老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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総統選挙結果について、「台湾の声」が分析しています。

小生は熟読していません。これから皆様と共に熟読しながら、今後の日台のあり方も検討したいと思っています。
ご紹介します・

【分析】台湾総統選挙結果

               「台湾の声」編集部

 2000年5月、陳水扁総統は就任式で「中共に武力行使の意図がない限り、任期
中は(1)『台湾独立』を宣言しない(2)(中華民国という)『国名』は変え
ない(3)『二国論』を憲法に盛り込まない(4)『統一か独立か』を問う住民
投票は行わない(5)(統一の道筋を定めた)国家統一綱領を廃止しない――と
いう「5つのノー」公約した。米国からの圧力もあったと聞くが、総統就任時に
早くも「台湾共和国」建国の目標を放棄して、自らを縛ってしまった。2004年の
再任時は、「新憲法制定」を公約にして当選したので、 この「5つのノー」は踏
襲されないだろうと支持者は期待したが、陳総統はまたもこの「5つのノー」で
自らを縛った。結果的に、「中華民国」体制から脱却できるという支持者の期待
を裏切ることになってしまった。

 陳総統は「台湾独立」の定義をはっきりさせなかった。あのとき「独立宣言し
ない」とか「国名を変更しない」と約束するのではなく、もっと早く謝長廷氏の
ように「台湾の独立した現状を守る」と強調したり、中国が定義する台湾独立問
題が存在しないことや、台湾の国名変更問題は台湾の内政問題という立場を明確
にするなどして、米国や日本などの理解を促すべきだった。

 また、民進党は経済的に中国への積極開放を進めた結果、台湾の伝統産業の空
洞化が起こった。経済が悪くなったという批判に、「でも経済成長率はよい」と
主張しても逆に反感を持たれる。失業率増加の原因や賃金が上がらない原因をは
っきりさせ、台湾国民に粘り強く説明すべきだった。中国への過剰な進出が経済
悪化の原因となっていることが説明不足だったため、台湾国民は中国と経済交流
を強化したほうが経済が活性化するという国民党の主張に期待を持ってしまった


 謝長廷氏は現在の中華民国憲法は「憲法一中」(憲法上は「一つの中国」)で
アモイ(厦門)も憲法上は中華民国大陸地区だという主旨の発言をして批判され
たことがある。これを謝氏は「改革の対象」と主張したが、では実際に憲法をど
う改正するのか道筋が示せなかった。というのも、2005年の憲法改正で、憲法改
正手続きおよび国民投票のハードルが高くなり、憲法改正および新憲法制定がほ
ぼ不可能になってしまったからだ。また、陳総統は2004年に「新憲法制定」を公
約にし、2008年から実施することを目標としていたのに、はっきり国名を「台湾
」にすると打ち出すことができず、ごまかしながらの中途半端な憲法改正にトー
ンダウンしたため、とうとう新憲法の見本を示せなかった。これが、支持者や中
間層に「台湾新憲法」は実現不可能だと思わせてしまい、理念より利権の国民党
へ流れていった。

 謝氏が訴えた「和解と共生」の理念は素晴らしいが、謝氏自身が「虎に出合い
、羊が寛容や共存を持ち出しても意味がない」と語ったように、羊(民進党)は
「共生」を呼びかけたが、立法院(国会)で絶対多数を得た虎(国民党)の支持
者を民進党に引き寄せるには至らなかった。もちろん、勝負に勝ったあと、虎に
なった謝氏が「和解と共生」を実行してこそ意味があったので、残念だった。

 このほか、陳水扁総統およびその家族に対する不満が民進党への不満となって
いたのが謝長廷氏にとって不利に働いた。利権で支持を集める国民党支持者は国
民党の汚職に寛容だが、理念で支持を集める民進党の腐敗には「疑惑」が浮上す
るだけでも台湾の有権者厳しかった。国民党の格好の攻撃材料にされ、台湾人意
識に訴える政策さえも、陳総統周辺のスキャンダルをそらすためのものと思われ
てしまった。

 民進党は自由な民主政党なので、党内批判も自由にできる。しかし、総統選挙
や立法委員選挙の党公認候補者選びの過程において、内紛が絶えず、親民党との
選挙協力に成功した国民党と対照的に、立法委員選挙で民進党は台湾団結連盟(
台連)との候補者選びで激しく対立してしまい、団結や感動が冷めてしまった。

