老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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御幼少のころの皇太子殿下(今上陛下)の御決意が窺い知る事が出来ました。
熱い思いがこみ上げてきました。



国際派日本人養成講座   より転載しています

天皇への道(上) ~ 11歳の御覚悟
 終戦の玉音放送に、殿下は「つぎの世を背負って
新日本建設に進まなければ」と決意された。


■1.奥日光へ■

 昭和20(1945)年7月12日朝、日光の朝空はうららかに晴
れ、山々の谷間からは朝霧が立ちのぼっていた。

 学習院初等科6年生66名は、重いリュックを背負い、水筒
を下げ、遠足にも出かけるようにはしゃぎ回っている。

 その日は、生徒たちが疎開していた日光から、さらに奥の湯
元に再移動する日だった。すでに近くの宇都宮市も空襲を受け、
大部分が焼失していた。疎開先の日光も空襲警報が頻繁に出て、
昼の勉強も夜の睡眠も十分にとることができない状態だった。

 奥日光に着くと、一行は南間ホテルに入った。ここにはすで
に陸軍の少年航空兵(中学1、2年ぐらい)約100人が疎開
していたので、超満員になった。

 9日ほど遅れて、皇太子殿下(今上陛下)がお着きになった。
殿下は2階の一室を居間兼勉強室とされたが、おやすみになる
時以外は、ほとんど他の生徒たちと一緒に過ごされた。

 生徒たちは午前6時に起床し、朝礼、ラジオ体操、朝食の後、
8時50分から11時10分まで授業を受けた。昼食の後は、
夕食まで自習をしたり、魚釣りや野草摘みに出かける。5時か
ら夕食をとり、夕礼、入浴の後、7時半には消灯という毎日だっ
た。

 授業はホテルから500メートルも離れたスキー客用の山小
屋が使われた。担任の一人、秋山先生は平素はやさしいお父さ
んという感じだったが、薄暗い教室なので、本に目を近づけて
見ている生徒がいると、「○○!」と大声で一喝した。特に、
殿下は将来、大勢の人の前に立たれる方であるから、つねに立
派な姿勢を身につけさせたいと、殿下の背が丸くなると、背筋
をげんこつでぐりぐりこすって、背を伸ばさせた。

■2.「殿下だからといって米の特配は許されない」■

 食事はホテル内の食堂で一緒にとるのだが、食糧難の折り柄、
ランチ皿の上に軽く一杯のご飯と、ささやかな野菜の煮付けだ
けだった。育ち盛りの少年たちには十分なはずもなかったが、
みな戦争のこともおぼろげながら分かっていて、食料の不足に
不平をいう者もなく、出されたものを全部平らげて元気に遊び
回っていた。

 しかし、無邪気に戯れている殿下や学友たちは、顔は青白く、
頬は落ち、手足は細り、少し駆け回ると疲れてしゃがみこんで
しまう。釣った魚や野草、そして捕まえたイナゴまで食べて、
なんとか栄養を補給していた。

 同じホテルに疎開している少年航空兵たちは、大事な航空兵
の卵として、比較にならない程、良いものを食べていた。学習
院の生徒たちは、さぞやうらやましく思ったことであろう。

 軍事教官の高杉善治・陸軍中佐は、この状態を見るに忍びず、
東京の近衛師団司令部に行って、食料援助を懇請した。水谷一
生・参謀長は、しばらく考え込んだ後、こう言った。

 国民全部が勝つためにあらゆる困苦欠乏に耐えて戦争に
協力しているときに、殿下だからといって米の特配をする
ということは許されるべきことではない。もしそれをすれ
ば皇室に対する国民感情を悪化させるおそれがないとはい
えないであろう。この際はお苦しいことでまことに恐れ多
いことであるが、国民とともに頑張ってもらいたいと思う。
[1,p55]

■3.「いただきまあす」■

 天皇皇后両陛下も、一般国民と同じ配給食料を召し上がって
おられるので、水谷参謀長の言葉には賛同するしかなかった。
しかし、やせ細りつつある殿下の様子を目の当たりにしている
高杉中佐は、「世の非難は一切、自分自身で引き受けるとして、
一週間の米でもよいから特配していただきたい」と懇請を続け
た。

 参謀長はしばらく考え込んだが、「そこまで言うのなら」と
一週間分の米や缶詰を配給してくれた。ちょうど、日光に物資
を送る軍のトラック便があったので、それで運んで貰うことに
した。

