、マッカーサーは、GHQ
内でとくに「赤い」と目されていた局員を大方帰国させる措置
をとった。

 米国内では日本を防共の盾とする議論も出てきて、占領方針
も民主化から経済復興へと力点が移りつつあった。ようやく次
郎の「責任と義務」を果たす機会が訪れてつつあった。

■2.経済安定本部次長■

 昭和21(1946)年12月、次郎は経済安定本部(後の経済企
画庁)次長を兼任することになった。半年ほど後に、蔵相・石
橋湛山が経済安定本部長官兼任となった。石橋も気骨ある人物
で、GHQ経済科学局の幹部を相手に丁々発止とやりあった。
しかし、この石橋も任期途中で公職追放となってしまう。

 石橋は軍部を批判して、満洲を放棄し、朝鮮・台湾を独立さ
せよ、と主張した人物である。そんな人物までGHQは公職追
放したのだった。

 経済・財政面で石橋を頼りにしていた吉田は、経済学者たち
をブレーンとすることで、事態を打開しようとした。その根回
しに次郎が走り回った。目をつけた一人が東京大学経済学部教
授の有沢広巳(ありさわ・ひろみ)である。しかし、教授が政
府のブレーンになるというのは一般的でない時代のことである。
有沢は、次郎が何度頼み込んでも一向に首を縦に振らない。

 そこで次郎が考え出したのが、吉田を囲む週一回の昼食会に
何人かの著名な経済学者とともに参加して貰う、という方法で
ある。これにはさすがの有沢も断れず、吉田を囲んでの議論に
加わった。

 この席で有沢が披露したのが、傾斜生産理論である。限られ
た資金・資源をまず石炭の増産に集中し、この石炭を鉄鋼生産
に集中投下するという方法で、これにより生産が急回復し始め、
復興の起爆剤になった。

■3.民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者■

 昭和22(1947)年年頭、深刻な食料事情の中で頻発している
労働争議やストライキを沈静化させるべく吉田はラジオで国民
に呼びかけた。しかしその中で「私はかかる不逞の輩(やから)
が国民中に多数ありとは信じませんぬ」と口を滑らした。これ
が労働組合などを刺激して、世情騒然となった。

 GHQ民政局は吉田降ろしの好機と見て、マッカーサーを動
かし、総選挙を命じた。やむなく吉田は議会を解散して総選挙
に踏み切ったが、「不逞の輩」発言で支持率が急降下しており、
片山哲率いる社会党に第一党の地位を奪われてしまった。

 片山は単独では政権を担う自信がないので、自由党からも閣
僚を送って貰いたいと申し出たが、吉田はきっぱりと断った。
「主義主張を異にする両党が連立するのは、政党政治の本領に
反する」と言って、野に下ったのである。

 片山内閣で農相となった平野力三は吉田に近い人物だったの
で、ケーディスは強引に公職追放にしたが、平野派40名の支
持を失った片山内閣は総辞職に追い込まれてしまった。ケーディ
スは肝いりの社会党内閣を、自らの強引な追放措置で潰してし
まったのだった。

 ケーディスは、その後も政権を野党第一党の自由党に渡さず、
民主党総裁の芦田均を首相に据えた。ケーディスはいよいよ、
民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者となっていった。

■4.ケーディスとの最終決着■

 怒り心頭に発した吉田と次郎は、参謀第2部のウィロビーと
共闘して、ケーディスの追い落としを図った。

 おりしも、昭和電工が大規模な贈賄を行って、復興金融金庫
からの融資を引き出している、という疑惑が浮上していた。社
長の日野原は、前社長が吉田やウィロビーに近い人物だったた
めに公職追放とし、ケーディスが新たに送り込んだ人物だった。

 次郎やウィロビーはケーディスの身辺調査を行い、彼にも多
額の現金が渡ったという情報を新聞に流して、しきりに報道さ
せた。ケーディスの影響力は急速に低下していった。

 芦田内閣そのものも、この昭和電工の贈賄事件により、わず
か7カ月で総辞職に追い込まれた。次郎はウィロビーと共闘し
て、マッカーサーから、「GHQの総意としては吉田首相で問
題なし」という確約を得た。吉田は衆議院で多数を得て、昭和
23(1948)年10月に第2次内閣を発足させた。

 ケーディスはなおも吉田内閣を潰そうと画策したが、吉田は
国会を解散して、民意を問うた。翌年1月の総選挙では吉田率
いる民自党(自由党と民主党の一部が合同)が圧勝し、第一党
だった社会党は143議席から48議席へと激減、党委員長の
片山まで落選の憂き目を見た。

 ケーディスは失意のうちにアメリカに帰国した。こうして日
本に社会主義政権を作ろうとする陰謀は未然に防ぐことができ
たのだが、その陰には次郎の奮闘があったのである。

■5.経済復興のための大抜擢人事■

 傾斜生産方式が奏功し、我が国の鉱業生産は戦前の5割程度
まで回復していたが、GHQ財政顧問として来日したジョゼフ
・モレル・ドッジはインフレを沈静化するために、復興重視の
政策を超均衡財政に転換しようとした。

 次郎は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策が発表された時、
これまでの努力がすべて水の泡になるのではないかと危惧した。
ドッジに対抗するためには、経済理論に明るく、押しも強い人
物を大蔵大臣につけなければならない。そうした人物を求めて、
次郎は東奔西走した。

 そして見つけたのが、前大蔵省事務次官の池田勇人(はやと)
だった。吉田は昭和24(1959)年1月の総選挙で、池田を立候
補させ、当選すると一年生議員にもかかわらず大蔵大臣に大抜
擢した。当選回数を重ねた議員から囂々(ごうごう)たる不満
が噴出した。しかし池田は期待通りの活躍を見せた。ドッジと
も何度も渡り合って、深い信頼関係を築いた。

