老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

CalendArchive

日本の時間

転職サイト『しごとナビ』
キャラクター【ナビちゃん】

プロフィール

老兵

Author:老兵
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

お勧め書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

おすすめ書籍

フリーエリア

フリーエリア

FC2カウンター

オンラインカウンター

現在の閲覧者数:

FC2カウンター

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント

コメントを投稿


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

TB*URL



 恒例になってきました、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」を送ります。


 橋本明『平成皇室論』の批判を続けます。


 前号から当メルマガは、約50年前、「思想の科学」誌上で展開された、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)と明治大学教授(政治学、政治思想史)で評論家の橋川文三との天皇論論争について紹介しています。

 目的は、一方で政治体制の歴史を世界史的に一様にとらえ、その一方で、国の安定性の要因を君主の倫理性に求める橋本さんの皇室論の誤りを浮き彫りにするためで、前号ではまず、同誌昭和37年4月号に載った葦津論文を取り上げました。


□□□□□□□□□□□□□ MENU □□□□□□□□□□□□□□□

 1 真正面の論争を避けた橋川文三
   ──知られざる「象徴天皇」論争 その2
 2 「左の頬も差し出せ」と要求する「陛下の級友」
   ──橋本明「平成皇室論」を読む 第5回
 3 ためにする鳩山代表の「追悼施設設置発言」
 4 天皇・皇室の1週間、ではなく2週間
 5 お知らせとお願い
 6 お勧めメルマガ&ブログ
 7 筆者のプロフィール


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 1 真正面の論争を避けた橋川文三
   ──知られざる「象徴天皇」論争 その2
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


▽前号のおさらい

 軽くおさらいすると、天皇制擁護の立場で書かれた葦津の論文は、

(1)敗戦国の王朝はかならず廃滅し、共和制に移行するというドグマ、

(2)個別性を無視し、世界の君主制をいっしょくたに論ずるドグマ、

(3)国民意識の多面性に目を向けずに、もっぱら倫理的に理解する学者たちの国体論のドグマ、

 に対して、痛烈な懐疑を呈し、

(ア)「君主制が少なくなり、やがて日本も共和国になる」という一般的公式を立て、具体的事実を無視し、具体的な国の運命を抽象理論で予見しようとするのは浅はかである

(イ)日本のいまの天皇制ははるかに非政治的で非権力的であるが、無力を意味しないどころか、もっとも強力な社会的影響力を持ち、もっとも根強い国民意識に支えられている

(ウ)日本の国体はすこぶる多面的で、抽象理論で表現するのは至難なほどである。国民の国体意識は、宗教的意識や倫理的意識と割り切れず、さまざまの多彩なものが潜在する。政治、宗教、文学、すべてのなかに複雑な根を持つ根強い国体意識が国および国民統合の象徴としての天皇制を支えている

 と指摘するのでした。


▽歴史上の2つの問題

 同誌編集委員会は「異なった立場を積極的にぶつけ合い、そこからお互いの思想のより着実な成長と実りを求める、という思想の科学研究会の精神に立って、天皇制支持の葦津氏の論文を掲載」(37年4月号)したのですが、今度は、葦津論文批判を書くように、と橋川に要請します。そして、同年8月号に、橋川文三の反論が載りました。

 けれども結論からいえば、橋川の論文は反論といえるようなものではありませんでした。橋川は論考の冒頭に「葦津論文は、そのままではとくに反論を必要とする性質の論考でもないように思う」と記しているほどです。まるで真正面からの論争を避けているかのようです。

 橋川はその理由を葦津論文においています。すなわち、葦津論文は「国体論そのものとしては、有効な論争の契機を提示していない」。葦津自身、「国体意識の根強く広く大きい事実について、注意を促し、国体研究の必要を力説したに過ぎない」「この論文は討論開始の序曲であり、国体論の本論ではない、と断っている」からだというのです。

 橋川は、葦津が書いたほかのミニコミ雑誌の論文にも目を通し、それらが「むしろ論争のためにはより適当な対象だった」と認識しながらも、「ふれる余裕がなかった」として言及しませんでした。

 そして、政治史的視角を示さず、非歴史的な比較制度論に傾斜している、と橋川が見る「思想の科学」に掲載された葦津論文の指摘に直接、反論するのではなくて、「やや場違いとも思われる歴史上の問題を序論的に提出する」のでした。

 その「歴史上の問題」とは、「明治憲法の天皇制は、民族信仰の伝統の上に成立したものなのか」「かつての日本植民地の人々にとって『国体』とは何だったか」という、2つの命題です。


▽作られた「国家の基軸」

 橋川は、葦津のように比較制度論や社会心理学の立場から国体=天皇の問題をアプローチするにしても、少なくともこの2つの問題を避けては意味がない、と指摘します。真の保守主義者はこの2つの問題から学ばなければならないというのです。

