老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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はじめまして

宇多天皇は復帰時には時の天皇の息子だったわけだし、醍醐天皇は元皇族の息子であった。そのような者が、復帰するというのは古代・中世にあった。

しかし現代においては旧典範増補第六條に「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ服スルコトヲ得ス」とあるように無理であろう。

もっとも伏見宮系は600年も前に分かれた血筋で旧伏見宮家を除く旧宮家は幕末から明治初期にかけて一代限りという条件で伏見宮家皇子を還俗させ設立され、その後、旧典範の永世皇族制で何代か続いただけで、将来的な臣籍降下は既定路線でした。

実際、明治39年の竹田宮・朝香宮・東久邇宮を最後に伏見宮系での新宮家創設はなく、各宮家の宮号を継ぐ長男以外、つまり次男以下は臣籍降下していましたし。

だから旧宮家復帰なんてありえません。

2009.12.05  kei  編集

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「平成民主党革命」政権は、やがて皇室に手を加えることでしょう。
その時慌てないように、以下の論考をご紹介しておきます。


旧宮家の皇籍復帰は不可能なのか ―――――――――― 竹下義朗さん
                           原著 2006/01/20

皇位継承問題において、男系継承維持派の間で必ずといってもよいほど話題に
上るのが、昭和22年に「皇籍離脱(実際には皇籍剥奪)」された旧宮家の方々
の「皇籍復帰」に関する期待であり要求です。

斯[か]くいう私自身も、旧宮家の方々の中に男子がおられる事に鑑[かんが]み
それらの方々に皇籍に復帰して頂き、その上で皇位継承資格を付与すべきもの
と考えています。

しかしながら、女性天皇=女帝・女系天皇推進派は、
┌--------
昭和22年の皇籍離脱から既に60年もの歳月が流れており、今更、一般国民
=民間人として過ごしてきた旧宮家の人達を皇籍に復帰させ、皇位継承資格を
付与するなど非現実的だ。
└--------
などと主張し、旧宮家の皇籍復帰に否定的な主張をします。

なるほど、たしかに旧宮家と雖[いえど]も、一度、皇籍離脱=臣籍降下した訳
だからなにを今更・・・という意見も分からなくはありません。しかしそれで
も、私は旧宮家の皇籍復帰を望みますし、皇位継承資格の付与も支持します。

何故ならば、長い皇統の歴史の中で、過去に一旦皇籍離脱したにも関わらず、
その後、皇籍復帰を果たし、更には即位した天皇が存在していたからです。

というわけで、今回は旧宮家の皇籍復帰問題を、かつての先例を通して考えて
みたいと思います。

時は平安時代の仁和3(0887)年、先帝=第58代・光孝天皇の崩御に伴い、新
帝が即位しました。これが後に「宇多[うだ]天皇」と追諡[ついし]される事と
なる帝です。

宇多天皇は貞観9(0867)年、第54代・仁明[にんみょう]天皇(在位833―850)
の第三皇子、時康親王=後の光孝天皇(在位884―887)の第七皇子としてこの世
に生をうけました。

御名を定省[さだみ]と命名された皇子は、元慶8(0884)年、陽成[ようぜい]天
皇(在位876―884)の廃位に伴い、父・時康親王が55歳という高齢で即位する
と、他の兄弟姉妹と共に皇籍離脱=臣籍降下し、源姓を下賜[かし]され、以後
「源定省」と称するようになります。

しかし、父・光孝天皇が病に倒れると、仁和3年、父帝のたっての希望で皇籍
復帰すると同時に、親王宣下[せんげ]を受け、立太子の翌日、父帝の崩御に伴
い即位しました。

つまり宇多天皇は、皇族に生まれながらも、皇籍離脱して「源氏」となり、後
に皇籍復帰して即位した天皇であったわけです。しかし中には、
┌--------
確かに宇多天皇は、一度、臣籍降下した後、皇籍復帰を果たした上で即位した
天皇だが、宇多天皇が臣籍=現代風にいえば「一般国民」にあったのはたかだ
か3年間。

それに対して旧宮家は、皇籍離脱してから既に60年もの歳月が流れており、
比較対象にはならない。ましてや元皇族の子孫となれば、生まれながらにして
一般国民であり、彼らを皇族にするなどというのは甚だナンセンスだ。
└--------

といった主張をする人もいるでしょう。御説ごもっとも。

しかし、それでも敢えて私は旧宮家──元皇族の御子孫をも含む皇籍復帰を支
持します。それは何故なのか? 実はこれにも先例があるからなのです。

zェ平9(0897)年、宇多天皇は皇太子・敦仁[あつひと]親王に譲位しました。

このとき即位したのが、後に醍醐[だいご]天皇と追諡される事となる帝です。
醍醐天皇は元慶9(0885)年、源定省=後の宇多天皇)の長男としてこの世に生
を享けました。名は「源維城」。

つまり醍醐天皇は生まれながらの「源氏」=非皇族であった訳です。

そんな彼に転機が訪れたのは、仁和3年のこと。父「源定省」の皇籍復帰・即
位に際し、彼も皇族の一員となり、名を「源維城」から「敦仁(王)」に改めま
した。そして、zェ平元(0889)年に親王宣下を受け、更に同5(0893)年には立太
子、そして前述のように同9年に即位しました。

つまり醍醐天皇は、生まれた時には非皇族であったものの、その後、父の皇籍
復帰に合わせて自らも皇族となり、最後には父帝から皇位を継承した、という
訳です。

醍醐天皇が臣籍にあったのは生まれてからの2年余りであり、物心ついた頃に
は既にれっきとした皇族であった訳ですから、旧宮家の御子孫と一概に比較で
きないことは確かです。

しかし、宇多天皇が臣籍降下の後、皇籍復帰した上で即位したことも、醍醐天
皇が源氏として生を享けながら後に皇籍に入り、父の跡を嗣いで即位したこと
も、紛れもない事実です。

歳月の長短は関係ありません。要は一度臣籍降下した元皇族が皇籍復帰を果た
し、皇位継承資格を得たということが重要なわけです。このような先例がある
以上、旧宮家の皇籍復帰を最初から除外するべきではありません。

元皇族とその御子孫に皇籍復帰を要請した場合、受けるや否かを打診し、その
答えを待ってからでも決して遅くはないはずです。

それすらせずに有識者会議が、慌ただしく女性天皇・女系天皇容認などという
答申を出したのは、とどのつまり怠慢であるわけで、「初めに女帝ありき」の

最初に結論があって、それに単なるお墨付きを与えるだけの茶番の誹りを受け
るのは至極当然であり、有識者会議と皇室改革(改悪)の主導者であった小泉元
総理は、その誹りを決して免れ得ないのです。


                       = この稿おわり =
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はじめまして

宇多天皇は復帰時には時の天皇の息子だったわけだし、醍醐天皇は元皇族の息子であった。そのような者が、復帰するというのは古代・中世にあった。

しかし現代においては旧典範増補第六條に「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ服スルコトヲ得ス」とあるように無理であろう。

もっとも伏見宮系は600年も前に分かれた血筋で旧伏見宮家を除く旧宮家は幕末から明治初期にかけて一代限りという条件で伏見宮家皇子を還俗させ設立され、その後、旧典範の永世皇族制で何代か続いただけで、将来的な臣籍降下は既定路線でした。

実際、明治39年の竹田宮・朝香宮・東久邇宮を最後に伏見宮系での新宮家創設はなく、各宮家の宮号を継ぐ長男以外、つまり次男以下は臣籍降下していましたし。

だから旧宮家復帰なんてありえません。

2009.12.05  kei  編集

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