老兵の独り言

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前回にお引き続き、その3をお知らせします。
斎藤吉久メールマガジンNo.409 より転載しています。


 日常的な信仰から見つめ直す「日本人の天皇」    ──島根県松江市・美保神社の巻 その3
     国家の中枢とは異なる縄文人の信仰
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▽米ではなく芋(イモ)が常食

 今週も出雲(いずも)・島根の旅をつづけます。

 松江市美保関町の美保神社は、一般には漁業の神様だとされていますが、それだけではなく稲作の神でもあった、ということが前号までお読みくださった読者はご理解いただいたのではないか、と思います。

 それならば、なぜ稲作の神とされたのか? 信仰の基礎にある稲作とはもともとどういう稲作なのか?

 8世紀に完成し、朝廷に献上されたといわれる『出雲国風土記』には出雲地方の神話などが収められていますが、その既述からはこの地方が古代において稲作が盛んだったようには見受けられません。「美保崎……北は百姓の家なり、志※魚(しび。※は田へんに比)を捕る」と書かれているからです。

 また、美保神社の祭神・事代主命(ことしろぬしのみこと)が鳥遊(とりあそび)、取魚(すなどり)をされた、というような古事記・日本書紀の伝承からすれば、この地方は古くから漁業と狩猟の土地柄だったことが推測されます。

 時代が下って、近世・藩政下においても、村高はわずか2石(1石は約180リットル)といわれます。現在ですら、旧美保関町の総面積5007ヘクタールのうち、85パーセントは森林で、耕地は3パーセントに過ぎません。米の生産量は40トン(私が取材した平成8年現在)といわれます。

 したがって美保神社の横山宮司さんは「美保関の常食はかつて米ではなく芋だった」と推測します。たぶんそれは間違いのないことでしょう。別ないい方をすると、古くは水田稲作農耕とは縁のない地域だということです。


▽米が登場しない祭り

 そのことはほかならぬ美保神社のお祭りからも想像されます。

 たとえば、神社の最大の祭りである蒼柴垣(あおふしがき)神事(4月7日)や諸田船(もろたぶね)神事(12月3日)には直会(なおらい)の席に芋膳が登場します。蒸し芋2個、大根魚切身の生酢、鰤(ぶり)の刺身、箸、御神酒(おみき)が食膳に並ぶのですが、お米のご飯もモチもありません。

 例外は宵祭り(よいまつり)です。直径二十数センチの大きなお椀(わん)に高く盛った強飯(こわめし)が出てきます。美保神社の2つの本殿、つまり事代主神をまつった右殿、三穂津姫命をまつった左殿に、75椀、供えられ、このため江戸時代には松江藩から4俵2斗の米が奉納されたのですが、直会のときに本殿から下げられたあとの強飯は食べられることなく、氏子が家に持ち帰ることになっているようです。

 このように米所とはおよそ縁遠い土地柄に立地する神社で、祭りにも稲作農耕の文化がほとんどうかがえない。それでいて、稲作の神と位置づけられ、多くの農民が参拝するのは、美保神社の稲作信仰は水田稲作の信仰とは異なる、水田稲作が伝来する以前の古い信仰だということが想像されます。つまり、縄文の信仰です。

 美保神社の社殿は、大社造りの社殿が2棟ならぶ独特の形式で、「美保造り」とよばれ、その秀麗さから国の重要文化財に指定されています。本殿にしずまる祭神は、既述したように、右殿が事代主命、左殿が三穂津姫命ですが、『出雲国風土記』には不思議なことに、いずれの名前も記載がなく、代わりに「御穂須須美命、この神います」と記されています。

 国家の中枢と地方では対立はしないまでも、異なる信仰が伝えられているようです。どういうことなのか。神社の歴史をあらためて振り返ることにします。


▽民俗学者の説明と宮司さんの異論

 島根大学の石塚尊俊先生(民俗学)は、美保神社の歴史を次のように説明しています(『式内社調査報告第20巻』など)。

 ───『風土記』の時代は、美保神社は地域的な信仰対象でしかなかった。記紀神話が中央から地方に広がっていったあと、国譲りの2柱の神がまつられるようになった。『延喜式』がまとめ上げられた10世紀のころも、国家的な「神階神勲」の栄誉に浴すことのない小社だった。

 中世以降になってようやく広く知られるようになるけれども、尼子氏と毛利氏とが覇を競った戦いで社殿も文書も焼失してしまう。文禄5(1596)年に国主・吉川広家が秀吉の朝鮮出兵の際に武運を祈って社殿を再建したことから、面目を一新した。

 近世になり、美保関が海上交通の要衝(ようしょう)として重要視され、藩主の崇敬が高まり、一社一令の神社という高い地位を得るにいたり、民衆の信仰も集まった。事代主命=恵比須神と信じられるようになり、海上安全、豊漁守護の神であると同時に副神恵比須神の本宮となった。

 明治期に入って、一躍、出雲大社(出雲市大社町)、熊野神社(熊野大社。松江市八雲町)につぐ出雲国第3位の神社となった。

 こうした石塚先生の歴史解説に疑問を呈するのは、ほかならぬ美保神社の横山宮司さんです。


▽岬と先島をめぐる神の道

 ──島根半島の西の端にしずまる日御碕(ひのみさき)神社(出雲市大社町)に「上の社」と「下の社」があるように、岬にしずまる神社は2座とする考えがあった。美保神社の場合も、あとになって2神がまつられるようになったというのではなく、『風土記』の時代からすでに2座で、稲作の信仰を集めていた、と推定できる。

 つまり、朝廷の権威が地方に伝播した結果、2柱の神をまつるようになり、信仰の中心地に発展していったのではない、というのです。石塚先生の見方は中央の歴史から美保神社を見ているのに対して、宮司さんの方は地方からの視点で神社の歴史を見ているようです。

 それなら、もともと2座だとする根拠は何か? なぜ岬の神社は2座、といえるのか?

 ヒントになりそうなのは、民俗学の立場から「岬とその先島(さきじま)をめぐる神の道の伝承」に注目している近畿大学の野本寛一先生の研究です(『神々の風景』)。

 出雲美保関には地蔵崎という岬があり、その先に沖の御前があります。若狭湾(福井県)には常神岬(つねがみみさき)と御神島(おんかみじま)、志摩(三重県)には大王崎と大王島、静岡県には御前崎(おまえざき)と依り神の岩礁である駒形岩、男鹿半島(秋田県)には入道崎(にゅうどうざき)と明道岩、があります。

 表にまとめ直すと、こうです。

秋田県 男鹿半島 入道崎 明道岩
静岡県 遠州灘  御前崎 駒形岩
三重県 志摩   大王崎 大王島
福井県 若狭湾  常神岬 御神島
島根県 美保関  地蔵崎 沖の御前

 野本先生によると、日本人は古来、陸と海がせめぎ合う岬を、魂の原郷である「常世(とこよ)」への旅立ちの場と意識し、また常世から神々がより来る聖地として守り続けてきた。岬の先にある「先島」は常世の岬が陸地によりつく飛び地なのだ、というのです。

 縄文人の自然観が伝わってくるようです。(次号につづく)
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