老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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伊勢雅臣氏の 国際派日本人養成講座 は心躍る物語で、アメリカ何するものぞの心意気で頑張る我々を励ましてくれています。

人物探訪: 中島知久平 ~ 「航空立国」の志  富強な白人帝国主義国から日本を護るには、
世界一の航空戦力を持つしかない。


■1.「あがらないぞえ中島飛行機」■

 群馬県は利根川の河川敷に作られた滑走路の片隅に、傘のお
化けのような骨組みがうずくまっていた。「あれが中島の飛行
機いうもんか?」「けったいな飛行機じゃなあ、発動機が前に
ついとるやないか」 見物人たちはそんな事を言いあっていた。

 飛行士が操縦席に乗り込むと、プロペラが回り始めた。飛行
機は地上滑走で滑走路の端まで行き、風上である北方の赤城山
の方に機首を向けた。轟音とともに、飛行機は走り始め、全力
滑走に移ると、機体がふわりと浮いた。「飛んだぞ!」見物人
の間から拍手が起こった。

 ふいに機が左に傾斜した。北の赤城山から吹いていた風が、
東風に変わったのだ。まだ浮力が十分についていない状態で横
風を受けた飛行機は、そのまま横転墜落してしまった。

 一台の車が大破した飛行機に近づき、車から降りた人物が
「おーい。佐藤君、大丈夫か」と声をかけた。幸い、飛行士の
佐藤は軽傷であった。「いやあ、無事でなにより。機はまたで
きる。わしも一号機で成功しようとは思わんじゃった」

 この人物が日本で最初に民間会社で飛行機開発に取り組んだ
中島知久平であった。知久平は、その後、2号機、3号機と取
り組んだが、いずれも失敗に終わった。

 当時は第一次大戦の末期で、日本は未曾有の好景気のもと、
大インフレと米価高騰に見舞われていた。「札はだぶつく、お
米はあがる、あがらないぞえ中島飛行機」という落首が流行り、
これを耳にした知久平は苦笑して、「まあ、見ておれ」と設計
図とのにらめっこを続けた。

■2.「満洲で馬賊になって、ロシアをやっつけてやる」■

 中島知久平は、明治17(1884)年、群馬県新田郡の富裕な農
家に生まれ、当時の常として愛国少年として育った。ロシアの
三国干渉に憤慨して、いずれ満洲に渡って馬賊になり、これを
日本大陸義勇軍に発展させて、ロシアをやっつけてやると決心
した。遠大な志を立て、それに向かって邁進するという知久平
の性格は、この頃から現れていた。

 満洲の馬賊になるには、まず軍人になるのが近道だと考えて、
明治33(1900)年、16歳になった知久平は東京に出て、独学
で陸軍士官学校を目指した。「百姓の子はそんなに勉強しなく
ともよい」と祖母が反対したため、2年分の生活費を家の金庫
から無断で拝借して、上京したのである。「お金は何倍にでも
して必ず返します」という置き手紙を置いて。

 東京での猛勉強の最中、志望を海軍機関学校に変えた。馬賊
になるには陸軍の方が良いが、満洲に集結するロシアの大軍を
討つには、兵員を運ぶ海軍が要ると意見されたからである。

 明治36(1903)年、無事に海軍機関学校に合格。反対してい
た祖母も、「この中島の家は、元々新田義貞にもゆかりのある
土地柄の家じゃ。海軍将校の卵が出たとは、お国にご奉公でき
て、忠臣の義貞公もお喜びであろう」と相好を崩した。

■3.「よし、次は飛行機だ」■

 しかし、知久平が在学中に、日露戦争が勃発し、日本の陸軍
がロシアの大軍を満洲の地から駆逐してしまった。「もう、
おれが馬賊になる出番はない」と思った知久平は、不屈のアイ
デアマンとしてすぐ次の夢を見いだした。「よし、次は飛行機
だ。おれの手で日本の空に飛行機をとばして見せるのだ」

 その2年前、1903(明治36)年末に、アメリカのライト兄弟
が人類で最初の動力飛行に成功していた。彼らの目標はアメリ
カ陸軍に飛行機を採用してもらう事だった。フランスやドイツ
でも、軍事利用を目的として飛行機の開発競争が始まっていた。

 日本海海戦の歴史的な勝利で、大艦巨砲主義が盛り上がって
いたが、知久平はその先のことを考えていた。次の相手はアメ
リカだと言われているが、アメリカ相手に建艦競争をしても敵
うはずがない。しかし1隻8百万円の戦艦も、1機5万円の飛
行機20機が魚雷攻撃で沈めてしまえば、差し引き7百万の得
となる。

 級友達は「人間が乗るのがやっとの飛行機が、どうして何百
キロもある魚雷を運ぶことができるんだ」と笑ったが、知久平
は「おれがその魚雷を落とす飛行機を作ってやる」と答えた。