 池田は昭和34(1959)年に首相となるが、天才的なエコノミ
スト下村治をブレーンとして、10年間でGNP(国民総生産)
を2倍にするという「所得倍増計画」をスタートさせ、高度成
長を実現していく。[a]

■6.「新しい貿易庁を作る!」■

 昭和23(1948)年12月1日、次郎は吉田首相から商工省の
外局である貿易庁の長官に任命された。次郎は以前から、輸出
産業を育成し外貨獲得を図るために、商工省を改組してもっと
強力な組織を作る必要がある、と主張していた。そこで吉田か
ら「じゃあ、お前やってみろ」と言われたのである。

 商工省は多くの優秀な役人を抱える巨大組織である。それを
変革するのは、よほどの信念と実行力を持った人物が必要であ
る。それには次郎しかいない、と吉田は見込んだのである。

 次郎はまず味方にすべき人物を捜した。そこで目をつけたの
が商工省物資調整課長の永山時雄であった。まだ若かったが省
内随一の切れ者として名が通っていた。

 次郎は永山を呼んだ。ちょうど、永山の方も商工省の事務次
官から次郎の動向を探るように依頼を受けていたので、敵情視
察のつもりだった。その永山に対して、次郎にしては珍しく熱
弁を振るった。

 今の日本にとってもっとも重要なことは、輸出産業を振
興させて外貨を獲得し、その外貨でさらに資源を購入して
経済成長にはずみをつけることだ。ところがこれまでの商
工省の施策は国内産業の育成が中心だった。これからは、
貿易行政があって産業行政があるというふうに180度考
え方を変えていかなければならない。だから、、、

 と息をついで、一気に言い切った。

 占領下で動きのとれない外務省も、軍需省の尻尾をひき
ずる商工省も、ともに潰して新しい貿易庁を作る!

 永山は全身に鳥肌がたった。純粋に国を思う情熱、先例や常
識をかなぐり捨てた構想の合理性、先進性。この日を境に永山
は次郎の信奉者となった。

■7.通商産業省の誕生■

 次郎は、永山に「通商産業省(仮称)設置法案」をまとめさ
せ、翌24(1959)年2月8日に閣議決定に持ち込んだ。就任後、
わずか2カ月ほどのスピードで、役人たちには反撃の隙も与え
なかった。

 商工省からは、せめて名称を「産業貿易省」にしてくれ、と
言ってきた。国内産業重視の看板を下ろしたくない、という最
後の抵抗である。しかし、次郎は「貿易より産業が先にきてい
るような名前はダメだ!」の一言。さらに通産省内のすべての
局に「通商」という名前をつけさせて貿易重視の意識改革を徹
底した。

 同年5月25日、通商産業省が誕生した。貿易庁から引き継
ぎにきた事務官に対し、次郎は「引き継ぎするものなど何もな
い。お前らは通産省を貿易庁の後身だと思っているのか。過去
は振り替えらんでいい。これからまったく新しい行政を始める
んだ」と言って、一切の引き継ぎを拒んだ。

 そして通産省の次官や局長には、次郎が目をつけた優秀な官
僚を配置して、立ち上げを確固たるものにした。その上で、自
分はさっと身を引いてしまったのが、次郎らしい無私な所であっ
た。

 この後、通産省は日本経済の「参謀本部」として高度成長に
向けて牽引していく。

■8.「何だこれは! 書き直しだ」■

 昭和26(1951)年9月、吉田茂は講和条約に調印すべく、サ
ンフランシスコに向かった[b]。次郎も顧問として随行した。
調印式の後には吉田による受託演説が予定されていたが、吉田
はその二日前に、次郎に演説草稿のチェックを頼んだ。

 外務省の役人が持ってきた草稿を一目見るなり、次郎は渋面
を作った。英文だったからである。「日本人は日本語で堂々と
やればいいじゃないか!」

 内容も問題だった。占領に対する感謝の言葉が並んでいて、
まるでGHQに媚びているような文面である。

「何だこれは! 書き直しだ」

「ちょ、ちょっと待ってください。事前にGHQ外交部の
シーボルト氏やダレス顧問にチェックしてもらったもので
すから、勝手な書き直しなんかできませんよ」

「何だと! 講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等
の立場になれるんだろう。その晴れの日の演説原稿を、相
手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界
にいるんだ!」

■9.ウィスキーのグラスをあおりながら■

 次郎はサンフランシスコのチャイナタウンで和紙の巻紙を買
い求めさせ、毛筆で書き始めた。

 懸案である奄美大島、琉球列島、小笠原諸島の返還にも言及
した。外務省の役人は必死に止めようとしたが、次郎は
「GHQを刺激するから触れるなだと。バカヤロー、冗談を言
うな」と一喝した。「小笠原や沖縄の人々の気持ちにもなって
みろ」という思いだった。

 草稿は吉田の演説直前にできあがった。長さは約30メート
ル、巻くと直径10センチほどになった。ぶっつけ本番となっ
たが、吉田は悠揚迫らぬ態度で読み上げていった。

 日本の新生を世界に報ずる一大イベントも無事に終わった。
次郎はマーク・ホプキンス・ホテルの自分の部屋のソファーに
身を沈めた。早いピッチでウィスキーのグラスをあおりながら、
次郎は泣いていた。

 敗戦後、わずか6年だったが、いろいろな事があった。屈辱
的な憲法改正、赤いGHQ将校たちとの死闘、そして通産省創
設など経済復興への段取り。

「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子
供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務」の幾分かは果たせた
のである。サンフランシスコの夜は静かに更けていった。
(文責:伊勢雅臣)

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