 民進党と台連が決定的に対立した原因は、2005年の憲法改正による小選挙区制
の導入である。台連は少数派の民意を尊重するためにドイツ式(得票率で総獲得
議席が決まる)を主張したが、民進党と国民党の2大政党が手を結んで、小政党
が生き残れない日本式に近い小選挙区制を導入してしまった。また、比例代表で
は、5%のハードルが設けられ、台連以外にもミニ政党が乱立したため、第3勢
力の票が分散し、台連も5%を超えられず、議席をすべて失った。

 民進党は当時第1党であれば小選挙区でも勝てると考えていたのだろうが、国
民党と親民党を足して過半数だった国会の状況を考えれば、これは民進党には不
利な制度だった。各選挙区は県長選挙と市郷郷長選挙のちょうど真ん中の規模だ
が、これは地元利権派の政治家が影響力を発揮するちょうどよい大きさだった。
国民党は地元利権派の候補調整にうまく行ったので、小選挙区での戦いを有利に
進めた。

 小選挙区で大勝した国民党は、組織をフル活用できた。一方、民進党は落選し
た台連の一部の議員が選挙の怨念からか国民党支持に回ってしまい、特に台連元
議員が国民党支持を表明した高雄市と台南市では国民党の得票のほうが多かった


 民進党は、今後政権の座から下りて野党になるが、台湾にとって幸いなことは
、野党が台湾派になったことだ。これまで、民進党は与党の立場であったとき、
国会で多数を握る野党が中国的な立場から攻撃するため、「ねじれ」状態が8年
間続いた民進党は理想や目標をはっきり語れなかった。今後、国民党は中国から
の脅威に直接与党として向き合うことになり、少しは現実路線になるだろう。従
来、中国の意を受けた外国の反対などに、国民党が呼応して政府を攻撃して台湾
の足を引っ張ったりしたが、今度は台湾に根ざした台湾にとって建設的な批判や
対案が野党から示されることになる。これは長期的に見れば、国民党の台湾化を
促し、台湾派の2大政党という理想には近づくかもしれない。民進党の今後の役
割は、国民党が台湾路線から外れないよう監督し、国民党の台湾化を促すことが
重要となるだろう。

日本政策研究センターの主張です。転送して皆様にご紹介します。

http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=507

チベット暴動
人権派はなぜ声を挙げないのか
 

チベット自治区で起こった大規模暴動に対し、中国政府は国連などによる調査の要求を拒否するとともに、殺傷性のある武器による発砲はないとした。毒餃子事件に対してもそうだが、相も変わらぬ盗人猛々しさに呆れるばかりだ。ちなみに、中国側発表の死者は「13人」だが、チベット亡命議会は「数百人」に上るとする。

 共同通信によれば、電話取材に答えたラサ市のタクシー運転手は、16日、武装警察と見られる部隊が軍用トラックで市中心部の住宅一軒一軒をしらみつぶしに家宅捜索。暴動に参加したと疑われる人物を「家畜を抛り込むように」トラックの荷台に乗せ、次々とどこかへ連れ去っているという。また、こうした人物には激しい暴行が加えられ、既に数百人が拘束されたとの情報もある。

 暴動はチベット自治区以外にも拡大中との情報もあるが、とはいえ常識的にはいずれは鎮圧されていくと見るのが穏当だろう。その後には、以前にも増す報復的な弾圧と圧制がまっていると思われるのだが、そうした事態の展開を思うと、じっとしていられないような胸の痛みを覚える。

 これはチベットではなくウイグルの話だが、昨年の秋来日された人権活動家、ラビア・カーディルさんが次のように証言していたのを思い出す(水谷尚子『中国を追われたウイグル人』)。彼女が「国家安全危害罪」なる罪名の下、懲役8年の宣告を受けて監獄にいた時のことだ。

