老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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部落解放同盟福岡県連と県教委との交渉をみる(情報公開資料による)。その2
7 優柔不断の行政を追求する解同独特の考え方

出席している幹部は、「部落解放同盟が、同和対策の奨学金制度を一般対策に広げた。福岡県は部落の子が何人で、部落外の子供は何人か明らかにせよ」と県教委へ迫っている。
当然そんな内訳は掌握していないので、「データを取っていない」と返答するとそれに対する解同幹部はすばらしい再質問をする。

珠玉の再質問をご紹介すると
「そげんなことやけんね、何というか自尊感情とかなんとか言ったってうまくいくわけないでしょう。」墨塗りのあと「そういうものを把握もせんでね、自尊感情とかプラスイメージとかできるわけないじゃないですか。」
いつまでも部落の子供を個別に把握して、成績を管理せよということだそうである。

また別の箇所では、学力調査で個別に部落の子供の学力を調査しないで、この学校は低学力にあるとは、そんな問題ではないと言う。事実を把握しないで部落差別がなくせるのか。行政の責任と思っているのか、と追求している。
行政が「行政に責任」と発言すれば、「何で行政の責任と思うとうとか、根拠を聞かせてんしゃい。「差別の現実がある。そのことが行政の責任なんだっていうことの根拠を、あなた分かってるの。(無学な小生にとっては、理解しがたい難しい問題である)この後52行全て墨塗り。

区別をするなと日ごろ言いながら一方では把握せよと、ご都合主義の典型である。
解同の主張なんてこのようなものであるという典型。行政は部落解放同盟のご都合主義的質問をたしなめる勇気がほしいものです。
たしなめると言う行為をすると、問題が大きくなるから避けたのでしょう。
「泣くこと地頭には勝てない」雰囲気は行政が積極的に作り出している。

8 差別講演については、

  追求している解同と回答している県の発言は全文墨塗りとなっているので、一般的には、差別講演があったのかでっち上げなのかは、検証の方法はないのでコメントできない。差別かどうかの判定者は、部落解放同盟だけである。人権擁護法案が実現すれば如何に危険であるのかが、実現を目指している部落解放同盟が示してくれている。
問題の本質は、行政の判断でこれほど大々的な墨塗りが出来たのかどうか、疑問である。何が差別発言かは、無学な小生にとって理解できない。
差別かどうかは、知的水準の非常に高いレフリー部落解放同盟だけが判定するのだそうである。さすが暗黒福岡である。
 
9 解放同盟の要求は実現するのが当然のことと県教委。

 教員の配置が制度上の問題があり困難と県教委が回答すると、解同はいう。
「何年経つね、検討しとらんていうのと同じこったい。困難ちゅうなら検討してないのと同じことですよ。教職員が教職員の身分のまま行かれんならば、教職員の身分じゃなくて、教職員の免許をもった人が地域にでも出向の出来るような制度を考えてくださいって」

要求実現させるためには、制度を変えてでも実現をせまる。解放同盟が要求すれば実現しないことはありえない。男性が出産すること意外は。

教育企画部長はついに約束する。
「隣保館・集会所等への職員の派遣の問題については、学校の教員を配置することは難しい問題がございます。別の形で支援策をといったことを、人権・同和対策局との協議が今後も必要かと思いますけれど、今度検討していきたい」これが各地で各種派遣という形態で実施されてきている元凶でもある。

教職員課長は、「これまで教職員が学校以外のところへ勤務時間中に、そういう形で従事するということは、さまざまなところから意見もございます」という。これは、地元で義憤に感じた青年が追求してきたことを前提にした回答で、今まで実施してきたことを逆説的に証明したものでもあり、今後も飽くなき追及は必要であることを証したものである。
屈服した県教委は「教職員以外で何が出来るのか、内部で検討しているところ」と白旗をあげる。

部落の生活実態調査は、同和事業展開を要求する証拠づくりであることも、幹部の発言で明確になっている。
調査は必要ありません。結果は県教委と部落解放同盟の都合のよいよう作成されるのです。

主な問題点を列記してきましたが、文章の大半が墨塗りのため、センテンス単位でも理解することが出来ず、課題ごとにしても不明確な部分が多すぎます。
個人情報という理由らしいのですが、そうではなく墨塗りは、公開できない交渉内容ものがその大半と思わざるを得ません。

