老兵の独り言

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三種の神器こそ神道の教義にふさわしい(素人神道感)

私は、一般には天皇家の統治権の象徴と見られているいわゆる三種の神器こそ、言葉ではなく、物に託された、神道のすばらしい教義だと感じています。

それは、政治的な意味と同時に、人が一般的に備えるべき精神的・倫理的価値を見事に象徴的に表しているように思えます。

物による象徴であるだけに、言葉では表しきれないような、広くて深い意味にとることができるように感じるのです。

ここでは、政治的意味についてはさておき、三種の神器(玉、剣、鏡)の指し示す宗教的・精神的に価値について、言葉による冗長さを敢えて我慢して、私の感じるところを表現するならば、

玉:愛、情熱、喜び、感謝など、人としての生きるうえでの目的となるべき精神的核の象徴です。

剣:必要な行動を果敢行い、戦い、苦難などを厭わず、自分から向かっていく勇気と行動力の象徴です。

鏡:事象・他人・自分自身を正直・素直に見つめ、理解し、行動に反映すべき曇りのない知性の象徴です。

行動指針や、倫理項目を数箇条にまとめることは、「十戒」や「八正道」など教義があるとされる宗教では普通のことですが、これほど簡素で、誰の目にもわかりやすい教義はないのでは、ないでしょうか?

3つにまとめた抽象度の高さを、物によって象徴的に表現することによって、思考というフィルタを通さず、直に心に訴えてくるという点で、他に類を見ないすばらしい教義だと、いつも感動するのです。

2010.03.07  Nick  編集

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文末に斎藤吉久氏の以下のコメントがありますがあえて文頭にもご披露しました。
佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。



大いに勉強になりましたので皆様にもご紹介します。




 「国家神道」異聞 (佐藤雉鳴)     第1回 神道指令の「国家神道」


◇1 正体不明の「国家神道」

「国家神道」というものの正体が分からないままに、今日に至っている。

 ここでいう「国家神道」とは、昭和20年12月15日のGHQ神道指令にある「国家神道」の意である。ポツダム宣言、神道指令を経て、日本国憲法第20条そして第89条が制定されている。なかでも神道指令は、「国家神道」というものを定義して、国家行政と神道を厳格に分離させようとしたものである。

 しかしこの「国家神道」なるものの正体はあいまいであり、国家の神社行政の中には、つまり神社関係法令のなかには、神社は非宗教、とするものしか見当たらない。むろん教義もない。

 法令をあげると、次のようなものである。

明治15年 神官教導職の兼補廃止(神官は非宗教家、府県社以下は別途)
明治33年 神社局設置(神社非宗教、神社のみ担当)
昭和15年 神祇院官制(神祇院の設置、神官職督励)

 教義がなく、法令上も「国家神道」を特定できるものがない状態で、「国家神道」という言葉のみがさまざまに用いられている。

 葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』は神道人としての見解であるが、一言でいえば国家神道なるものは神道の範囲内にはなかった、というものである。次の文章が簡潔にそれを表わしている。

「帝国政府の官制上、神社神道──戦後の用語では国家神道──の最高機関である神祇院は、非宗教であるのみでなく、思想論争などにはまったく関与しない、非イデオロギーに徹していたといい得る。これが明治以来のいわゆる国家神道の真相である」(引用に際して適宜編集した。以下同じ)


◇2 教理を明らかにしていない「神道指令」

 では、国家神道を規定したGHQ神道指令はどうだろうか。神道指令とは「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」というものである。

「神道の教理ならびに信仰を歪曲して日本国民を欺き、侵略戦争へ誘導するために意図された軍国主義ならびに過激なる国家主義的宣伝に利用するがごときことのふたたび起ることを防止する」

 神道の教理は明らかにされていない。

 ただ、次の文言は少し具体的に述べている。

「『軍国主義的ないし過激なる国家主義的イデオロギー』なる語は、日本の支配を以下に掲ぐる理由のもとに、他国民ないし他国民族に及ぼさんとする日本の使命を擁護し、あるいは正当化する教え、信仰、理論を包含するものである。
 (1)日本の天皇は、その家系、血統あるいは特殊なる起源のゆえに、他国の元首に優る、とする主義
 (2)日本の国民は、その家系、血統あるいは特殊なる起源のゆえに、他国民に優る、とする主義
 (3)日本の諸島は、神に起源を発するがゆえに、あるいは特殊なる起源を有するがゆえに、他国に優る、とする主義」

 ここにある「主義」が「国家神道」の思想ということだろう。しかし特殊なる起源という古伝説は、古い国ならどの国にもあって不思議はない。そして、これらがなぜ「過激なる国家主義的イデオロギー」となったのか、は説明されていない。


◇3 事実に基づく定義がない

 このGHQ神道指令にある「国家神道」を、事実に基づいて定義をした著作は見当たらない。

「国家神道」についての著作で代表的なものは、前述の葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』と村上重良『国家神道』である。あとはこの2冊の系統本かこれらに対する批判本しか見つけられない。そして「国家神道」の正体を、事実に基づいて明確に説明できた著作は1冊も存在しない。

 村上重良『国家神道』に次の文章がある。

「国家神道は、近代天皇制の国家権力の宗教的基礎であり、国家神道の教義は、帝国憲法と教育勅語によって完成した」

 伊藤博文『憲法義解』のどこを読んでも、「国家神道」の教義をもとに帝国憲法が制定された、とは書いていない。また教育勅語は、徳育に関する明治天皇のお言葉であって、草案作成者井上毅のいわゆる起草七原則にも、「国家神道」の教義は出てこない。そして少なくとも大日本帝国憲法や教育勅語の制定された明治22、23年までに、国家神道の教義があった、とする事実に基づく著作は発表されていない。


◇4 成果が上がらない「国家神道」研究

「ファシズムの時期における国家神道の軍事的侵略的教義の展開は、国家神道の本質の顕在化であった」(村上)

「国家神道」の軍事的侵略的教義について、その所在は示されていない。民間の思想家に軍事的侵略的教義を語る者はいたかもしれない。しかしそれと国家とは関係ない。また神道と軍事的侵略的教義の関係も見出せない。村上重良『国家神道』は事実に基づかない言説に満ちている。

 だが、たしかに文部省『国体の本義』には現御神(明神)・現人神としての天皇が述べられている。この神がかり的な文章をどう解読すれば良いのだろうか?