    拘置所に入ってしばらくたったある日、公安がやってきて、こ    う言いました。「我々にはおまえを殴る権利は与えられていな    いが、心の血を一滴一滴絞り出して悔やませることはできる」    (中略)
    間もなくして、連れていかれた部屋の、壁を隔てた両方の隣室    から、男の坤き声が聞こえてくるのに気が付きました。ひとは    様々な声を発する生き物だけれど、それは生まれて初めて聞     く「音」で、人間の声というより、殺される直前の牛の叫び     声、或いは巨大な怪物が地底から発している叫びのようでし     た。(中略)苦しそうな悲鳴に、拷問の残酷さが想像されて、    全身が震え、血液が凍っていくのを感じました。(中略)
     それから大分たってから、一人のウイグル人青年が、二人の    ウイグル人の公安に肩を掴まれ引きずられて、瀕死の状能で私    の目の前に連れてこられました。ウイグル人公安の上司なので    しょう、ついてきた一人の漢族が、「ラビア、おまえの民族英    雄たちの顔を見ろ!」と言い放ち、私が凍り付いていると、そ    の男はまた「右を向け」と命令しました。恐る恐る目線を向け    ると、もう一人のウイグル人青年が、同じように地面に投げ捨    てられていました。彼ら二人は、下半身ばかりが血だらけなの    です。(中略)何をされたのか分りません。酷い拷問を受けた    らしく、四肢に力は無く、首も下に垂れ、ぐったりしていまし    た。瀕死というか、二人とも既に死んでいるのではないかと思    いました。

 恐らく、今回の暴動に関わったチベット人たちに対してもこうしたむごたらしい報復が行われるのだろうが、こんな中国政府に対して、「人権」の名で抗議の一つも行えない日本の政府とは何なのかと思えてならない。藪中外務次官は手回し良く、早くも胡錦濤訪日は「予定通り」などと答えているが、毒餃子事件も含め、何もなかったかのように、馬鹿の一つ覚えのごとく「日中友好」をニコニコ顔で確認し合うというのだろうか。

 一方、自民党の中では「人権擁護法案」提出に向けた執拗な働きかけが続いている。人権救済が必要な事例がこの国には数多くあり、そのために「人権委員会」なるものが作られる必要があると、この人たちは真顔でいう。しかし、人権侵害というなら、何よりもまずこうした人権侵害に対して即刻声を挙げ、国民の意識喚起に乗り出すのが、人権派たるものの真っ当な道なのではないか。人権侵害や差別がいけないというなら、ここにこそ人間として声を挙げるべき喫緊の課題があるのではないかと思うのだ。

 「いや、われわれはあくまでも日本のことを問題にしているので」などという言い逃れはいうなかれ。「人権とは国家以前の人間の権利として存在するものだ」というのが、あなた方人権派の言い分だった筈なのだ。それを「地域限定の人権救済」だなどと余りにも悲しいではないか。今こそあなた方が頼りにする国連などに駆け込んで、中国政府に勧告なり意見書なりを出してもらう時ではないのか。

最後にもう一つ。やはりウイグルのグルジャという町でウイグル人の若者たちが平和デモを行った時のことに触れておきたい。この時のデモ参加者は15000人ほどだったというが、中国の武装警察はそれを一網打尽に押さえ込み、全員を逮捕したのみならず、結果的には60000人を逮捕したという。デモ参加者のみならず、後にその親族をも含めた関係者までにも捜査の網を広げ、それを逮捕したのである。のみならず、今なおその結果の行方不明が8000人。これが中国政府のいう「自国の主権を守る決意と能力」なるものの実態だということなのだ。

 時あたかも、台湾では総統選の争点にこの問題が急遽浮上し、馬英九候補優位の状況にもひょっとすると影響が出るか、などといった見方も広がっている。こんな暴虐な中国に彼がいう融和路線など成り立つのか、判断するのはあくまでも台湾の人々とはいえ、どうかこの中国の姿を慎重に見極めてもらいたいと思うのは筆者だけではあるまい。

 いずれにしても、今こそ心ある者――とりわけ日本の心ある政治家たちは、中国に抗議の声を挙げるべきだと思う。


人権派はなぜ声を挙げないのか
 チベット自治区で起こった大規模暴動に対し、中国政府は国連などによる調査の要求を拒否するとともに、殺傷性のある武器による発砲はないとした。毒餃子事件に対してもそうだが、相も変わらぬ盗人猛々しさに呆れるばかりだ。ちなみに、中国側発表の死者は「13人」だが、チベット亡命議会は「数百人」に上るとする。

 共同通信によれば、電話取材に答えたラサ市のタクシー運転手は、16日、武装警察と見られる部隊が軍用トラックで市中心部の住宅一軒一軒をしらみつぶしに家宅捜索。暴動に参加したと疑われる人物を「家畜を抛り込むように」トラックの荷台に乗せ、次々とどこかへ連れ去っているという。また、こうした人物には激しい暴行が加えられ、既に数百人が拘束されたとの情報もある。