大変な代物です。完全に個人情報以外をすべて公開するよう要求していく必要があります。行政を手中に収めたものが、好き勝手に、自在に行政を市民の目にさらすことのないように作り上げていくことをが出来ることを示している。
福岡県はこの意味では典型的な日本で唯一の未開県といえよう。

ドイツ在住のノンフィクション作家クライン孝子さんは、毎日日本向けのメッセージで書きました。


チベット問題、世界中が注目!
EU議会議長ポッテリング(ドイツ人)も
仏外相同様、このままチベット人への武力弾圧による鎮圧を
中国政府が強行するのであれば、EUも北京オリンピックの
ボイコットに踏み切るとのコメントを発表している。

ドイツ外相シュタインマイヤーにおいては
中国政府は即刻ダライラマとの
対話に応じるべきと勧告している。

ところが若い世代のチベット人たちは、ダライラマの
非暴力主義は59年にわたる。
にも拘らず、悪化するばかりで。
これ以上待てない。我々は武器をとっても戦っていくべきだ
との主張が大勢を占め始めているという。
マハトマ・ガンジーの非暴力主義でインドは
500年にわたる英国植民地支配から脱却したのですが・・・・

「胡主席と会う用意」ダライ・ラマ14世が表明
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080320-OYT1T00634.htm

なお参照:
ドイツ、対中援助交渉の中止を警告 チベット問題
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/131713/

ペロシ米下院議長がダライ・ラマ14世と会談、支持を表明
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080321-OYT1T00735.htm

「状況はチベット同様に深刻」亡命ウイグル人組織が会見
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080322-OYT1T00077.htm

国際社会の目厳しく チベット騒乱 海外主要メディアの社説・論評
http://sankei.jp.msn.com/world/china/080321/chn0803212235015-n1.htm

【石原都知事会見詳報】(2)チベット騒乱「どう考えても気の毒だ」
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080321/lcl0803212122003-n1.htm

「東アジア黙示録」より(必読!)
胡錦濤チベット血の履歴書…89年ラサ大虐殺指令
http://dogma.at.webry.info/200803/article_7.html

伊勢先生の
国際派日本人養成講座 より転載いたしました。

 
国家国民を襲う危機を事前に避けること こそ、インテリジェンス活動の狙い。 ■転送歓迎■



■1.兆候があった在ペルー日本大使公邸占拠事件■

 1996(平成8)年12月17日、ペルーの首都リマにある日本
大使公邸にて、天皇誕生日祝賀レセプションが開かれた。ホス
ト役の青木盛久大使をはじめとする大使館員、ゲストとしてペ
ルー政府要人、各国の駐ペルー大使、日本企業のペルー駐在員
ら約600人が集まった。

 そこに突如、隣の家の塀を爆破し、14名のゲリラが乗り込
んできた。彼らは大使館を占拠し、約600人の人々を人質に
した。トゥパク・アマル革命運動という左翼武装組織のメンバ
ーであった。ゲリラたちは「フジモリ政権の経済政策の全面転
換」「身代金の支払い」などを要求した。フジモリ大統領はこ
れを拒否し、ゲリラたちは女性や老人、子供たちを解放した後、
残りを人質として、膠着状態に陥った。

 事件が発生した直後、在米日本大使館の武官としてワシント
ンDCに駐在していた太田文雄氏(前・防衛庁情報本部長)は、
国防情報庁(DIA、Deffense Intelligence Agency)に行っ
てラテン・アメリカのテロ専門家と情報交換をした。その専門
家は、事件が勃発する1ヵ月前から、トゥパク・アマルが何ら
かの公共機関を襲撃するであろうという兆候を2件掴んでいた、
という。

 それを聞いた時、太田武官は、もしペルーに日本の武官がい
て、米国の在ペルー武官を通じてDIAからの情報を入手して
いたならば、あの事件は未然に防止できたかもしれない、と思っ
たそうである。[1,p118]

■2.「この程度の情報はすぐ入手できますよ」■

 事件が解決したのは5カ月も後だった。4月22日、ペルー
海軍や警察による特殊部隊が公邸に突入し、死亡者1人、複数
の重軽傷者は出したが、人質71人の救出に成功した。

