老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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尖閣諸島が日米安保の共同防衛地でないならば、
日本独自の国家防衛は必需。
アメリカの傘は信頼できない。
日本の傘が必要。
領有権を他国に任せるのが間違いの基である。
日本国と台湾国で軍事同盟を結ぶことに全力をあげよう。


◆“尖閣の領有権 米は中立”

 (NHK 2009/2/28)

 http://www3.nhk.or.jp/news/k10014470661000.html#


 中国を訪れているアメリカ国防総省の高官は、28日、記者団に対し、日

中双方が主権を主張する尖閣諸島の領有権問題について「アメリカは、いか

なる立場も取らない」と述べて中立の立場を示し、双方が平和裏に解決する

よう促しました。



 尖閣諸島をめぐっては、麻生総理大臣が26日の衆議院予算委員会で、

「日本の領土である以上、日米の安保条約の対象になる」と述べたのに対し、

中国側は「中国固有の領土だ」として、強い不満を表明しました。



 これに関連して、アメリカ国防総省のセドニー次官補代理は、28日、北

京で記者団の質問に答え、「尖閣諸島の最終的な主権の問題について、アメ

リカはいかなる立場も取らない。これはアメリカの一貫した立場だ」と述べ、

中立の立場を示しました。



 そのうえで「この問題を平和的な手段で解決することを希望する」と述べ、

日中双方が平和裏に解決するよう促しました。



 尖閣諸島の問題をめぐっては、5年前、アメリカ国務省の報道官が、領有

権の問題では中立の立場を保つとしながらも、「尖閣諸島は、日本の施政の

もとにあり、日米安全保障条約が適用される」と述べています。しかし、セ

ドニー次官補代理は、日米の安保条約が適用されるのかどうかについては明

確に答えず、この問題で敏感になっている中国側に配慮を示した形です。
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「防衛大臣のあるべき姿」

として、松島悠佐氏が「甦れ美しい日本」に記しておられます。
皆様にご紹介いたします。
日本に防衛大人が務まる議員は居るのでしょうか。
少なくとも、自民党内には五指に満たないと断言できます。
くたばれ自民党。
真正保守党を立ち上げよ。

-----------------------------------          
昨年(08年)の防衛省は、2月に起きたイージス艦「あたご」の衝突事故、10月末に起きた田母神空幕長の更迭問題で大いに揺れました。この問題には、防衛省のみならずわが国の防衛の根幹に関わる大事な要因が含まれていたのですが、単なる海事事故処理や個人的な更迭・解任処置だけで幕引きにしてしまった感じがします。

両方に共通していることは、防衛大臣の自覚と事態対応能力の欠如にあるようです。
イージス艦の衝突事故は、「あたご」乗員の緊張感の欠落や規律の弛緩、ならびに小型漁船のやや無謀と思える操船の双方に原因があったと思われますが、目下海事審判中であり、ここでとやかく言うのは差し控えます。

ただこの事故には、国の防衛警備に従事する自衛艦の行動を、平素からいかに取り扱うべきかという問題が含まれていたのですが、石破大臣(当時)の対応はこのことには一切触れずに、自分への報告に1時間半も掛かったことは不適切と発言し、自ら防衛省への不信感を助長しただけでした。

 報告が遅かったことが問題になるのは、「早く報告を受けていれば処置できたことが、報告が遅かったために処置が出来なかった」という場合ですが、このイージス艦事故についてはそのような問題は何もありませんでした。

0407に衝突事故が発生してから1時間半後の0540には大臣に報告されています。海上自衛隊が行なった事故発生直後の処置と報告は、適切に行われていると思います。
大臣は、事故報告を受けた後、誰に何をどのように指示したのか分かりませんが、大臣の説明の端々から推測すれば、対応がすべて他人事であって、自ら処置したことは何もないような感じがします。

事故発生から1時間半後の報告が、もし1時間後だったとしたら何が出来たのでしょうか、事故直後の30分や1時間で大臣が処置することなど何もなかったと思います。当面の事故処置は現場の自衛艦や海上幕僚監部に任せて、大臣は「善処せよ」といっておけば済む話です。

むしろこの事件を機に、防衛大臣が取り組むべきことは、防衛警備に従事している自衛隊の行動規範の問題、例えば、公務に就いている自衛艦の航行の優先権、特に沿岸での小型船との航行優先権をどのように考えどのように確保するか、ひいては、災害派遣時の自衛隊緊急ヘリの航空管制権や、災害派遣車両の優先通行権など未解決な問題を、いかに実際的に解決するかを考えることが大事なことでした。

