「台湾で今も敬愛されている日本人教師」
日本人よ、胸をはれ!
変わり果てた故郷台湾 連隊の解散によって、宋さんは高座海軍工廠の寄宿舎に帰った。敗戦を機に全国に派遣されていた台湾少年工の仲間も、すべて帰ってきた。頼みの海軍は解体され、今は異郷と化した地に面倒を見てくれる者はいない。前途は不安に満ちていた。一部の少年は自暴自棄になり、すでに新聞種になってもいた。
しかし、そのことに問題意識を持った宋さんなど中学校卒業者は、台湾省民自治会という自治組織を結成し、自らの力で神奈川県や外務省と食糧の調達から帰還船の準備まで交渉することにした。宋さんも甲府63連隊の実例をあげ、「飛ぶ鳥は跡を濁さず」と規律の回復を説いて回った。虚脱と不安を抱えた8000余名の少年を、混乱の淵から見事に結束させた、20歳を最年長とする当時のリーダーの奮闘ぶりは、いまも語り草である。
宋さんの属する台湾省民自治会台北州大隊を乗せた病院船氷川丸は、昭和21年1月29日、浦賀港から出航した。不幸にも船中で天然痘が発生したため、九州の唐津港で一週間停泊して状況を見、2月10日に基隆に着いたが、検疫のため更に9日間港内へ入ることが許されなかった。その船内には、後に台湾建国の父と仰がれる李登輝さんも乗船していた。司馬遼太郎の台湾紀行には、このとき台湾少年工が船内で暴れたように書かれているが、事実は全く異なるという。
ようやく上陸許可が下りたのは、2月19日であった。船が基隆港に入り、岸壁に近づいた瞬間、だれもが呆然となった。基隆港で見た三年ぶりの故郷は、想像もできない姿に変わっていたのである。銃の両端に破れ傘と鍋を吊るした、みすぼらしい身なりの中国兵がいた。規律は最低だった。
敗戦と同時に、祖国と信じていた日本に放り出された少年たちは、今まで敵としてきた「中華民国」に、将来への夢を託していた。しかし基隆港の警備をしているだらしない身なりの中国兵は、その夢を一瞬のうちに打ち砕いた。
宋さんは、戦後中国人になったと得意になっていた仲間の一人をつかまえ、「おいX,これがお前たちの何時も威張っている中華民国の兵隊だ、よく見ておけよ」と言ってやった。彼らは立ち竦んでいたが、しばらくして、「あれは兵隊ではない、きっと何かの雑役だ」と絞り出すように答えた。
当時の中華民国の軍隊は、自給自足が建て前なので、各人が鍋釜を担いでいた。かっぱらいが始まったのは、その日の糧秣を調達するためであった。商店から代金を払わずに品物を持ち去るなど、当たり前だった。
当時の中国軍の事情については、朝日新聞の論説委員だった神田正雄氏が、戦前に出版された「謎の隣邦」(昭和16年、○○書店刊)に詳しく書かれている。それを読むと、台湾人が戦後に直面した驚きと困惑の謎が解ける。
「支那の軍隊は、鉄砲を担いでいるから兵隊であるが、実は無職の無頼漢である。勝てば略奪して進むし、負けるとまた略奪して逃げる。彼らにとって勝敗はものの数ではない。広東の軍官学校で養成された士官、下士官は近代支那においては、精鋭無比と称せられている。事実、長江沿岸に進出するまでの勇敢な行動は、日本軍に舌を巻かせたが、それら将兵は多く戦死してしまった。
これを指揮する司令官も、てこずっている。旧式な軍隊慰撫の方式で彼らを激励する以外に方法はない。すなわち「諸君はいま艱難と戦い困苦を忍ばねばならない。しかし南京、上海を占領する暁には、必ずその労苦は報いられるだろう」と暗に略奪を仄めかし、物欲の満足を示して不平を和らげるのである。よい鉄は釘にしない。良い人は兵にならない。
しからば兵はどのように募るのか。「招兵」と書いた紙の旗を立てて、盛り場を一巡する。続々と後ろからついてくる無職者、無頼漢、乞食、数だけは間に合わせる。間に合わせの服を着せれば、わら人形も兵隊になる。
これらの無職者、宿無しは、平素から野宿、寒暑飢餓に耐える訓練が出来ている。射撃はその場で現金を渡して上達をはかる。文明国流の軍隊の精神的な訓練など不要である。
乞食をしようか、それとも兵隊になろうか。ままよと、銃を取った弱いのと、土匪で居ようか兵隊になろうかといって、間一髪のところで軍隊に入った強か者との集まりである。支那の兵隊ほどおそろしく危険なものはない。」
教師として再出発
帰郷すると宋さんは、まず小松原先生を訪ねた。日本への帰還船を待っていた先生は、宋さんの訪問をたいへん喜んでくれたが、いつか別れの挨拶も十分に出来ぬ間に、あわただしく帰国されてしまった。困窮していた先生に、何もしてあげられなかったことと、228事件が起きたり、白色テロの嵐が吹き荒れたりして、音信が途絶えてしまったことを、宋さんは長い間悔いていた。