 その数日前、太田武官は各国海軍武官団の旅行で、メーン州
に出張していた所、同行のペルー海軍少将が「アドミラル太田、
今週動くぞ」と耳元で囁いた。

 太田武官はこの情報を日本に伝えようとしたが、暗号化して
発信するためには最も近い所でもボストンの日本領事館まで行
かなければならないのと、この情報をダブル・チェックする術
がなかったことから、知らせなかった。伝えたとしても、日本
政府は混乱するだけで、何の役にも立たなかったろう。

 数日後、バスの中で、このペルーの海軍少将が「数時間前に
救出作戦が始まり、既に制圧した」と教えてくれた。

 事件後も、太田武官はDIAからのテロ情報を頻繁に発信して
いたので、日本のペルー大使がワシントンのDIAに情報収集
に来たことがあった。その時、太田武官は大使に「この程度の
情報は在ペルー米国大使館の武官が持っていますから、日本か
らの武官が配置されれば、簡単に入手できますよ」と言った。

 ペルーには今でも武官が配置されておらず、この事件の教訓
は生かされていない。防衛省が武官をある国の日本大使館に配
するには、外務省はその見返りとして防衛省内で同レベルのポ
ストを要求するためという。そんな縄張り意識が、在留邦人の
安全確保よりも優先されているのである。

■3.ゲリラの動きを察知していれば■

 この事件を通して、インテリジェンス活動の効用を理解する
ことができる。

 ゲリラ側の立場に立って推察してみると、彼らの主要な敵は
アメリカであり、本当ならアメリカ大使館を襲った方が、国内
外へのアピールから見ても、はるかに効果的なはずだ。

 しかし、そのアメリカ大使館はDIAからの情報を得て、普
段よりもなお一層厳しい警戒態勢を敷いていたと考えられる。
そうと知れば、アメリカは自分たちの動きを掴んでいるのかも
知れない、とゲリラ側は察し、これでは「飛んで火にいる夏の
虫」になりかねない、と考えたであろう。

 ゲリラ側は次善の策として、その他の西側の大使館を検討し
たかも知れない。英仏独などの大使館も当然、武官を通じて、
アメリカからの情報を得ていたとすれば、警備も厳重になって
いるわけで、あきらめざるを得ない。

 そんな所に、日頃から警備も薄いのに、さらにパーティー準
備に大わらわになっている日本大使館を見れば、ゲリラ側は、
こここそ格好の標的だ、と考えたであろう。インテリジェンス
活動ができてないばかりに、日本大使館はとんだとばっちりを
受けたのではないか。

■4.独ソ戦を左右したゾルゲ事件■

 国際的に有名なインテリジェンス活動の一つが日本を舞台に
したゾルゲ事件である。

 1941(昭和16)年6月、欧州では第二次大戦が始まっており、
ドイツ軍がソ連に侵攻していた。スターリンの関心事は、ドイ
ツの同盟国である日本が、これに呼応して極東からソ連を攻撃
するのかどうか、という点にあった。現に松岡洋右外相などは、
この際、ソ連を背後から叩くべきだと主張していた。

 この時、在日ドイツ大使の私設情報官として働いていたリヒャ
ルト・ゾルゲは、実はドイツ共産党を通じて、モスクワの国際
共産主義団体コミンテルンに所属していた。ゾルゲは朝日新聞
記者・尾崎秀美に接近する。尾崎自身も上海駐在の頃から、国
際共産主義に共鳴していた。[a]

 尾崎は近衛内閣の嘱託として入り込み、「日本は石油を取り
に南進する」という確度の高い情報を掴んで、ゾルゲに伝えた。
ゾルゲはこの情報をモスクワに送り、それを受けたスターリン
は、満洲やシベリアの軍団のうち数個師団を欧州戦線に振り向
けた。

 冬期戦に長けたこれらの援軍によって、ソ連軍は電撃的侵攻
を続けていたドイツ軍を食い止めることに成功し、12月初旬
からは冬期大反攻を開始した。

 もし日本がゾルゲのインテリジェンス活動を封じていたら、
ソ連は欧州戦線への兵力投入ができず、独ソ戦は全く別の様相
を呈していただろう。

 さらに想像を逞しくすれば、そもそも1941(昭和16)年12
月初旬と言えば、運命の真珠湾攻撃が開始された時期である。
この時点で、ドイツ軍の旗色が悪くなりつつあるという情報を
日本が掴んでいたら、アメリカの挑発をも堪え忍んで、日米戦
の勃発は防げたかも知れない。そうなれば、第一次大戦と同様、
第二次大戦でも我が国は高見の見物をしていられた可能性もあ
る。