 暴動はチベット自治区以外にも拡大中との情報もあるが、とはいえ常識的にはいずれは鎮圧されていくと見るのが穏当だろう。その後には、以前にも増す報復的な弾圧と圧制がまっていると思われるのだが、そうした事態の展開を思うと、じっとしていられないような胸の痛みを覚える。

 これはチベットではなくウイグルの話だが、昨年の秋来日された人権活動家、ラビア・カーディルさんが次のように証言していたのを思い出す(水谷尚子『中国を追われたウイグル人』)。彼女が「国家安全危害罪」なる罪名の下、懲役8年の宣告を受けて監獄にいた時のことだ。

 拘置所に入ってしばらくたったある日、公安がやってきて、こう言いました。「我々にはおまえを殴る権利は与えられていないが、心の血を一滴一滴絞り出して悔やませることはできる」(中略)
 間もなくして、連れていかれた部屋の、壁を隔てた両方の隣室から、男の坤き声が聞こえてくるのに気が付きました。ひとは様々な声を発する生き物だけれど、それは生まれて初めて聞く「音」で、人間の声というより、殺される直前の牛の叫び声、或いは巨大な怪物が地底から発している叫びのようでした。(中略)苦しそうな悲鳴に、拷問の残酷さが想像されて、全身が震え、血液が凍っていくのを感じました。(中略)
 それから大分たってから、一人のウイグル人青年が、二人のウイグル人の公安に肩を掴まれ引きずられて、瀕死の状能で私の目の前に連れてこられました。ウイグル人公安の上司なのでしょう、ついてきた一人の漢族が、「ラビア、おまえの民族英雄たちの顔を見ろ!」と言い放ち、私が凍り付いていると、その男はまた「右を向け」と命令しました。恐る恐る目線を向けると、もう一人のウイグル人青年が、同じように地面に投げ捨てられていました。彼ら二人は、下半身ばかりが血だらけなのです。(中略)何をされたのか分りません。酷い拷問を受けたらしく、四肢に力は無く、首も下に垂れ、ぐったりしていました。瀕死というか、二人とも既に死んでいるのではないかと思いました。

 恐らく、今回の暴動に関わったチベット人たちに対してもこうしたむごたらしい報復が行われるのだろうが、こんな中国政府に対して、「人権」の名で抗議の一つも行えない日本の政府とは何なのかと思えてならない。藪中外務次官は手回し良く、早くも胡錦濤訪日は「予定通り」などと答えているが、毒餃子事件も含め、何もなかったかのように、馬鹿の一つ覚えのごとく「日中友好」をニコニコ顔で確認し合うというのだろうか。

 一方、自民党の中では「人権擁護法案」提出に向けた執拗な働きかけが続いている。人権救済が必要な事例がこの国には数多くあり、そのために「人権委員会」なるものが作られる必要があると、この人たちは真顔でいう。しかし、人権侵害というなら、何よりもまずこうした人権侵害に対して即刻声を挙げ、国民の意識喚起に乗り出すのが、人権派たるものの真っ当な道なのではないか。人権侵害や差別がいけないというなら、ここにこそ人間として声を挙げるべき喫緊の課題があるのではないかと思うのだ。

 「いや、われわれはあくまでも日本のことを問題にしているので」などという言い逃れはいうなかれ。「人権とは国家以前の人間の権利として存在するものだ」というのが、あなた方人権派の言い分だった筈なのだ。それを「地域限定の人権救済」だなどと余りにも悲しいではないか。今こそあなた方が頼りにする国連などに駆け込んで、中国政府に勧告なり意見書なりを出してもらう時ではないのか。

最後にもう一つ。やはりウイグルのグルジャという町でウイグル人の若者たちが平和デモを行った時のことに触れておきたい。この時のデモ参加者は15000人ほどだったというが、中国の武装警察はそれを一網打尽に押さえ込み、全員を逮捕したのみならず、結果的には60000人を逮捕したという。デモ参加者のみならず、後にその親族をも含めた関係者までにも捜査の網を広げ、それを逮捕したのである。のみならず、今なおその結果の行方不明が8000人。これが中国政府のいう「自国の主権を守る決意と能力」なるものの実態だということなのだ。

 時あたかも、台湾では総統選の争点にこの問題が急遽浮上し、馬英九候補優位の状況にもひょっとすると影響が出るか、などといった見方も広がっている。こんな暴虐な中国に彼がいう融和路線など成り立つのか、判断するのはあくまでも台湾の人々とはいえ、どうかこの中国の姿を慎重に見極めてもらいたいと思うのは筆者だけではあるまい。