 久しぶりの白米のご飯と牛肉の缶詰が食卓に並んだ。生徒た
ちは食卓につき、一瞬でも早く食べたいはずだが、両手を膝の
上において、行儀良く先生方の来場を待った。

 先生方が食卓について「いただきます」という声に合わせて、
生徒たちは「いただきまあす」と、食堂に鳴り響くような大き
な声を出して、食べ始めた。殿下も隣の学友たちに「すごいね、
きょうのおかずは」と話しかけ、にこにこ笑いながら頬張って
おられた。

 高杉中佐は、殿下や学友たちが嬉しそうに食べている姿に満
足したが、戦争の推移と今後の食料補充のことを考えると、暗
い気持ちになった。

■4.「身をもって殿下のご安泰を守り抜こう」■

 8月6日に広島、9日は長崎と原爆が投下され、軍官民とも
恐怖のどん底に追い込まれた矢先に、東大教授を定年退職した
穂積重遠氏らが新しい侍従として着任した。新任侍従らは東京
を出るとき、宮内大臣から次のような訓示を受けていた。

 将来、戦局の変化によっては本省と東宮職(皇太子をお
護りする人々)との通信連絡も途絶し、いちいち細部の指
示を出せなくなることもあると思われるので、かかる場合
には、大局的見地より独断機宜(きぎ)に適する処置をと
り、もって皇太子殿下のご安泰を期してもらいたい。

 一行は、いかなる情勢に立ち至っても、身をもって殿下のご
安泰を守り抜こうと心に誓い、戦場に赴く気持ちで、空襲下の
東京を発ったのである。

 8月13日朝、いつものように山小屋教室に登校する際、後
方から轟々たる爆音が聞こえてきた。引率の鈴木先生が振り返
ると、敵の艦載機が8機、超低空で谷間を縫って突進してくる
ではないか。

「それ、空襲だあ! はやく木の下にかくれて伏せろ!」と先
生は怒鳴り、生徒たちはすばやくあたりの木の繁みの下に飛び
込んだ。

 鈴木先生は、殿下の手を引きながら山小屋の先にある防空壕
に向かって走った。殿下をかばうように防空壕に飛び込んだ瞬
間、一機がゴーッと頭上をかすめた。続いて一機、また一機と
通り過ぎていった。

 鈴木先生は、防空壕から出て敵機の行方をしばらく見ていた
が、後続機のないことを確かめると、「殿下、出ましょう」と
お手をとって、殿下を壕から引き出した。殿下は繁みから出た
学友たちと出会って、「怖かったねえ」と話し合いながら、山
小屋の教室に入って行かれた。

■5.「殿下のご責任と、ご任務は、まことに重大です」■

 8月15日正午に陛下の重大放送があるというので、午前の
授業が終わると、生徒たちは南間ホテルの2階の廊下に集めら
れた。殿下はお立場上、別室でお聞きになられたほうがよかろ
うということになり、2階の御座所でラジオの前で正座された。
侍従たちは、その後ろで一同直立して放送を待った。

 ラジオは雑音も入らず、陛下のお声を明瞭に聞き取ることが
できた。放送が進み、終戦を伝えるものであることが分かった
時、侍従たちの間から嗚咽(おえつ)の声が漏れてきた。

 殿下は目を閉じ、頭を深く垂れ、身動きもせずに、じっとお
聞きになっていたが、しっかり握りしめられた両手はかすかに
ふるえ、目頭には涙があふれ、光っていた。放送が終わってか
らも、しばらくその姿勢で座っておられた。

 やがて穂積侍従長が、いたわるように殿下の隣に座って、孫
に諭すような調子で、放送の内容を説明し、次のような趣旨の
ことをお話しされた。[1,p73]

 戦争に負けて終戦となりましたが、日本国が滅びたので
はありません。日本はこの敗戦のあらゆる困難を克服して、
再びその存立を確実にし、繁栄を取り戻さなければならな
いのです。

 この日本再建の時代に際会された殿下のご責任と、ご任
務は、まことに重大です。どうか、いたずらに悲嘆にくれ
ることなく、専心ご勉学にはげまれて、きょうの悲壮なご
決意を一生お持ち続けになり、名天子におなり遊ばします
ようにお願い申し上げます。

 殿下は黙って、いちいち頷いておられたが、そのお顔は溌剌
たる生気をとりもどし、堅いご決意のほどがありありと窺われ
た。

■6.「新日本建設に進まなければなりません」■

 その晩、殿下は日記にこう書かれた。

 おそれ多くも天皇陛下が玉音で米英支蘇4ヶ国の宣言を
御受託になるという詔書を御放送なさいました。私はそれ
を伺って非常に残念に思いました。無条件降伏という国民
の恥を、陛下御自身で御引受けになつて御放送になつた事
は誠におそれ多い事でありました。・・・