■5.日露戦争を勝利に導いたインテリジェンス■

 日本がインテリジェンスで失敗した例を紹介したが、もちろ
ん、見事な成功事例もある。

 福島安正・陸軍少佐は、日露戦争の11年前に、たった一人
でドイツからウラジオストックまでの1万4千キロを1年4ヶ
月かけて騎馬で横断した。世界中がこの大冒険に湧いたが、そ
の裏にはロシアの東方進出の実態を探るという目的があった。

 福島少佐は、現地の見聞情報をもとに、ロシアはかならず蒙
古、満洲へと東進してくると判断した。そして弛緩した清国政
府にはそれを抑える力も意志もないことを見てとった。こうし
た情報をもとに、海軍増強など対ロシア戦略が構築された。[b]

 また福島少佐は、ロシアが支配するポーランド、バルト3国
などで独立運動が起きていることを掴んだ。この情報から、日
露戦争中、明石元二郎大佐は、これらの地域での独立運動を支
援して、ロシアを後方から脅かした。これがロシア皇帝に早期
講和を促す大きな要因となった。[c]

 国力でも武力でも大きく劣る日本が、ロシアに勝てたのも、
インテリジェンスの面で相手を凌駕していた点が大きい。

■6.「孫子を忘れたが故に戦略的思考に乏しくなった」■

 明治時代の日本は見事なインテリジェンス力を発揮して、大
国ロシアの侵略を打ち破ったのに対し、その後、インテリジェ
ンスの力を失い、ついには敗戦という事態に至ったのはなぜな
のか。太田文雄氏は、こう述べている。

 また、幕末の吉田松陰が「孫子」を弟子たちに講義した
ことは有名ですが、その弟子達である伊藤博文や山縣有朋
が軍政面での指導者として戦った日清・日露の戦いでは、
極めて見事な戦争指導が行われたのに、日露戦争後、洋行
帰りの人達が国の指導者となってから、思わしくない結果
が出ているということも、「孫子を忘れたが故に戦略的思
考に乏しくなった」という事実とあながち関係がないとも
言えないような気がします。[1,p110]

「孫子」は、今も戦略論の古典として世界中で読まれている。
アフガニスタン作戦とイラク戦争を指揮した米中央軍司令官フ
ランクス陸軍大将は若い頃から「孫子」を熟読していた。また
軍事戦略家のHarlan K. UllmanとJames P. Wadeの著書"Shock
and Awe"(衝撃と畏怖)は、イラク戦争での作戦名にも採用さ
れているが、その中では「孫子」の引用が数十回もなされてい
る。

 この「孫子の兵法」こそ、「敵を知り己れを知らば、百戦し
て危うからず」との名言で知られるように、インテリジェンス
を重視した戦略論なのである。

■7.戦わずして人の兵を屈する■

「百戦して危うからず」などと聞くと、軍国主義の権化のよう
で、毛嫌いしてしまう人もいるだろう。しかし、「孫子」をよ
く読めば、それが誤った先入観であることが分かる。

 百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の
兵を屈するは、善の善なる者なり。

(百回戦争して百回とも勝利を収めるのというのが、最善
ではない。戦わずして相手の力を挫くことこそ、最善の方
策である。)

 戦争とはたとえ勝ったにしても、多くの人命を失い、国富を
消尽させる。国家にとっては国民と国益を護ることが目的なの
だから、戦わずしてその目的を達成することこそ、最上の道な
のである。

 冒頭に紹介した在ペルー日本大使公邸占拠事件の例でも、ア
メリカは事前にゲリラ活動を察知しており、ゲリラ側に攻撃の
隙を与えなかった。

 また、尾崎秀美のような国際共産主義の手先が日本を中国大
陸での戦乱に巻き込もうという策謀を巡らしているのをよく知っ
ていれば、それに乗せられて日華事変のような消耗戦を戦うこ
とは避けられたであろう。