 つまり、橋川は、まず第1に、以下のように指摘します。

1、明治維新は上からの革新であった。それまでの日本人の生き方になかった要素を加えることだった。混沌とアナーキーのなかから1つの秩序を創出するダイナミックな課程であり、「無」からの想像という劇的場面にほかならず、「国体」価値の創造もこの過程で行われた。

2、伊藤博文らが起草した明治憲法は、混沌状態を収束する権力政治上の意味を負わされていただけでなく、国民的統合の創出を最大の任務としていた。それは現代では想像もつかない困難な課題であった。「国家の基軸」とすべきものが欠如していたからである。

3、そこで、伊藤は自然的存在としての国体から憲法を作ろうとしたのではなく、逆に国体の憲法を作ろうとした。学校や鉄道、運河と同じように、「国民」を作り、「貴族」を作り、そして「国家の基軸」を創出した。近代国家となるには、自然的・伝統的天皇と異なる超越的統治権者の創出が必要だった。

4、この国体は、民衆の宮廷崇拝やおかげ参りの意識とは異質のものだった。

 要するに、近代天皇制は、悠久の天皇史とは異なる、明治時代にでっち上げられたものだ、というのが橋川の指摘です。


▽膨張主義的規範

 2つ目の問題は、国体がかつての日本帝国の「新版図」において、どのような意味を持ったか、です。天皇=国体の意識が異民族に対してどのような特質をあらわしたか、確かめる必要がある、と橋川は指摘するのでした。

 つまり、

1、明治の領土拡張のあと、国体は普遍的価値として、「八紘一宇(はっこういちう)」の根源的原理として現れている。単に日本の歴史的特殊事情に基づく国柄という域を超え、人類のための当為(とうい)─規範の意味を帯びるに至った。膨張主義的規範であった。

2、国体論は、「帝国主義」権力そのものの神義論という本質をもっていた。宗教と政治の無差別な一体性の空間的拡大ということが日本の帝国主義の顕著な特質であった。日本の「国体論」はこの百年の歴史について責任を負っている。

3、「国体」が「征服・闘争・帝国主義」のシンボルに逆行しないために、我々は「国体」の自然化を戒める必要がある。そのために、葦津氏と同様、私も「国体研究の必要」を力説したい。

 要するに、どぎつく表現すれば、天皇制こそが海外侵略の血塗られた元凶(げんきょう)だ、という指摘でしょう。

 この反論になっていない橋川論文に対して、葦津は翌38年1月号で、いみじくも「反論ではなく、感想のようである」と指摘したうえで、葦津自身は真正面から反論を加えます。詳しくは次号にゆずりますが、予告的に少しお話しすると、葦津はおおむね次のように橋川論文を批判するのでした。

──日本人の国体論というものは途方もなく複雑で、まったく相反するような多様な思想が錯綜(さくそう)している。橋川氏があげた2つの例のほかにも、大切なものがあるだろう。これを整理し、論理づけるのは容易ではないが、2、3の事例だけで思想史を割り切ってしまっては「思想の科学」は成り立たないだろう。

 簡単にいえば、歴史のつまみ食いでは、科学にならない、というのが葦津の反論です。

 同じことは、橋本さんにもいえそうです。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
 2 「左の頬も差し出せ」と要求する「陛下の級友」
   ──橋本明「平成皇室論」を読む 第5回
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


 前号では、橋本明『平成皇室論』のエッセンスが凝縮されていると思われる第7章を読みました。そのうえで、橋本さん流の一夫一婦天皇制論の誤り、君徳論の誤りなどについて指摘しました。

 今号では、第1章と第2章を順番に読み進んでみたいと思います。


▽象徴天皇論に凝り固まる

 第1章「平成皇室と国民」の書き出しを読んで、「さすが元共同通信社会部デスク。文章がうまいな」と私は膝を打ちました。

 橋本さんは、読者の意表を突き、南米で武装集団に誘拐・拉致された日本人を取り上げ、ノンフィクションタッチで臨場感たっぷりに描き始めます。もちろん、事件を描くことが橋本さんの目的ではありません。橋本さんが事件を取り上げたのは、この日本人が切羽詰まった状況下で「天皇陛下の夢を見た」からです。

 夢のなかの天皇が生きる希望を与えたという奇跡の体験に、橋本さんは「かつて明仁天皇が明かしてくれた象徴天皇のあり方が、重なっている」と見ています。ご即位以来、「どうしたら象徴天皇たり得るか」と心を砕き、震災の被災者に膝を屈し、目線を同じくして励まされる陛下の思いを浮かび上がらせるというのです。

 そのうえで、ハプスブルグ家のオットー大公のように、「日本国民は幸せだ。あのように優れた天皇陛下を持てて」と述懐する人もいるが、この今上陛下が国民と築かれた幸福な関係が未来永劫に続くかどうか、皇太子ご夫妻の姿勢に関わってくる、と問題提起し、お気楽な私的外出を繰り返し、ご公務をお務めにならない妃殿下に対する批判へと、橋本さんは筆を進めるのでした。