 いずれにしても、今こそ心ある者――とりわけ日本の心ある政治家たちは、中国に抗議の声を挙げるべきだと思う。

国際派日本人の情報ファイル■ 伊勢先生は書きました。

The Globe Now: チベット・ホロコースト50年(下)
〜ダライ・ラマ法王の祈り〜
アデは27年間、収容所に入れられ、
故郷の文化も自然も収奪された。
■転送歓迎■-------------------------------------------------------------------
-------------------------------------------------------------------
-------------------------------------------------------
 チベットで暴動が起こっています。その背景を知りたい方の
ために、JOG(国際派日本人養成講座)124号「チベット
・ホロコースト50年(下〜ダライ・ラマ法王の祈り〜を再発
信させていただきます。
--------------------------------------------------------

■1.法王の脱出■

 1959年3月10日、数万の群衆がダライ・ラマ法王のいるノ
ルブリンカ宮殿を包囲した。その日、法王は中共軍司令部での
演劇に招待されていた。しかも中共側は法王が護衛なしで来る
ことを要求していたのである。今まで東部チベットで、高僧が
中共軍司令官からパーティに招待され、殺害、あるいは、投獄
されるケースが4回もあった。群衆は、法王を中共軍の手に渡
すまいと決意していた。

 法王は中共軍司令部に大臣を派遣して、訪問に反対する「民
衆の熱意があまりにも強固なので、断念せざるを得ない」と告
げた。中共軍の将軍たちは激高して叫んだ。

 いままではわが政府も我慢づよかった。しかし今度の事
件は叛乱である。これが決裂点である。われわれは今こそ
行動にでるであろう。だから覚悟しろ。

 群衆は、何日経っても、宮殿のそばから離れなかった。3月
17日、中共軍陣地から発砲された重臼砲の砲弾2発が宮殿の
近くに落ちた。法王はこのまま宮殿にいれば、中共軍と群衆の
対立がいや増すだけだと考え、国外脱出の決意を固めた。群衆
の指導者の協力も得て、法王は一兵卒に変装し、その夜、ひそ
かに宮殿を脱出した。[2,p127-169]

■2.中共軍「反乱を鎮圧」■

 法王の脱出に気がつかなかった中共軍は、3月19日午後2
時から、宮殿に向け、一斉に砲撃を開始した。集中砲火は41
時間続けられ、宮殿はハチの巣のようになった。3日間で、1
万から1万5千人のチベット人が殺された。宮殿の内外は死体
で埋め尽くされ、中共軍は法王の死体を探し回った。

 中共軍は、さらに「反乱を鎮圧」するために、チベット全土
に戒厳令を敷き、23日までにラサだけで4000人を逮捕し
た。[4,p136] 中共軍の内部資料によると、10月までに、ラ
サおよびその周辺地域で8万7千人のチベット人を殺害したと
いう。[3,p89]

 3月28日には、中国国務院が周恩来首相の名で、チベット
政府の解散と、その職権を「チベット自治区準備委員会」に移
すことを発表した。そしてダライ・ラマ法王が「拉致」されて
いる間、パンチョン・ラマを準備委員会主任代行に任命した。
[4,p136]

 パンチョン・ラマは、ダライ・ラマ法王を助けるために、チ
ベットに現れたと信ぜられ、法王に次ぐ宗教的権威を認められ
てきたが、世俗的権力はなかった。このパンチョン・ラマも、
中国の傀儡にはならず、89年には「チベットは中国から得たも
のよりも、失ったものの方が大きい」という歴史的な声明を発
表し、そのわずか4日後、謎めいた不慮の死を遂げた。
[4,p161],[3,p214]

■3.ヒマラヤ超え■

 世界中の新聞が、ダライ・ラマ法王のラサ脱出を一面で報じ、
その安否を気遣っている間、法王の一行約100人は、200
名の兵士、ゲリラ兵に守られて、徒歩でラサから道もない広大
な山岳地帯を南南東に進み、ヒマラヤの主幹をなす連峰を横断
して、インドへ向かっていた。

 国境に近づけば近づくほど、旅は、よりいっそう難渋を
きわめた。そうして、つづく二,三日というもの、大吹雪、
雪に反射するぎらぎらする光、それから滝のようにおちる
激しい雨などの異常な連続によって、わたくしたちは悩ま
された。・・・