 さらに1945年12月初旬の時点で、独ソ戦でドイツの旗色が
悪くなっていることを知っていれば、アメリカの執拗な挑発を
避けて、第2次大戦に巻き込まれずに済んだ可能性もあったこ
とはすでに述べたとおりである。

 このように的確な情報を得ていれば、余計な戦いを避けて、
国民の安全と利益を護ることができる。そこにインテリジェン
ス活動の効用がある。

■8.オウムと北朝鮮■

 日本は平和な国であり、我が国さえ侵略をしかけなければ、
戦争は二度と起こらない、などという幻想は過去のものとなり
つつある。

 この幻想を打破したのは、オウム真理教による地下鉄サリン
事件、および、北朝鮮による拉致であろう。

 1995(平成7)年に起こった地下鉄サリン事件では、オウム
真理教徒が地下鉄丸の内線、日比谷線、千代田線の5編成で化
学兵器として使われる神経ガス・サリンを散布し、乗客や駅員
ら12人が死亡、5,510人が重軽傷を負った。大都市で一般市
民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として世界
に衝撃を与えた。

 オウムは上九一色村にサリン製造プラントを建設し、ロシア
から大型軍用ヘリコプター「ミル17」の中古機を購入・配備
していた。まかり間違えば、サリンが大都市に空中散布されて、
はるかに大規模な被害が出ていた恐れがあった。

 北朝鮮による拉致事件も、めぐみさんが連れ去られたのが、
昭和52(1977)年。17年後の平成6(2004)年に韓国に亡命し
た北朝鮮工作員の証言によって、ようやく拉致問題が公にされ
た。日本政府が拉致被害者として認定したのは17名だが、一
説には100名以上とも言われている。

 オウムにしろ、北朝鮮にしろ、なぜもっと早くその動きを掴
んで、大きな被害が出る前に手が打てなかったのか。これが日
本のインテリジェンスの問題であろう。

■9.「敵の情を知らざるは、不仁の至りなり」■

 日本のインテリジェンス機関としては、防衛省情報本部(2
千人規模)、内閣情報調査室(数百人)、外務省国際情報統括
官室(百人以下)が主だった所であり、合計しても3千人以下
の規模と推定される。

 それに対して、アメリカは中央情報庁(CIA、数万人)、
国家安全保障庁(NSA、CIAの約2倍)、国防情報庁(D
IA、約1万人)、国家地理・空間情報庁(NGA、約1万人)
と、おそらく合計では10万人規模のインテリジェンス人員を
擁している。

 イギリス、フランス、ドイツなどは、アメリカの十分の一の
陣容と推定されるが、それでも日本の数倍の規模となる。

 孫子は「爵禄百金を愛(おし)んで敵の情を知らざるは、不
仁の至りなり」と言った。インテリジェンス活動のためのポス
トや費用を惜しんで、敵情を知らないのは「不仁の至り」と言
うのである。

 地下鉄サリン事件での死者12人、重軽傷5,510人、北朝鮮
の拉致被害者が政府公表だけでも17名という被害者の上を思
えば、インテリジェンス活動の軽視が、まさに国民に対する
「不仁の至り」であることが実感できよう。

1959年から始まった中国のチベット侵略。それ以後の侵略の弾圧のなかチベット国民の抵抗が、余すとこなく書かれています。

チベットを論じるためにも、必読となるでありましょう。



チベット事件の本質:暴動ではなく、暴政への抵抗

文・王華

http://jp.epochtimes.com/jp/2008/03/html/d44306.html
--------------------------------------------------------------------------------
 【大紀元日本3月21日】中国チベット自治区の首府ラサで3月14日以来発生したチベット人抗議事件は周辺の四川省や青海省、甘粛省などのチベット族自治州にも広がった。中共当局によって厳しく報道管制した中国メディアは一方的に事件を「暴動、騒乱、動乱」と称して、政府側は「チベット独立を唱える内外の分裂主義者による陰謀」としてチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世を批判した。一部の海外メディアは真相を究明せずに、中共当局の報道をそのまま引用し、中共当局の虐殺を「騒乱」「暴動」への鎮圧と報道した。