宋さんは、いつまでもぶらぶらしているわけにもいかず、仕事探しをはじめた。しかし戦後の台湾は何もかもが変わってしまい、なかなか適当な仕事はなかった。縁あって、学校の教師をすることになった。しかし状況が大きく変わった点では、学校も例外でなかった。
戦前は台北高校の教師で、戦後はアメリカ大使館員だったジョージ、カーの著した「裏切られた台湾」によると、大陸からやってきた中国人は、先を争って、日本人が占めていた職につき、目先の利く連中が、うまみのある仕事を独占したという。給与の額より賄賂のチャンスがどのくらいあるかが、彼らの物差しであった。教員などは彼らの価値観からすると、最低の仕事だった。そのため、教員には最も能力的にふさわしくない、他の仕事にあぶれた連中が就いた。まともに字が書けない者、計算さえ出来ない者もいた。
教師になった宋さんにも、いろいろ悩みが生まれた。まず北京語の勉強から始めなければならなかった。日本の統治時代を、肯定的に評価するのもご法度であった。大陸から逃げてきた国民党政府にとって、台湾人の日本への回帰は、最も警戒すべきことであった。中国人の教師仲間から、「宋定国は親日的だ」と何度も批判された。つい本音が出てしまうからであった。
日本の近現代史を正しく理解する教材として
台湾の戦後教育は、中国一辺倒の教育であった。そこに台湾や台湾人の立場はなかった。日本が登場するのは、反日教育の材料としてだけであった。これは今日の中国大陸における教育にも共通している。
宋さんは矛盾を感じながら、自分を今日あらしめてくれた小松原先生の教えを忘れず、常に生徒の目線に立って、人間を大切にする教育を心がけた。
教え子からは、多くの人材が輩出している。立法委員(国会議員)として活躍している陳建銘氏もその一人で、「全くすばらしい先生だった。人間のあるべき姿を、常におだやかに、身をもって実践されていた」という。
人の良さが裏目に出て、宋さんは教職を最後まで貫くことは出来なかった。他人の保証人となって多額の負債を背負い込み、教員を辞めなければならなかったからである。教職を離れた宋さんは、退職金で負債を返済すると、縁あってあるホテルのマネージャーになった。
だが人生は、何かの縁でつながっているのだろう。ある日、そのホテルに千葉県鎌ヶ谷市の人が来た。宋さんは、小松原先生の実家が鎌ヶ谷だったことを思い出した。そしてその客の親切で、小松原先生と翌日には連絡がついたのである。
小躍りする気持ちだった。昭和51年のことで、台湾の社会もすでに安定していた。宋さんは、同級生と相談し小松原先生を台湾へ呼ぶことにした。台北郊外の北投温泉「華南大飯店」に、社子公学校の同期生75名が集まり、小松原雄二郎先生歓迎謝恩会が盛大に開催された。だれもが笑顔で先生を迎え、眼を潤ませて「仰げば尊とし」を斉唱した。同期生は金を出し合い、先生に洋服から靴、時計まで、全てを新調して贈った。先生は非常に喜ばれ、「教師冥利に尽きる。私はもう死んでも思い残すことはない」と言って帰国された。
翌年宋さんは、お家族から「先生が重病」との連絡を受けた。直ちに先生を飯田橋の病院に見舞い、六日間必死に看病したが、祈りは通じなかった。「宋君、ありがとう、もういいよ」という言葉が最後だった。悲しみがこみ上げてきた。
敗戦の年、台湾の就学率は92,5%とだったが、イギリスとオランダの支配していたインドとインドネシアでは、わずか数%に過ぎなかった。台湾のこの高い就学率こそ、半世紀にわたる多くの日本人教師の献身的努力の偉大な金字塔である。(そこには、多くの台湾人教師の努力も当然含まれている。むしろ日本統治の後半期には、優秀な教師は圧倒的に台湾人だったという。)
宋定国さんのケースは、それを具体的に裏づけるものである。日本統治時代の一日本人教師の指導を徳とし、今も師と慕う台湾人の美しい報恩の物語である。台湾には、この種の話が実に多い。
そうした意味で台湾は、私たちの父祖の時代の日本を、曇りない眼で見ることのできる、最高の教室であると私は考えている。宋定国さんの海を越えた墓参りが、日台をつなぐ懸け橋として、また日本人が自国の近現代史を正しく理解する教材として、これからも可能な限り続けられることを、心から祈りたい。
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