 非常に寒かった。指や手は感覚を失った。そして眉毛が
凍りついた。・・・こうした旅のあいだに、口ひげの伸び
た人々もかなりあったが、その人々の口ひげには、氷がい
っぱいついた。

 それでもわたくしたちは、別に着替えを持っていなかっ
たから、暖を保つ唯一の方法としては、ただ歩くことだけ
であった。[2,p193]

 途中の村で、中国側がチベット政府を解散させたというニュ
ースを聞き、法王は同行していた人々で臨時政府を作り、その
宣言のコピーをチベット全土に送った。

 法王の一行が、正式な許可を得て、インドに入国すると、町
や村では、心からの親切な歓迎をした。ネール首相も、電報で
歓迎と、無事の到着を喜ぶメッセージを送ってきた。さらに全
世界からの百人を超す新聞記者やカメラマンが待ちかまえてい
た。[2,p200]

 法王の亡命後、数ヶ月のうちに、およそ8万人のチベット人
が、同様に困難な国境越えをして、逃れてきた。途中で行き倒
れになった人数は数知れない。[3,p88]

■4.アデの悲しみ■

 アデは16年の刑期が終わっても、釈放されなかった。常に
囚人の先頭にたって、中国人看守たちに反抗したからである。
厳しい生活環境、過酷な強制労働、そして看守達の懲罰を、ア
デは耐え抜いた。1960年にゴタン・ギャルドの収容所に一緒に
移った百人の女囚のうち、3年後に生き残っていたのはアデを
含め、わずか4人であった。

 21年目の1979年、アデは生まれ故郷への15日間の旅を許
された。バスが故郷のカンゼ停留所に着くと、通りにたくさん
の中国人がいることに驚かされた。標識はすべて中国語で書か
れていた。実家の家も、土地も家財道具も、すべてが没収され
ていた。

 森や丘を眺めるだけでも、丘が文字通り不毛の地になる
まで、薬草や花がやみくもに採取されていることがわかっ
た。私はその荒廃ぶりに圧倒された。生命あるものに対し
て、これほど完璧に敬意の念が欠けているということは、
いったいどういうことなのか理解できなかった。[1,p276]

 私の若いころにはとても活気に満ちていた、カルナン僧
院、カンゼ・デイツァル僧院、デ・ゴンボ僧院は完全に破
壊され、略奪されていた。カンゼ・デイツァル僧院が以前
建っていたところには、野生の灌木が生い茂っていた。
[1,p273]

 アデの母と兄の一人は、飢饉で餓死していた。二人の兄は人
民裁判で暴行され殺された。最愛の姉ブモは、ゲリラのリーダ
ーだった夫ペマ・ギャルツェンの処刑後、発狂して死んだ。

 息子のチミはアデが連行されてから、狂ったようになり、母
親の名前を呼びながら、泣き叫ぶばかりで、そうしているうち
に、川に落ちて死んでしまったという。

 アデが逮捕された時、生まれたばかりだった娘タシ・カンド
は、アデの幼なじみのツォラが育ててくれていた。アデは22
歳になっていた娘を初めて見た。娘は近く結婚する事になって
おり、アデは幸せな生活を送って欲しいと、自分の悲惨な過去
についてはあまり話さなかった。

 私は悲しみでいっぱいになりながら、ワ・ダ・ドゥイ
(収容所)に戻る準備を始めた。またバスに乗り、カンゼ
を通り過ぎるとき私が考えていたのは、「もう何も残って
いない」ということだけだった。苦痛、別離、そして失っ
てしまった21年間がすべて心の中にこみあげてくるよう
な気がした。それは本当に耐え難いものだった。そして、
いまの私には何も残されていなかった。[1,p281]

 アデが釈放されたのは、逮捕から27年目の1985年だった。
アデはその後、インドに脱出し、ダライ・ラマ法王がチベット
亡命政府を組織しているダラムサラに住むようになった。

■5.収奪された国土■

 第二次大戦後、アジアやアフリカの民族が次々と独立してい
く中で、チベット民族はこうして、唯一、植民地に転落した。

 チベットは、ヨーロッパ共同体に匹敵する広大な領土を持っ
ていたが、その東部は分割されて、四川省、雲南省、甘粛省な
どに編入された。北部のアムド地区は青海省とされた。たとえ
ば、アデの生まれ育ったカンゼ地区は、四川省甘孜(カンゼ)
チベット族自治州とされている。細かく分割して、周囲の省の
少数民族とされたのである。残るチベット自治区の面積は、約
半分にすぎない。[3,p83]