 しかし、事件の本質は中国民衆が中国共産党(中共)の暴政に対する抵抗であり、中共当局が言う「暴動」「騒乱」ではない。

 中共は1950〜51年、朝鮮戦争の中、「チベット解放」という大義名分でチベットの侵攻と占領を行った。その後、チベット自治区として今日にいたっている。

 チベット人は一貫して中共の占領に抵抗してきた。ピークが59年の「チベット動乱」。中国共産党は徹底的な弾圧を加えた。富裕層や地主ら銃殺あるいは生き埋めにし、僧侶を撲殺、焼殺するなどして、動乱を鎮圧したという。多くのチベット人がインドに逃れ、ダライ・ラマ14世もヒマラヤを越えての亡命の旅が始まった。

 歴史を振り返って見ると、中共当局が言う「動乱」「暴徒」の意味を解読できる。六四天安門事件の被害者、民主を求める学生さん、官僚の権力濫用によって耕地を奪われた農民、住宅を奪われた市民、及び各種政府政策の被害者となる陳情者達、これらの人々は基本的人権を守るために、努力している。彼らの中国当局への抗争は自由、民主、人権を求めるものであり、尊敬されるべきだが、実際は中国当局に「暴徒」とされ、行った活動が「暴動」「反乱」「騒動」「動乱」とされている。

  中共当局の報道は殆どこのように嘘を書いている。嘘の報道をそのまま転載されて、真相は消えてしまう。中国の非人道的な現実と真相を伝えることは国際社会と国際メディアの役割だ。真実を伝えるため、中国共産党の嘘を引用しないことが第一歩だ。

 1959年チベット人の抗争

 1950年10月、中国共産党が解放軍4万人を派遣し、8千人のチベット人自衛軍を破って、チベットを占領し、その後、チベット問題をめぐって17条の合意を結び、チベットの自治を確定した。しかし7年後、中国共産党は全国範囲の社会主義化改造を始め、チベット自治は瓦解し始めた。

 社会主義化改造されたチベット、人々が貧しくて、個人財産など殆どない。しかも、食糧もないため、飢え死した人は続出、一家全員餓死したケースは稀ではない。

 1958年、生活が苦しいチベット人は各地で反抗を起こした。1959年、当時共産党のトップ毛沢東氏の指示によって、銃殺が始まった。多くのチベット人は共産党軍隊に殺害され、当時の自治政府官員(民選官員)も逮捕された、チベットの自治はここで終焉を迎えた。同年3月10日、ダライ・ラマは10万のチベット人を率いて、インドへ亡命、インドで亡命政府を設立した。

 これは北京の言う1959年の「チベット武装反乱」、実際には中国共産党によってチベットへの武装侵略である。

 経済面:資源略奪

 「中国共産党の統治は、裕福なチベット人の生活を貧乏の窮地に追い詰めた」と今のチベット人の生活を一語でまとめられる。過去十年、中国当局は物産と資源を略奪のため、チベットへの資本投入を増大しつつある。しかし、チベット人の生活は少しも改善されなかった。利益はごく少数の人のところに集中している。

 統計によると、1955年〜1985年の間に、チベットから内陸へ輸送した材木は地球を13周めぐることができる。鉱物資源に対する過剰採掘はチベットの生態バランスの破壊を招いた。チベット地区にある湖の半数はすでに消えた。草原の砂漠化は広い範囲で深刻化している。

 文化面:信仰破壊

 信仰の破壊はチベット人への致命傷となった。チベット仏教はチベット人の精神の支えである。僧侶は現地政治、経済、文化に強く影響力がある。無神論を主張する中国共産党は、これらのすべてを破壊対象にした。調べによると、チベット地区に寺は当時4573基、僧侶は合わせて28万人だったが、共産党に占領された現在、寺は僅か553基しか残っておらず、僧侶は6900人である。

 信仰以外にチベット文化も破壊を免れなかった。チベット亡命政府1980年の推定によると、チベット地区に現在チベット人が633万人いるのに対して漢民族人は750万人いる。つまり、チベット地区のチベット人の数は非チベット人の数より下回った。

 人口だけではなく、文化の漢民族化も進んでいる。高校以降の教育は標準語のみで行われている。現在多くのチベット人は既にチベットの民族言語を使えなくなった。

 チベット人にとってチベット仏教の最高指導者「活仏」(ラマ教で、仏・菩薩・聖僧などの転生者と考えられている高僧。ダライ-ラマなど、慣例として、先任の活仏が死ぬ前に転生者の住む場所、特徴と述べ、死後、寺の高僧は言われた場所に行き、転生者を探す。口述した特徴と一致する子供が見つかったら、新任活仏として迎える)の転生と指定も干渉された。つまり、中国共産党治下の「活仏」は共産党の指定でないと認められない。現にダライ・ラマが指定した転生者は中国当局により十年以上軟禁された。