■4.飛行機の国産を目指す■

 明治40(1907)年、海軍機関学校を卒業した知久平は、少尉
候補生として巡洋艦「明石」での実務練習についた。その後、
様々な艦への異動を命ぜられながら、少尉、中尉と順調に昇進
していったが、その間にも飛行機の研究は怠らなかった。

 明治43(1910)年、ロンドンで開催される日英博覧会の視察
に巡洋艦「生駒」が派遣されることとなり、ちょうど「生駒」
に勤務していた知久平は、この時とばかり、フランスの航空界
を視察することを上官に願い出た。この頃は、フランスが飛行
機開発の最先進国であり、アンリ・フェルマンが4時間6分で
184キロを飛んで、速力と距離の世界記録を更新していた。

 艦長は知久平の願いを聞き入れ、マルセーユ入港後、行方不
明として視察に行き、帰国途上で復艦せよ、という大胆な許可
を出した。知久平も大喜びで「行方不明」となり、フランスの
飛行機会社の機体工場や発動機工場を見学して、無事、マルセ
ーユで帰艦した。

 帰国して間もない頃、陸軍の徳川好敏大尉がフランスから輸
入した飛行機で、3.2キロを飛び、これが日本最初の飛行と
認められた。知久平の飛行機熱に対して、同僚たちが「徳川大
尉が飛んだと言っても、フランスの飛行機だ。日本が自分で飛
行機を製造するには、まだ相当の時日がかかる」というと、知
久平はこう答えた。

 日本が日清戦争で清国の海軍を破った時、国産の軍艦は
ほとんどなかった。しかし、日本海海戦では国産の「明石」
「須磨」が活躍し、その後、戦艦に近い巡洋艦として、
「筑波」「生駒」も呉の海軍工廠で建造されるようになっ
た。我が国の造船能力は日進月歩で、これは飛行機にも当
然言えると思う。日本海軍にも国産の飛行機が採用され、
勇壮な戦隊を組んで、敵の戦艦戦隊を空から攻撃する日も
そう遠くないとおれは思う。[1,p93]

■5.飛行機開発に着手■

 こうした言動から知久平の名は、海軍で有名になっていった。
一中尉の分際で、飛行機で戦艦を雷撃するなどと夢のようなこ
とをいう飛行機狂としてだったが。

 しかし、陸海軍の中で飛行機に対する関心は少しづつ高まり、
知久平は29歳にして、海軍機の国産を目指して新設された飛
行機造修工場の主任に任命された。知久平は大正2(1913)年7
月、海軍最初の国産水上飛行機を完成させ、自身で試験飛行を
行った。

 翌年、第一次大戦が勃発すると、中国・青島のドイツ軍要塞
攻撃に、飛行機からの爆撃を試してみようということで、4機
の水上機を運搬船に乗せて近海まで運び、クレーンで海面に降
ろして発進させた。4機は49回出撃して、約200発の爆弾
を落とし、うち6発は確実に要塞に命中したということで、初
戦としてはまずまずの成果を得られた。

 その後も知久平は飛行機の開発を続けた。特に、今までの飛
行機のほとんどがエンジンを後部につけた方式であった所を、
知久平は前部につけた牽引式を考案し、その後の航空界はこの
方式が主流になっていった。知久平の先見の明が窺われる。

■6.民間事業として飛行機開発を進める■

 知久平はさらに重い魚雷を運ぶために二つのエンジンを搭載
した双発水上機を開発し、また魚雷落射機も設計したが、上層
部に却下された。知久平がことある毎に、大艦巨砲主義を批判
していたので、不愉快に思う高官も多かったようだ。

 こうした事から、知久平は海軍を去って、民間の事業として
飛行機製作を進めたいと考えるようになった。大正6(1917)年
12月、知久平は30代なかばの若さで、予備役編入の願いを
出し、海軍を去った。『退官の辞』と題した挨拶状には、こん
な一節があった。

 我が目標は一貫して国防の安成にありて、野に下るとい
えども官にあると真の意義において何等変わるところなし。
吾人が国家のため最善の努力を振るい、諸兄の友情恩誼に
応え得るの日はむしろ今日以降にあり。[1,p164]

 知久平は海軍で志を共にする数人の技術者と一緒に、郷里の
群馬県太田の利根川の河川敷を借りて飛行場を作り、そこで飛
行機の設計に取り組んだ。資金は自らの海軍の退職金と、知久
平の心意気に感じた富豪からの出資のみだった。

 当初、飛行機研究所と名乗っていたが、大正7(1918)年には、
会社名を中島飛行機製作所とした。知久平は、工場の2階の小
さな部屋に寝起きし、酒も煙草もやらず、炊事婦の作る粗末な
食事だけで、朝から晩まで設計に打ち込んだ。