 ところが実際には、大臣への報告が遅かったとか、発見が2分前だったのか12分前だったのかといった、メディアの瑣末な問いただしに答えて情報を二転三転させ、自衛隊への信頼性を失わせるような種を自ら蒔きました。

さらに、「あたご」の航海長を防衛省に呼び寄せ、大臣以下が聞き取り調査していたにもかかわらず、聴取の事実が明るみに出ると、航海長を招集した責任を当時の海上幕僚長に押し付けて更迭し、混乱に拍車をかける要因を作ってしまいました。

さらにもっとひどいことは、石破大臣が9月半ばの自民党総裁選に自ら出馬したことです。当時は「あたご」の事故当事者が海難審判の公判中でしたが、石破氏は事故の当事者であった防衛大臣でもあり、防衛相の任が外れていたとは言え、かつての部下が公判中であれば、自らも謹慎して公判の進捗を注視すべきでしょう。防衛大臣を降りれば、もうまったく関係ないような顔をして、本命でもなければ嘱望されてもいない総裁選に出てくる等、かつては自衛隊の責任者であったことの自覚もない無責任な態度でした。

田母神空幕長の更迭問題にも、浜田防衛大臣の不適切な対応が目に付きました。
田母神氏は、「日本は侵略国家であったのか」という論文を発表して問題になりましたが、それは政府の外交方針、即ち「過去の植民地支配や侵略を謝罪する」とした村山談話の見解を逸脱しており、航空自衛隊のトップである幕僚長がそのような意見を部外に公表したことが不適切だという指摘でした。

浜田防衛大臣は、麻生総理の指示に従ったにせよ、傍目から見てもあたふたと、後任の幕僚長も決めずに罷免し、休日の夜のうちに解任するなど、前代未聞の人事措置をしました。この措置は明らかに、野党の追及をかわし、当時懸案になっていた解散総選挙に悪影響を及ぼさないように早々に幕引きを図る狙いがあったのでしょう。

しかし、田母神論文問題の本質は、自衛隊にとって村山談話の歴史認識と田母神歴史観のどちらを正しいとするのかを、考え直すことにあったのではないかと思います。
大東亜戦争も日米戦争も複雑な要因が重なって起きたものであり、村山談話のように、日本が判断を誤り侵略したのがすべての原因とすることには異論があります。少なくとも日本がすべて悪いとする認識をもって周辺諸国に謝罪して歩く姿勢は正しいこととは思えませんし、愛国心を損なう結果を生じています。

自衛隊の使命は国の平和と独立を守ることであり、常に国家を基準に物を考え、使命を自覚し、強い愛国心を養うことを柱とした精神教育を行なっています。それは、自衛隊創設以来ずっと継続してきたことです。

愛国心育成のためには自らの国に誇りを持つことが大事であり、教育に際してそれを強調するのは当然です。自衛隊では村山談話の歴史認識にはあまりとらわれずに、愛国心の育成・高揚に努力しています。
さは然りながら、政府は村山談話を引きずっているのは事実であり、この機会にそのことを自衛隊の教育の中でどのように折り合いをつけるのかを考えることが大事だったのではないかと思います。

ところが浜田大臣はその本質的なことは採り上げず、政府の見解を逸脱した論文を部外に発表したことが幕僚長としての適格性に欠けると繰り返すばかりで、早々に罷免し縁切り追い出しの処置をとっただけでした。

しかもその措置は、40年間自衛隊に奉職し最後は空幕長まで勤めた者への処遇とは思えないほど冷淡なものでした。
大臣としては、田母神氏の論文発表のどこがどのように不適切なのかを明らかにするべきであり、もし規律違反があるのならば懲戒処分の審理を行なうべきでしょう。懲戒処分を検討すると審理に時間がかかるから早々に退職させたと弁明していましたが、実に不適切な措置だったと思います。さらに野党から追及されると、退職金の返納まで促すような情けない対応でした。その言動と対応には、25万の自衛隊を率いて国を守るという自覚は感じられませんでした。

