林道義先生の寸評がだされました。連続している「自滅的殺人」に多くのお方が感心を寄せられ、その動機についてもお考えあぐねておられるのではないかと思っています。
この点に林先生は、短文ではありますが、鋭く迫っておられます。
やはり「父性の欠如」と結論付けておられます。
ご紹介します。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/sunpyo.html
平成20年4月3日
自滅的殺人はなぜ起きたのか 「人を殺したかった」「相手は誰でもよかった」という理由で、人を殺す事件が立て続けに二件も起きた。「動機が分からない」と言われている。「動機」とは何かを考えてみる。
殺人事件の犯人に対して、警察・検察や裁判所は必ず「動機」を明らかにしようとする。「動機」によって、処分の程度を決めるためである。鬼畜にもまさる身勝手な「動機」ならば極刑にするし、情状酌量の余地のある「動機」ならば減刑にする。「動機」がない(分からない)となると精神鑑定を行い、「心神耗弱」などと診断されると「責任能力なし」とされて、刑事責任を問われなくなる。
私はかねてより、このシステムに疑問を持っていた。「動機」やそれを生んだ「原因」によって殺人に対する刑罰の程度が異なるというのは、犯人に対する同情心(とまでは言わないとしても、犯人に対する配慮)から出たシステムである。つまり犯罪を犯すのは「社会が悪いからだ」「育てられ方が悪かったからだ」という思想(階級闘争史観)を反映したシステムであり、原因を本人の外に見いだす考え方である。
しかし被害者の立場から見れば、「動機」や「原因」は関係ないのである。命を奪われた者、その家族、友人等々から見たら、「動機」が何であろうが、殺人そのものが極刑に値する。失われたものの価値は、失わせた者の「動機」によって異なってくるはずがないのである(ただし「動機」の中には同情すべきものがあることも確かであり、まったく無視してよいという意味ではない)。例の光市の妻子を殺された本村氏が犯人の死刑を要求しつづけていることに、私は最大限の同情と支持を送りたい。
どんな境遇であれ、立派に生きている人はいくらでもいるのであり、私は殺人犯の処遇の程度を決めるものとして「動機」に注目する今のシステムには大きな疑問を持っている。しかし私は別の意味で殺人犯の「動機」に注目している。それは彼等の真の「動機」を解明することによって、真の原因を明らかにし、それによってこうした無差別殺人のような理不尽な殺人を防ぐことが可能だからである。
殺人の「動機」には大きく分けて二つある。ひとつは「意識的動機」であり、いまひとつは「無意識的動機」である。強盗に入って顔を見られたから殺したというのが「意識的動機」、今回のように「なんでもいいから人を殺したかった」というのは、真の「動機」が本人にも意識されていない場合である。こうした場合は、殺人にまで至るケースは氷山の一角で、いじめや鬱病や自殺という現象として社会を覆っていると言っても言い過ぎではない。
今回の事件のうち、土浦市の8人殺傷事件も、岡山市の突き落とし事件でも、犯人の真の「動機」は「人生をゲームセットにしたい」というものである。心理学の専門家は「自滅的」と言っているそうだが、それは正しいと思う。現場の捜査員は「殺人そのものに興味を持っている」のが動機だという見方をしているらしいが、それは目の前の現象を見た印象であろう。自滅するための手段として殺人を考えるようになって、殺人に興味を持ったのであり、殺人への興味は二次的派性的なものであろう。根本は人生をゲームセットにしたいという心理である。ただし「自滅的」ならば端的に自殺をすればよさそうなものだが、じつは自殺には多大なエネルギーとある種の「強さ」が必要なのである。この二人の犯人には、それだけの「強さ」もなかったということである。だから殺人を犯して刑務所に入れられたり、死刑になることで、「この世」から「おさらば」したかったのである。
問題は、(いかに困難を背負っていたとはいえ)人生を捨てて「この世」から去りたいと思うほどに、しかしそうかといって自殺もできないくらいに、ひ弱な人格にどうして育ってしまったのかというところにある。
この疑問へのヒントとして、あるテレビが放映した、岡山の「突き落とし」事件を起こした少年の父親のインタビューに注目したい。この父親は驚くほど冷静に、自分と少年との関係を「分析」していた。すなわち、この父親は「子供の心にかかわってやれなかったのかもしれない」「受け止めてやれなかったのかもしれない」といった意味のことを語っていたのである(記憶だけなので言葉遣いは正確でない)。
他人事のような言い方が気になる点は別として、こう言う「感想」は「母性的な対応をしてやれなかった」という感慨である。父親には父親として、子供を強く育てる、鍛えるという役目があり、それを十分に果たせなかったという反省は、この父親の口からは語られなかった。この父親自身にまったく父性が欠けているとしか考えられないのである。
この少年は何度も環境の変化を経験し、カネが足りなくて大学にも行けず、就職もうまくいかなかった。それが真の「動機」だという見方もあるそうだが、それらは直接のきっかけではあるが、真の原因・動機ではない。隠れている真の動機は、困難に出会って人生を捨ててしまいたいというものであり、真の原因は父性欠如で育ってしまったひ弱な人格にある。
自分の人生をゲームセットにしたいというときに、他人を巻き込むことの重大さに思い至らないというのは、自分勝手であると同時に、最大の「甘え」の発露である。これは自分の不満を「いじめ」という行動に出ることによって晴らすという心理と原理的には同じである。いじめられる側の立場に立って考えることができない、自己中心的な「甘え」の極致が、今回の「身勝手殺人」となって現れたと言うことができる。
「身勝手殺人」の真の原因は、父性の欠如である。父親自身が「母性的な対応が欠けていた」と反省するようでは、まだまだ父性の大切さが子育ての現場に浸透していないと言わざるをえない。