 明治維新から終戦までの我が国の神社行政を研究した著作はあるが、GHQ神道指令にいう「国家神道」の研究とは違うようである。いわば我が国の近現代神社行政史ともいうべきものである。「国家神道」という項目はあっても、ここから神道指令の「国家神道」を解明することには、どの著作も成功していない。

 また、葦津珍彦や村上重良らの著作を批判したものも出版されているが、論を論じたものがほとんどで、神道指令にいう「国家神道」の正体は、一向に明らかにされていない。

 我が国では、日本国憲法第20条と第89条を政教分離条項などとして、不毛な議論をしているのが実態である。その基となった神道指令の国家神道を明らかにせずして、まともな議論ができるはずはない。

 いったいなぜ、これほど永く国家神道研究の成果があがらなかったのだろうか?


◇5 事実を誤る「靖国訴訟」判決

 平成16年4月7日、福岡地方裁判所は、国および小泉純一郎総理大臣を被告とする、いわゆる靖国訴訟において、その判決を言い渡した。この判決文にはいくつかの疑問がある、と言わざるを得ない。

 判決文の認定事実、「靖国神社の沿革および性格」には次のような文章がある。

「(オ)国家神道に対しては事実上、国教的な地位が与えられ、キリスト教系の学校生徒が神社に参拝することを事実上強制されるなど、他の宗教に対する迫害が加えられた」

 文中に「事実上」とあるのは、法令上には無いということを自覚している、と読んでよいだろう。前述のように、専門家でも「国家神道」を特定する法令は見つけられないはずである。「事実上」の意味は、法を拡大解釈した現場担当役人による個別の過剰行為等を指している、としか思えない。それらの行為から国家神道の概念を語ることは、聞く者に誤解を生じさせるだろう。

 帝国憲法第28条「日本国民は安寧秩序を妨げず、および臣民たるの義務に背かざる限において、信教の自由を有す」を、「条件付き」というのは度が過ぎる。安寧秩序を妨げても良い、とするなら条項は必要ない。

 この文章は事実に基づかず、誤った国家神道本で得た知識の上に立ったものである。国家神道を定義するなら、法令・教義等を明らかにすべきである。


◇6 国は「国家神道」概念を認めている?

「(カ)昭和21年2月2日には、神祇院官制をはじめ、神社関係の全法令が廃止され、国家神道は制度上も消滅し、……靖国神社は……単立の宗教法人となった」

 この文章についても同様である。

 神祇院を設置し、神官職の督励を目指した神祇院官制は昭和15年のことである。そしてその神祇院は『官国幣社特殊神事調』『神社本義』等を発行したが、他にはさしたる成果もないまま廃止となったことは周知の事実である。

 この昭和15年の法令のみをもって、「国家神道」云々、は無理がある。葦津珍彦のいうとおり、神祇院は非宗教である。また、「国家神道は制度上も消滅」したというなら、その制度を少なくとも明治以降の法令上の事実を根拠として語るべきだろう。

 原告らの主張はともかく、被告らがこれらのことについて一つも反論していないことに疑問が残る。つまり国が、この事実に立脚しない「国家神道」の概念を認めているということになるからである。

 認定事実に誤りがあれば、この判決は有効とは言えないものとなる。訴えた者、訴えられた者、そして裁く者の言い分すべてが事実に立脚していないとしたら、この判決は無効となってもおかしくないものである。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。

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三種の神器こそ神道の教義にふさわしい(素人神道感)

私は、一般には天皇家の統治権の象徴と見られているいわゆる三種の神器こそ、言葉ではなく、物に託された、神道のすばらしい教義だと感じています。

それは、政治的な意味と同時に、人が一般的に備えるべき精神的・倫理的価値を見事に象徴的に表しているように思えます。

物による象徴であるだけに、言葉では表しきれないような、広くて深い意味にとることができるように感じるのです。

ここでは、政治的意味についてはさておき、三種の神器(玉、剣、鏡)の指し示す宗教的・精神的に価値について、言葉による冗長さを敢えて我慢して、私の感じるところを表現するならば、

玉:愛、情熱、喜び、感謝など、人としての生きるうえでの目的となるべき精神的核の象徴です。

剣:必要な行動を果敢行い、戦い、苦難などを厭わず、自分から向かっていく勇気と行動力の象徴です。

鏡:事象・他人・自分自身を正直・素直に見つめ、理解し、行動に反映すべき曇りのない知性の象徴です。

行動指針や、倫理項目を数箇条にまとめることは、「十戒」や「八正道」など教義があるとされる宗教では普通のことですが、これほど簡素で、誰の目にもわかりやすい教義はないのでは、ないでしょうか?

3つにまとめた抽象度の高さを、物によって象徴的に表現することによって、思考というフィルタを通さず、直に心に訴えてくるという点で、他に類を見ないすばらしい教義だと、いつも感動するのです。

2010.03.07  Nick  編集

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