戦後のわが国は自虐的歴史観に苛まれ、自らの防衛すらまともに出来ない状態になっています。国土防衛のための核抑止力や戦略兵器をすべてアメリカに頼り、ミサイル防衛すらアメリカの支援がなければも出来ないような状況です。自国の領土である竹島を占領されていても何にも出来ず、英霊を奉る靖国神社の参拝も中国や韓国の顔色を見ながら、今ではほとんどの閣僚が公式参拝を拒否する姿勢をとっています。これでよいと思っている憂国の士は少ないと思います。

そのような環境の中で、わが国の防衛に黙々と正面から取り組んでいるのが自衛隊です。軍隊なのか軍隊ではないのか、曖昧な状態に置かれて日々苦労しながら任務を果たしている自衛隊の実情をしっかり見極めて、それを本質的に改善する政治的な施策を考え、その先頭に立って、問題点の解決に挑戦するのが防衛大臣の使命だと思います。

防衛大臣のあり方については、一昨年(07年)夏ごろ、久間大臣や小池大臣の辞任、あるいは中谷大臣、石破大臣による安部総理に対する批判行動などの折に、このコラムにも何度か書かせてもらいましたが、防衛大臣には他の大臣とは違う「陸海空の三自衛隊の指揮官」としての職責があることをしっかりと自覚しなければなりません。しかも部下たちへの責任は、職を辞した後も負わなければならないものです。それが指揮官の定めであり、指揮官とは終生、かつて指揮した部下と組織に対して責任を負うものです。

うわついた世論に迎合せず、軽薄なメディアの扇動に踊らされず、目先の政治に翻弄されず、また大陸からの教唆に惑わされず、国を守るということはどういうことなのか、軍隊・自衛隊を指揮するとはどういうことなのか、その本質をしっかり理解し、国と国民を守る最後の砦を預かっているとの自覚を持たなければなりません。
それが防衛大臣のあるべき姿ではないでしょうか。今年は防衛計画大綱の改定や防衛省改革が行なわれる年ですが、是非そのような視点から本質的な施策が生まれることを期待しています。     (09・1・1記)

本日は「大東亜戦争開戦日」です。  いろいろな動画がありますが、

 やはり特攻隊の動画は涙します。

 http://jp.youtube.com/watch?v=21JHuOs4MO0&feature=related

以下もご覧になってください。

真珠湾攻撃前に斉唱する大日本帝國海軍
http://jp.youtube.com/watch?v=M-sOUkveHug

1941年12月8日真珠湾攻撃の臨時ニュース
http://jp.youtube.com/watch?v=U3vtMKRcY9k

真珠湾攻撃
http://jp.youtube.com/watch?v=voJSPFNAUOA&feature=related



開戦までの日米交渉
http://www.jacar.go.jp/nichibei/index2.html

自衛隊の皆様に尊敬の念を持つことは、大事なこととは理解していましたが、果たして尊敬の念が小生の行動を伴ったものであったかというと自信はありませんでした。

改めて、考えさせられました。
以下はあるところに記載されていたコメントですが、借用させっていただきました。

自衛隊の将兵に対する態度を考える

<<陸上自衛隊の元陸将だったTさんから聞いた話ですが、
アメリカにご出張の際、乗車中の列車が目的地に近づいたとき
「この列車にゼネラルが乗っておられます。
そのゼネラルが次の駅で下車されるので一般のお客さんは
案内があるまで下車しないで下さい」
という社内放送があったそうです。

「誰が乗っているのだろう?と思ったのだが、なんと
私のことだった。
アメリカ軍のゼネラルならともかく、日本人の私に対しても
アメリカ人が敬意を表わすという事を体験し、軍人を尊敬し、
大切に扱う国民の意識について日米に大きな違いがあること
を感じた」
との事でした。

諸外国の強い要請により再開された高度な海上給油活動、
アメリカ海軍が非常に秀れていると認めた
わが国イージス艦の操艦技術、
イラクにおける陸上自衛隊、航空自衛隊の秀れた支援活動などが、
海外から非常に高く評価されているに関わらず、
私たち国民は冷淡な態度をとり続けています。

沖縄まで自国領土と見なして軍備増強中の中共をはじめ、
竹島を占拠した韓国、ロシア、北朝鮮など近隣の国から攻撃を
受ける怖れが皆無とはいえない現在、
「国民を護るため、自分の命を捨てることもあり得る崇高な
任務を負っている」という「誇り」を持ち日夜任務についている
自衛官の存在があればこそ 私たちは安心して過ごすことが
できています。

