老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」vol.116 をお届けします。

靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第2回 宗教的儀式に対する憲法の立場
「国家神道」異聞 by 佐藤雉鳴
    第2回 GHQの国家神道観 
上記2編も加わっていますので少し長文ですが一括して転記します。


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 まずお知らせです。1日発売の「THEMIS」2月号に、「中国は『皇太子ご夫妻&小和田家』懐柔に動く」という記事が載っています。私のコメントも取り上げられています。お買い求めのうえ、お読みいただければありがたいです。
http://www.e-themis.net/

 さて、天皇の祈りを中核とする日本の多神教的、多宗教的文明には、(1)主体性を見失いがちである、(2)一神教文明に対する抵抗力が弱い、という2つの短所があり、奇しくもこの2つが同居しているのが「小鳩」政権で、先週はこのうち、一神教的な憲法論に同化している小沢一郎幹事長の「豪腕」についてお話ししました。

 今週は鳩山由紀夫首相の「友愛」についてお話しします。前号メルマガの最後に、ごく簡単に申し上げたように、首相の「友愛」は、その原点といわれる「EUの父」リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の「友愛」とも、祖父・鳩山一郎元首相の「友愛」とも異なると私は考えます。

 国家元首でもない中国国家副主席の「天皇特例会見」を演出したのも、普天間基地移設問題をめぐって混乱を重ね、日米関係を最大の危機に陥らせている原因もそこにある、と私は思います。

 キーワードは共産主義、もしくは共産党独裁に対する現実的感覚の欠落です。その点、鳩山由紀夫首相が昨秋、北京で温家宝首相と会談し、「東シナ海を『友愛の海』にしよう」と呼びかけたのは、きわめて象徴的だと考えます。


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 1 「EUの父」と似て非なり by 斎藤吉久
   ──鳩山首相の「友愛」を考える その1
 2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第2回 宗教的儀式に対する憲法の立場
 3 「国家神道」異聞 by 佐藤雉鳴
    第2回 GHQの国家神道観 
 4 お知らせとお願い
 5 お勧めメルマガ&ブログ
 6 筆者のプロフィール


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 1 「EUの父」と似て非なり by 斎藤吉久
   ──鳩山首相の「友愛」を考える その1
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▽1 クーデンホーフ=カレルギーを鳩山一郎が翻訳

 鳩山由起夫首相の「友愛」は直接的には、祖父である鳩山一郎元首相の政治哲学を引き継いでいます。

「友愛社会の実現」を目的とする日本友愛青年協会なる財団法人があります。鳩山一郎元首相の唱えた「友愛」を基調に、次代を創る青年の育成を目的として、昭和28年に創設された友愛青年同志会を母体としています。
http://www.yuaiyouth.or.jp/index.html

 現在の代表者は鳩山由紀夫理事長(休職中)その人です。名誉会長は首相の母安子氏、副理事長には鳩山邦夫元総務相と長姉・井上和子氏の2人の名前が並んでいます。興味深いことに、協会の主な活動には日中友好事業が含まれ、100億円のいわゆる小渕基金から助成を受けて、植林訪中団を毎年派遣しているようです。

 さはさりながら、「友愛」は鳩山一郎元首相の独創ではありません。

 ほかならぬ協会のホームページに説明されているように、昭和27年に、鳩山一郎氏が汎ヨーロッパ運動の主宰者であるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書から発想を得たのが最初です。

 鳩山由紀夫首相は「Voice」昨年9月号に掲載された「私の政治哲学」で、「祖父鳩山一郎が、クーデンホフ・カレルギーの著書を翻訳して出版したとき、このフラタナティを博愛ではなくて友愛と訳した。それは柔弱どころか、革命の旗印ともなった戦闘的概念なのである」と解説しています。
http://www.hatoyama.gr.jp/masscomm/090810.html#header


▽2 日本女性を母に、東京で生まれた

 汎ヨーロッパ運動が評価され、再三、ノーベル平和賞候補に挙げられたというリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯は、日清戦争のさなかの明治27(1894)年、東京で生まれました。

 父親のハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーはオーストリア伯爵で、外交官でした。東京駐在公使のおり、見初めたのが光子(旧姓青山)で、2人は結婚します。リヒャルトは次男で、日本名をエイジロウといいました。

 夫ハインリヒが母国に帰国するとき、光子は昭憲皇太后の拝謁をたまわり、「外国に嫁いでも日本婦人たることを忘れぬように」とお言葉を得たことを、生涯、肝に銘じたといわれます。