 動乱の裏

 国際人権組織の証言によると、抗議や抗争活動があったときに、中共当局はいつも軍人を民衆に装わせ、放火や暴力などを繰り返し、鎮圧の口実を作る。その後、戦車と機関銃は容赦なく無実の民衆に向けられた。抗議や抗争の結果、多くの民衆と僧侶の命が奪われた。

 中国共産党は、チベット人の経済、文化、政治、宗教、信仰など各方面の権力を剥奪し続けている。3月10日に中国共産党がチベット占領した49周年の際、チベット自治区の首都ラサ及び周辺の四川省や青海省、甘粛省などのチベット族自治州で、抗議活動が相次いだ。中共当局は断固として鎮圧に踏み込んだ。オリンピック直前に世界に注目された重大な人権迫害となった。

 
(翻訳/編集・侍傑)




(08/03/21 05:57)

本人は、義により行動する素晴らしき民族であります。
これまで、各国での集会・行動は写真やTVで見てのとおりチベット民族が中心でした。

日本では、チベット人がその中心にいますが、どの集会を見ても、日本人が計画し、参加者の多くは日本人でした。
ここに日本人の義により行動する特質が見られます。


3/22チベット弾圧抗議デモ第2弾 1500人が東京六本木を行進!!

宮本将英
打倒中国共産党
http://dadao.kt.fc2.com/

下記のページで24枚の写真をご覧いただけます。
http://dadao.kt.fc2.com/tibet40.htm

3月22日、この日はもうひとつのチベット武力弾圧に対する抗議デモ行進がチベット・
サポート・ネットワーク・ジャパンの主催により行われた。

午後1時15分ごろ、集合場所の三河台公園に到着すると、すでに何と1000人近い群集
で溢れかえっており、1時半開始予定だった集会はすでに始まっていて、牧野聖修前衆議
院議員が力強く演説を行っていた。

午後2時、三河台公園を出発してデモ行進が始まった。大手のテレビ局が多数取材に来
ている。私が今まで参加したデモ行進でこれほど多くの報道陣が駆けつけていたのは初
めてだ。

参加者はチベット国旗のほか、バラエティに富んだ様々なプラカードを手にしながら
「フリー・チベット!」「チベットに自由を!」「チベットに平和を!」「言論の自由を
!」「教育の自由を!」「中国はチベットから出て行け!」などのシュプレヒコールを叫
んだ。

私はデモ行進を取材するときは大まかな人数を数えるようにしているのだが、この日は
あまりにも人数が多く、最後尾まで確認していたら最前列に追いつかなくなりそうなの
で諦めた。

45分ほどの行進の後、ゴール地点である笄(こうがい)公園に到着した。その後もしば
らくはシュプレヒコールが続いた。そして集会が始まり、牧野聖修氏が演説を始めた。
とはいってもまだまだデモ行進の参加者が続々と笄公園に入って来る。最終的に全員集
まったところで、私は遊具の上から写真を撮ろうと思ったのだが、あまりに参加者が多く、
残念ながらどうしても全員を写せない。集会では演説のほか、引き続き参加者全員で
シュプレヒコールを叫んだ。本当に本当にものすごい熱気だった。

NHKの夜のニュースによると、この日の参加者は何と1500人にも上ったという。日本
でチベット関係のデモ行進でこれほど人数が集まったのはもちろん初めてだが、中国政
府への抗議デモでこれほどの人数が集まったのもおそらく初めてではないだろうか。チ
ベット国内のチベット人による勇気ある行動が、日本の世論をついに動かしたのだ。こ
の勢いは必ず継続させなければならないと思う。チベット騒乱は一段落したようにも思
えるが、それは中共が弾圧や迫害を強化したからであって、問題が終息したわけではない。
依然としてチベットや東トルキスタンの人々は中国共産党の暴虐独裁恐怖政治の中で暮
らしている。日本で高まったこの勢いを今後はオリンピックボイコット運動などの形で
継続していかなければならないと思う。