 今は日本のどん底です。それに敵がどんなことを言つて
来るか分かりません。これからは苦しい事つらい事がどの
位あるのかわかりません。・・・

 今までは、勝ち抜くための勉強、運動をして来ましたが、
今度からは皇后陛下の御歌(*)のやうに、つぎの世を背
負つて新日本建設に進まなければなりません。それも皆私
の双肩にかゝつてゐるのです。それには先生方、傳育官の
いふ事をよく聞いて実行し、どんな苦しさにもたへしのん
で行けるだけのねばり強さを養い、もつともつとしっかり
して明治天皇のやうに皆から仰がれるやうになって、日本
を導いて行かなければならないと思ひます。

*前年昭和19(1944)年12月23日、殿下のお誕生日に、
皇后陛下より次の御歌と、疎開児童と教職員、合計41
万6千余人に25枚入りビスケット各1袋が贈られた。

 疎開児童のうへを思ひて

つぎの世をせおふべき身ぞたくましくただしくのびよ
さとにうつりて

 終戦の玉音放送を期に、殿下が将来の地位と責任とを深く自
覚され、その後のご行動、ご勉強、スポーツにおいても、強い
ファイトをお示しになったことは、先生方や側近者がひとしく
感じたところであった。[1,p237]

■7.「皇太子殿下を奉じ、抗戦を継続すべし」■

 実はこの前夜、徹底抗戦を唱える陸軍の少壮将校グループが、
玉音放送を阻止しようと、近衛師団の一部をニセ命令で動かし
て宮城を包囲し、録音盤を奪取しようとした事件が起きていた。

 それに呼応して、8月15日朝、東部軍の中佐参謀が湯元に
やってきて、殿下を御護りしている近衛師団儀仗隊の隊長・田
中義人少佐に対して、次の命令を伝えた。

 貴官は第14師団と協力して皇太子殿下を奉じ、会津
若松に立てこもり抗戦を継続すべし。第14師団に対して
はすでに出動を命じあり。

 田中少佐は「私は近衛師団の直轄でありますから、近衛師団
の命令がない限り、その命令に従うわけにはいきません」と抗
議した。東部軍参謀は威嚇して命令を押しつけようとしたが、
少佐が頑として応じなかったので、仕方なく引き返した。

 田中少佐は近衛師団に連絡をとろうとしたが、つながらず、
宇都宮の第14師団司令部に無線電話で探りを入れると、その
参謀の命令伝達を受け、ただちに動員命令を下し、出動準備中
とのことであった。

■8.反乱軍を阻止せよ■

 田中少佐は、近衛師団と連絡がとれるまでは、殿下を守護す
るという本来の任務を続行すべきと決心し、第14師団が湯元
に来るのを阻止しようとした。

 そのために、いろは坂の難関に歩兵中隊を配置し、要路には
地雷を敷設して、反乱部隊の前進を阻止する準備を進めた。そ
して万一、湯元まで攻め込まれた場合は、北の鬼怒川河畔の川
俣温泉に抜ける間道があるので、殿下に乗馬で退避願うことに
した。

 そのうちに近衛師団とも連絡がとれたので、田中少佐は万一
の場合の救援を求めた。近衛師団は戦車一個中隊(12両)と
飛行機1個中隊(12機)をいつでも救援に派遣できるように
準備してあるという。

 こうして緊迫した数日が過ぎた後、第14師団の参謀が日光
まで連絡にやってきて、東部司令官の反乱命令は虚偽であるこ
とが判明したので動員を中止した、と報告した。皇軍相撃つ悲
劇が避けられ、一同、安堵の胸をなでおろした。

■9.アメリカ軍が殿下を本国に強制拉致する!?■

 反乱軍の騒ぎが収まる前の8月16日午前中、今度は憲兵隊
から、アメリカ軍が本土に進駐してきた場合、殿下を人質とし
てアメリカ本国に強制拉致する、という情報がもたらされた。

 日本軍が無条件降伏した後、アメリカ軍が進駐してきて具体
的に何をするのか、まったく見当がつかなかった。もし、この
情報の通り、アメリカ軍が殿下を強制拉致しようとするなら、
国体護持のために、いかなる手段を講じても阻止しなければな
らなかった。

 軍事教官の高杉善治・陸軍中佐は、田中少佐と相談し、もし
アメリカ軍が湯元にやって来て、殿下を拉致しようとした場合
は、身代わりの生徒を差し出し、その隙に殿下は徒歩か駕籠で、
裏日光の間道を経て、会津若松に避難いただく、という作戦を
立てた。
(続く、文責:伊勢雅臣)
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