 日本人の母を持ち、日本で生まれたことが、リヒャルトの汎ヨーロッパ運動に少なからぬ影響を与えたことは十分、想像されます。

 興味深いのは、鳩山一郎がリヒャルトに関心を持つはるか以前、俗に「右翼の総帥」といわれる頭山満がリヒャルトの存在に注目していたことです。

 クーデンホーフ・カレルギー全集第1巻の巻頭にある木村毅の解説によれば、支那事変(日中戦争)が泥沼化していたころ、作家たちとともに従軍した木村は、軍の依頼を受け、占領地・漢口の放送局で、重慶に向けた和平提案のマイクの前に立ったといいます。


▽3 頭山満「大アジア主義」との共通性

 しばらくして、「不思議な反応」があらわれます。重慶ではなく、日本の内地から、頭山の使者なる人物が漢口に飛んできました。「この際、クーデンホーフ・カレルギーを呼んできて、アジア共同体の提案を重慶させたらどうか?」。文学者の木村毅は「奇抜な案に驚いた」と回想しています。

 しかし、なんら驚くには値しません。敗戦後、占領軍は頭山らの玄洋社を「侵略戦争推進団体」と決めつけて解散させ、戦後のアカデミズムやジャーナリズムは頭山を敬遠してきましたが、近年、歴史の封印が解かれ、頭山が孫文などアジアの革命家を支援していたことが一般に知られるようになっています。
http://homepage.mac.com/saito_sy/war/JSH180417toyama.html

 右翼人士こそ「侵略戦争」推進の張本人だ、といまなお信じ込んでいる人たちには意外かもしれませんが、昭和13年当時、香港を舞台とした朝日新聞による日中和平工作の背後には民族派の存在がありました。上海戦線での軍の暴走を食い止めようとしたのも彼らでした。
http://homepage.mac.com/saito_sy/war/H1002asahi.html

 それどころか、リヒャルトの汎ヨーロッパ運動は頭山の大アジア主義と通じるものがあります。

 木村毅が解説するように、リヒャルトは、日本帝国が勃興し、日露戦争に勝利したことがアジア解放の一大転機になった。ヨーロッパ諸国が身勝手にも、アジアを植民地支配の対象としか見なかったときに、日本という一大国家が誕生したうえに、ヨーロッパのアジア植民地より大きな勢力を築いた。こうして白人による世界支配は打破された──と考えていました。


▽4 「全体主義国家の黎明は消えた」

 戦前から自由主義者、反共主義者として知られていた鳩山一郎がリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの思想に感銘したのは、『自由と人生』(原題は『全体的人間対全体主義的国家』)の最終章にかかげられた友愛思想と友愛革命の提唱に対してだったといわれます。

 戦後、公職追放の境遇にあった鳩山一郎はリヒャルトの英訳本と出会い、翻訳し、『自由と人生』と題して、27年に出版しました。その際、英語の「fraternity」を「友愛」と訳したのでした。翌年には友愛青年同志会が結成されます。

『自由と人生』の最終章「友愛革命」は、次のような文章で始まっています。

「全体主義国家を克服するに必要な第一歩は、ボルシェヴィズムの全敗と、階級闘争の破産というかたちで開けてきた。
 この事実はいまだ大衆の意識に浸透してはいない。しかれども真理は自然にその道をひらくものだ。その進行は、虚構や宣伝によって妨害することはできても、結局、それを停止することはできない」

 また次のような文章もあります。

「ファシズム誕生が、ボルシェヴィズムの誕生につづいたように、ファシズムの最後が、ボルシェヴィズムの最後に続いて到来するであろう。しかしてそれはまさしくその使命を完遂するであろう。全体主義国家の黎明は消えた。そしてやはり全体主義的人間の曙も終わるのである」

 前述した鳩山由起夫首相の説明にあるように、「友愛」はきわめて「戦闘的」です。


▽5 共産主義と妥協した鳩山一郎

 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが「友愛革命」で戦いを挑んだのは、いうまでもなく、全体主義に対してです。

 鳩山一郎が「友愛」に注目したのも、そこにあるのでしょう。鳩山の「訳者の言葉」には次のような文章が見いだせます。

「民主主義と共産主義とは妥協協調できるであろうか。…(中略)…中国では国民党と中共が、死か生かの決戦態勢をとることとなり、また欧州では、欧州復興会議その他において円満に解決を見ざる事実が頻発するを見ると、客観的情勢は民主主義と共産主義とが、果たして妥協できるかどうか怪しくなってきたと思う」

 自由主義、民主主義の精神を理解し、実行するために、『自由と人生』を翻訳したと鳩山は説明しています。

 また友愛青年同志会の綱領には次のように書いてあります。

「われわれは自由主義の旗のもとに友愛革命に挺身し、左右両翼の極端なる思想を排除して、健全明朗なる民主社会の実現と自主独立の文化国家の建設に邁進する」

 しかし、29年暮れに首相となった鳩山は31年秋、モスクワに飛び、ブルガーニン首相との日ソ共同宣言に署名します。鳩山一郎は「友愛」の戦闘精神を失い、共産主義と妥協したのです。リヒャルトとの決定的な違いです。