 しかし橋本さんの見方は誤っています。最大の誤りは、象徴天皇という概念に徹頭徹尾(てっとうてつび)、凝り固まってしまっていることです。

 たとえば「もっとも不幸で、危険を背負っているとき、心に天皇が顕在化(けんざいか)した」のは、「象徴天皇だから」ではなく、「天皇だから」でしょう。つまり、日本の天皇が古来、つねに国と民のために祈りを捧げる存在だからです。

 また、オットー大公が「優れた天皇」と呼んだのは、今上陛下個人ではなく、古代から祈りを継承してきた歴史的存在としての天皇だと理解しなければならないと思います。

 ヨーロッパの王制なら、国王はキリスト教信仰にもとづいて、一個の人間として唯一神と向き合っています。しかし日本の天皇はそうではありません。

 だとすれば、今上天皇個人と皇太子個人、あるいは妃殿下個人を比較することがそもそも誤りなのであって、むしろこのメルマガが何度も繰り返しているように、両殿下の振る舞いではなくて、宮中祭祀の正常化こそが求められているのだということになります。


▽妃殿下を追い詰めた「環境」とは

 橋本さんは第1章の最後を、那須御用邸で静養される東宮ご一家が駅頭で送迎の人々と交流する光景が見られなくなって久しい。集まる人々の数も減っている。人々の心変わりは「あの時」が始まりだった、と締めくくります。

「あの時」とはいつなのか? 第2章の「東宮家の軌跡」は、平成16年5月、皇太子殿下の「人格否定」発言においています。雅子妃を脅かしたものは、「天皇家の家風」だというのが橋本さんの理解です。

 橋本さんは殿下の発言を国語学的に解釈し、そのように解説するのですが、私は一面的だと考えます。

「(妃殿下は)自分を皇室の環境に適用させようと努力してきたが、疲れ切ってしまった」というのが皇太子殿下の発言ですが、その行間を読む必要を感じるからです。
〈http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h12az.html〉

 歴代天皇は国と民のためにひたすら祈りを重ねてきました。刃向かう者のためにさえ祈るのが天皇ですから、臣下に対する批判の言葉は避けなければなりません。その姿勢はむろん殿下にもうかがえます。

 だとすると、会見の言葉を文字通り国語解釈しても、殿下の意思を正確に理解できるとは限りません。

 私は殿下がいう「皇室の環境」とはもっと別次元のものの意味だろうと考えています。


▽官僚とマスコミの妃殿下いじめを等閑視

 橋本さんは、このひたすら長い第2章で、皇太子殿下のイギリス留学から妃殿下との出会い、ご結婚、妃殿下の発症後、今日までの軌跡を丹念に追っています。しかし、触れていないことがあります。妃殿下問題を引き起こしたマスコミの挑発・誘導という外的要因です。

 橋本さんは、11年暮れに雅子妃ご懐妊の可能性に触れた報道が流産という悲劇的様相で消えたこと、宮内庁、側近からマスコミに事実が次々に流れ、東宮妃の宮内庁不信やマスコミ嫌いが募っていったと指摘しています。しかしそれだけです。

 勇み足報道のあと、皇太子殿下は、翌12年2月の誕生日会見で、「医学的な診断が下る前の非常に不確かな段階で報道され、個人のプライバシーの領域であること、事実でないことが大々的に報道されたことはまことに遺憾」と述べています。けれどもマスコミの姿勢は変わりませんでした。「人格否定発言」の翌年、17年は皇位継承問題など厳しい質問が突きつけられ、18年以降はまるで女性週刊誌の見出しを見るかのような会見に様変わりしています。

 それでも殿下はつとめて大所高所に立った話をされようとしています。

 マスコミ人の1人である橋本さんがそのような事実を知らないはずはないでしょうが、著書には宮内官僚とマスコミによる妃殿下いじめについての言及がすっぽりと抜け落ちています。

 そして、象徴天皇制を維持する要件はもっぱら皇族の倫理性だと理解する橋本さんは、第2章の最後に、「何を求められても平然として応じる人間力」としての「ノブレス・オブリージュ」を妃殿下に要求するのです。

「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも差し出しなさい」と教えたのはイエス・キリストですが、橋本さんの要求は、妃殿下の右の頬を情け容赦なく叩いておいて、そのうえ「さあ、左も出せ」と無慈悲に命じているように、私には聞こえます。それが「主権者」たる国民が、「象徴天皇制」に対して行うまともな要求だ、と「陛下の級友」はお考えなのでしょうか。もしそうなら、何と非人間的な「象徴天皇制」でしょう。

 次回は第3章と第4章を読みます。

 
スポンサーサイト

コメント

コメントを投稿


管理者にだけ表示を許可する
 

トラックバック

TB*URL

Copyright ©老兵の独り言. Powered by FC2 Blog. Template by eriraha.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。