 1949年当時のチベットの森林面積は22万平方kmであった
が、中共軍による乱伐で、1985年には13.4万平方kmとほ
ぼ半減した。中共軍は旧国民党系の囚人や、チベット人を使っ
て、原始林へのアクセス道路を切り開き、伐採した木材を中国
本土に送っている。

 チベットは、インドや東南アジアを望む戦略的地域である。
中国はここに90基の核弾頭を配備している。アムド地区の中
国西北核兵器研究所は、その核廃棄物をきわめてずさんな方法
でチベット高原に廃棄したと伝えられている。[3,p170-179]

■6.生活と文化の破壊■

 チベット亡命政府は、1949年から79年の30年間に死亡した
チベット人は、120万人をくだらないと発表している。その
内訳は、拷問17万3千人、死刑15万7千人、戦闘43万3
千人、飢餓34万3千人、自殺9千人、傷害致死9万3千人で
ある。侵略以前のチベット人口が600万人なので、5人に一
人が殺された事になる。チベット人の家庭で、家族が一人も投
獄、殺害されていない家を見つけるのは難しい。[3,p99-10]

 仏教国家チベットには、6,259もの僧院、尼僧院があっ
たのが、1976年に残っていたのは、わずか8つに過ぎない。仏
像や装飾品などは、ことごとく中国本土に持ち去られた。59
万人いた僧、尼僧などのうち、11万人強が拷問死し、25万
人以上が還俗を強制された。[3,p146-149]

 僧院に付随して学校があったのだが、それらも一緒に破壊さ
れた。チベットの12歳以上の文盲率は、中国側の発表でも、
74.8%であり、中国本土の31.9%の2倍以上となっている。
[3,p132]

 中国政府は、産児制限や、中絶・不妊手術により、チベット
人の人口抑制を図っている。その一方で、中国人の移住を数々
の優遇策によって奨励した。その結果、チベット人口600万
人に対して、チベット全土に住む中国人は750万人と見積も
られている。[3,p166]

 チベットは、中国の過剰な人口の捌け口とされ、チベット人
は自らの国土においても、少数・劣等民族とされてしまったの
である。

■7.ダライ・ラマ法王の祈り■

 ダライ・ラマ法王の働きかけで、国連総会は1959年、61年、
65年の三度、「チベット人民の基本的人権と、その独特の文化
的ならびに宗教的生活を、尊敬することを要求する」と決議し
ている。

 近年、多くの国の議会がチベットの人権を尊重するよう中国
政府に求める決議を行ってきた。たとえば欧州議会(1987-90,
4回)、旧西ドイツ(1987)、イタリア(1989)、オーストラリア
(1990,1991)など。アメリカの上下院は10回以上の決議を行
っている。[3,p114]

 1989年には、ノーベル平和賞が法王に授与された。ノルウェ
ーのオスロ大学での受賞記念講演では、法王は「平和は私達一
人一人の内から始まります。内的な平和があれば、周囲の人々
とも平和を分かち合うことができます。」との信念を披瀝し、
「非暴力による平和の追求」が世界の一大潮流になっているこ
とを指摘した。

 89年6月の第2次天安門事件において、「中国で同じような
変化をもたらそうとした勇気ある人々の努力は、・・・暴力で
うち砕かれてしまいました。」しかし中国の若者達が「権力は
銃口から生まれる」と教えられ続けて来たにも拘わらず、非暴
力を選んだことを、法王は高く評価した。

 チベット高原全体を、人間と自然が調和して、自由に平
和に暮らして行ける保護区にしようというのが、私の夢で
す。世界中の人々が、世界各地の緊張や圧力から逃れ、自
分自身の内にある平和の真の意味を探し求める地区とした
いのです。

 として、チベットの非武装、非核化、自然保護、そして国際
人権保護機関の設置を提案した。法王は演説を次の祈りで締め
くくった。

世界に苦しみがあり、
生き物が残っている限りは、
私も、残ります。
世界の苦難を消すために

 ダライ・ラマ14世の肉体は滅びても、その魂は15世とし
て、この世に戻ってくる。世界の苦難を消すために。チベット
仏教の輪廻転生信仰は、世代を越えて受け継がれる人類の「内
なる平和への意志」の象徴とも言えよう。