このメールは小生の独自のMLで全国発信(約800件)と共に福岡県下の自治体と幾つかの自治体へ送信しています。
27日に福岡県立武蔵台高等学校での人権授業で使用された学習資料その6について、皆様にお知らせした。
今日は、その7として「穢れ観」について資料は触れていますので批判してみる。
10年間トンでも人権授業を行ってきた左翼教員と放任・承認してきた学校当局(批判第2回) 部落差別の解決は国と地方公共団体の責任だと洗脳していますが、それ以上に問題なのは
次の諸点です。
この教師は、葬儀参列者へ送られたお礼状に記載されている文面に「けがれ」と言う表現があり、「けがれ」観という意識を取り上げて洗脳しようと企んでいる。
この「穢れ」と言う言葉から、「穢らわしい」と言う言葉を連想させて、被差別部落住民への差別言葉へ連続させて、「穢れ」と言う言語が差別言語であり、日常生活に浸透していると、教えたいのだと想像できるが、この教師なんと見事な知識の欠如を示しているか、判ったうえで生徒を洗脳しようとしているのか、何れにしても教師という職には相応しくない教師であることは明白である。
大分県での教育委員会の世界での不祥事が問題になっていますが、この教師も本当に試験に合格したのかと思わざるを得ない。
問題教師の知的レベルについては別として、「穢れ」について簡潔にふれてみたい。
小生が学んだのは以下のようなことである。
東北アジアでは、儒教という文化、大宗教が生まれ、この儒教は個人から国家にいたるまでの体系的理論を作り上げている。その結果、西暦前二世紀以来、東北アジアの精神的基盤となって、今日に至っている。
日本の中世神道以前の神道(加地先生は原神道と呼ばれている)には、体系的な教義はおそらく無かったのではと言われている。そこへ、儒教体系や道教理論が伝来すると、聚足など(儒教の規定)のように神道における儀礼や器物にその影響があっても何の不思議もない。未完成の文化が、完成された他文化を受容するのは当たり前である。
日本の仏教は、儒教、道教の影響を多大に受けているのだが、ただ原神道には、儒教と決定的に異なる点がある。「穢れを忌む思想」です。禊は神道独特のもので、「古事記」には、穢れ・禊の物語が豊富に展開されている。
「穢れ」は差別言葉でもなんでもなく、「古事記」の時代から日本で生まれ育った思想である。
敢て「穢れ観」と言う意識を問題にすること自体が特定の運動団体への思想的迎合以外に何物でもないし、変える必要性もないのである。
この教師は「清めの塩」まで問題にしている。
葬式の終了後帰宅したとき「清めの塩」を降りかけるが、死の穢れを清める塩という考えは、仏教でもなく儒教でもない。日本古来の死生観で、その考え方は神道につながっている。日本古来の死生観は仏式葬儀の中に生きている証拠でもある。儒式葬儀と日本人の死生観とが重層するところが多い。
習慣や風俗だから敢て、問題にする必要もまったくない。そういう習慣や風俗であることを理解させれば良いのである。
これらのことは、「穢らわしい」と言葉弄りの好きな特定運動団体が好むところの思想へ生徒を誘導するための設問とみる。
「穢れ」という言葉は、倫理的、道徳的、精神的な面についてよごれているときに使用するもので、日常的な会話ではあまり使用するものではない。
普通日常的に、「けがらわしい」という場合には、身体的な汚れを意味する「汚らわしい」というという言葉を使用します。
この左翼教師は、知ってか知らずにか「穢らわしい」という「穢」の言葉を使用して、言語のすり替えをすることで意味のすり替えをするというトリックをしている。
この教師は十年間同一学校で人権教育をしてきた(武蔵台高等学校にて確認)そうである。そして今や教組のバリバリ左翼専従職員である。
福岡県八女市では、部落解放同盟員が二十年間にわたり公務員として人権関係の同一職場で働き管理職以上の実権を持っていて、市民に暴言を吐くなど日常茶飯事であったことも公表されているが、人権関係で長年勤務していること自体特定運動団体と癒着しているそしりは免れない。