私は防衛省に何の利権も持たないただ一人の日本人ですが、
防衛省での不祥事から肩身の狭い思いをしているだろう自衛官が
「誇り」を維持し「自信」を高めて貰うためには、私たち国民が
自衛官に対するこれまでの冷淡な態度を改め、
前述のアメリカ国民のように
「尊敬と大切に思う気持ち」を持って接することが必要だと
痛切に思っています。

最近この思いを私の周りの人に伝え始めました。、

この投稿をお読み頂いた方が周りの方にその思いを伝えて頂くと
ともに、自衛官に対する「意識変え」を推進頂くことになれば、
その輪の広がりが速く大きくなるものと思います。                   以上 >>

渡部亮次郎様の「マッカーサー到着が今日」のコメントを昨日受信しました。
昨日・今日と時間が無かったもので、この時間のお知らせになります。
知っていることではありますが、改めて思いを馳せるのも良いことと思います。

渡部亮次郎著

1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、マッカーサーが8月30日に
専用機バターン号で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。降り立った
彼はコーンパイプを咥え威張っていた。

以後罷免される1951(昭和26)年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令
部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは、直接東京には入らず、横浜の
「ホテルニューグランド」315号室に12泊した。日本軍の恐ろしさを知り、
テロを恐れたと言うのが一般的な解釈だ。

滞在中のある日、マッカーサーは朝食に「2つ目玉の目玉焼き」と「スク
ランブルエッグ」をリクエストしたが、朝食で注文の品が並ぶことはな
く、お昼を過ぎてようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれてきた。

不思議に思ったマッカーサーは、料理人を呼び出して問いただした。料
理人は「将軍から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく
鶏卵が1つ手に入りました」と答えた。

当時のホテルニューグランド会長の回想によれば、マッカーサーがニュ
ーグランドに着いて最初に出された食事は冷凍のスケソウダラとサバ、
酢をかけたキュウリ、牛ならぬ鯨肉のステーキであった。

マッカーサーはステーキを一口だけ食べると無言になり、後は手をつけ
なかった。その3日後、横浜港に停泊していた軍艦から山のように食料
が荷揚げされた。

9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(しげみつまもる
日本政府)、梅津美治郎(大本営)が連合軍代表を相手に降伏文書の調
印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。

1945年9月27日には報道機関に掲載のため昭和天皇と会見写真を撮影した。
この写真ではリラックスしている大男のマッカーサーと、緊張して直立
不動の小柄な昭和天皇が写され、当時の我々はショックを受けた。マの
計算に入っていた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事
になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」
(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲な
どを通じて報道を支配下に置いた。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だっ
たため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という
言葉等が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮
肉を込めて呼ばれていた。

占領期間中、マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬す
る事を望んでいたが、すべての工作は失敗した。

6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得した
トーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。大統領に選ばれたの
は現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

1950(昭和25)年6月25日にヨシフ・スターリンの許しを受けた金日成率い
る北朝鮮軍が大韓民国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

半島育ちの作曲家古賀政男は丘 灯至夫に詞を書かせ「涙のチャング」
を作曲。動乱で民族が「思想」で殺しあう悲劇を訴えた。歌唱したのは
平壌出身の歌手小畑実だったが、朝鮮人小畑に気付いた日本人は限られて
いた。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)や麾下の諜報機関(Z
機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わら
ず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しよう
とはしていなかった。

だから北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから
1人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けて
いた。

マッカーサーは状況を打開すべく仁川上陸作戦を提唱した。マッカーサー
は作戦を強行した。この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、
国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これは彼の名声と人気
を大きく高めた。

1951年になると、核攻撃の必要性を主張してトルーマン大統領と対立。4
月11日、マッカーサーは大統領から更迭を発令された。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで
羽田空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛けた。

毎日新聞と共に朝日新聞がマッカーサーに感謝する文章を掲載した。今
では想像もできない。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午
前7時23分に羽田空港から離日した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するがすでに高齢で支
持を得られず断念した。

1964(昭和39)年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシント
ンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。「偉人」として国
葬が執り行われ、日本代表として吉田茂(マッカーサー時代の首相)が
出席した。

軍備放棄の憲法を押し付けながら自衛隊の創設を押し付けたマッカーサー。
現代日本の矛盾せる政治の深淵はマッカーサーの矛盾にこそあることを
知るべき。その意味でマッカーサー指令は永遠の桎梏である。2008・08・27

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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