 こうして出来上がった試作機は冒頭に紹介したように、失敗
続きで、地元の人々からも「あがらないぞえ中島飛行機」と揶
揄されたのだが、ついに大正8(1919)円2月、4号機が高度
100メートルで飛行場の上を一周し、見事に着陸を果たした。

 この成功によって、知久平は陸軍航空部から一挙に20機の
初注文を受けて、一息つくことができた。

■7.世界最大の飛行機メーカー■

 大正9(1920)年は中島飛行機製作所にとって飛躍の年だった。
三井物産との資本提携が成立し、資金面の心配はなくなった。
「ようし、日本一の飛行機会社になったるぞ!」と胸を叩いた
ところに、陸軍から大正9年度分として、100機もの追加注
文が入った。海軍も、水上機を30機買いたいと言ってきた。

 大正10(1921)年、ワシントン軍縮条約が成立して、当分の
間、建艦競争は中止となり、飛行機の方は制限されてなかった
ので、逆に集中的な開発が続けられた。中島飛行機は次々と名
機の開発に成功し、大量の飛行機を陸海軍に納め続けた。

 陸軍最初の国産戦闘機として採用された91式戦闘機は、そ
の後、97式、「隼」などにつながっていく。97式はノモン
ハン事件の最初の6日間で、ソ連の最新鋭戦闘機175機を撃
墜し、日本の飛行機の性能を世界に示した。[a]

 海軍でも国産最初の90式艦上戦闘機を初めとして、65機
種を開発した。大東亜戦争勃発と共に真珠湾の米大艦隊を壊滅
させて、世界の航空常識を覆した「零戦」は、原設計は三菱で
あるが、エンジンは中島製であり、また生産された合計1万余
機のうち、6千5百機ほどは中島で作られたのである。[b]

 中島飛行機製作所は、戦時中の昭和19(1944)年には、中規
模以上の工場だけでも100カ所を超え、人員数は約26万人
という世界最大の飛行機メーカーとなっていた。

 飛行機でお国のために尽くす、という知久平の志は、立派に
実現されたと言える。

■8.「航空立国」■

 昭和5(1930)年、知久平は衆議院選挙に立候補し、群馬県で
最高得票で当選した。「飛行機の中島」と言えば、群馬県で知
らない者はいなかったので、選挙運動をする必要もなかった。

 知久平は政治の世界で出世しようという野心はなかった。米
英など富強な白人帝国主義国から日本を護るには、大艦巨砲主
義ではなく、あくまで航空戦力による国防でなければならない
と訴えることが、政治家となった動機であった。そして、陸海
軍から空軍を独立させ、世界一の航空戦力を持つ「航空立国」
を訴えた。

 知久平の政治家としての活動のハイライトは、昭和17年
(1942)秋に構想した『必勝戦策』であろう。これは後に「富岳」
と命名される超大型重爆撃機を開発し、これをドイツ占領下の
フランスから出撃させて、米国東部に集中する製鉄所、アルミ
工場などを全滅させようという雄大な構想だった。すでに知久
平の耳には、米国で開発されつつあるB29の情報が届いてお
り、これで日本が爆撃される前に、米本土を叩こうと考えたの
だった。

 軍部は、そんな夢のような飛行機は実現不可能ではないかと
疑ったが、知久平は重役会議の席上、次のように言って、自社
での開発を進めさせた。

 中島飛行機は金儲けのためにあるのではない。国家のた
めに存在しているのだ。軍のワカラズ屋どもが何をいおう
とも、国が危機に直面している時、安閑として祖国の国難
を傍観していることができるか! ・・・そのために会社
は大損してもかまわぬ。[1,p389]

 知久平は東条首相を直接説得して、「富岳」の開発をスター
トさせた。しかし、この計画は新しくできた軍需省の航空兵器
総局長官・遠藤三郎中将によって中止させられてしまった。遠
藤中将は、飛行機を一機でも多く必要とする前線のために、現
有機の増産を優先させたのである。

■9.「心理的な敗北感をいつまでも持たない」■

 知久平は戦後まもない昭和24(1949)年10月、享年66歳
で世を去ったが、その直前、次のような言葉を残していた。

 日本は今は焼け野原である。・・・しかし、私は日本の
復興は意外に早いと思う。日本の民族は優秀である。特に
その科学的技術において、決して欧米のエンジニアに劣る
者ではない。必ずや近い将来に日本の産業は復活する。

 何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ。
・・・もし対等の資源を与えられたならば、少なくとも中
島飛行機の技術はアメリカには負けていなかったと思う。
したがって、負けたからだめだ、というような心理的な敗
北感をいつまでも持たないで、早く自分の気持ちを復興さ
せることだ。[1,p411]

 知久平の遺言に励まされた如く、その後、日本の産業は奇跡
的な復興を果たし、その後の高度成長時代には、いくつもの分
野でアメリカを凌駕していった。
(文責:伊勢雅臣)
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