 およそ10年後の42年、リヒャルトは来日し、次のように講演しました。

「中国において共産主義は、キリスト教がついに打ち克ち得なかった2000年以上の歴史を持つ儒教の哲学と伝統を、10数年の短い間に破壊征服してしまった。中国がその偉大な伝統と精神を捨て去った今日、日本は神道、仏教、儒教などの東洋の精神が失われていない唯一の国、ヨーロッパ文明と東方文化を融合して両者の架け橋となり得る唯一の国であり、日本こそ人類の将来を託するに足る大きな希望の国である」

 このように日本の価値を高く評価する一方で、リヒャルトは警告を忘れませんでした。

「現代の日本が直面している危険は、第3次世界大戦や共産主義の脅威のほかに、日本自身が物質的な繁栄を謳歌しているあいだにその魂を失うことであり、国民的伝統を捨てて、西欧の物質的文明国家に変貌して、ある点で西欧文化に優っている文化的価値を失うにいたることである」


▽6 中国共産党の独裁が見えない

 リヒャルトの汎ヨーロッパ主義は今日のEU構想の先駆けとなりました。しかし欧州統合を深化させた大きな要因として忘れてはならないのは、リヒャルトが戦闘の対象とした共産主義の崩壊です。

 鳩山由起夫首相の「私の政治哲学」によると、この冷戦の終わりこそ、鳩山首相に自民党の歴史的役割の終焉を痛感させ、祖父一郎が創設した自民党を離党させ、やがて民主党を結成させるきっかけとなったようです。

 鳩山首相は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーや鳩山一郎が対峙した全体主義国家が終焉した。したがって「友愛」精神を「自立と共生の原理」と再定義したのだ、と説明しています。首相の「アジア共同体」構想もそこから導かれ、あまつさえ夢物語のようなアジア共通通貨の実現さえ提唱されています。

 しかし鳩山首相は肝心なことを忘れています。ヨーロッパではたしかに共産主義は崩壊しましたが、アジアではリヒャルトが懸念した中国共産党の独裁がつづいています。鳩山一郎はまだしもスターリンという存在が見えていたのに、鳩山由起夫首相は、マルクス主義がグローバリズムとともに頓挫した、と断定しています。共産党独裁がその視野から消えているのです。

「東シナ海を『友愛の海』に」と主体性もなくすり寄る提案は、全体主義国家と対峙し、「日本よ、ヨーロッパと東洋の架け橋になれ」と訴えた、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの「友愛」とは、もはやまったくの別物といわねばなりません。

 首相は、「友愛」は「愛」(love)とは違い、柔弱ではない、と「私の政治哲学」に強調していますが、柔弱どころか危険な臭いが濃厚です。


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 2 靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第2回 宗教的儀式に対する憲法の立場
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[1]憲法を読まないのが混乱の原因

 やや文章が唐突に流れて文の流れを混乱させるかもしれないが、靖国神社や戦没者追悼式、無宗教儀式などの出たついでに、日常はこんな問題にはあまりかかわっていない人にも理解しやすいように、ちょっとこの役人の作りだした儀式が混乱を生む元凶と一般ではされている戦後の憲法(日本国憲法)解釈に目を転じてみよう。

 じつは私は、いまの憲法に対しては、その成立の歴史などを見て否定的な立場であり、自主憲法の制定を強く望む一人である。

 なんで国際法で禁じられているのに、米軍にもっとも大事な憲法まで、違法に命令されて変更させられなければならなかったのか。

 そんな国のプライドを傷つけられた無念さが、この憲法がある限り消え去らない。

 だが、そんな立場の私から見ても、いまの靖国神社をめぐる混乱は、憲法そのものの規定に混乱のもとがあるのではなく、日本人が憲法をまともに読まないから混乱が起きているのだ、と言わざるを得ないと思っている。

 日本にはお互いに排他的な激しさを持つ深刻な宗教対立の悲劇はあまり起きなかった。

 そのため明確な宗教や宗教儀式、宗教活動というものの確たる概念も定まらぬまま、また宗教そのものをどう解釈すればよいのかの知識も、ただ本を流し読みにしただけでわかったような気になって、地についた世界での常識的な法の解釈もできないでいままで来た。


[2]円滑な国民生活こそ第一

 宗教という信仰的なものに関して「井の中の蛙」のまま、世界の中では非常識である門外漢の官民が、挙げてのこの条文に対して空想的な解釈をして、その結果が日本に無用の混乱と紛糾を生む結果となっているのだと、私は思っている。

 とくに宗教問題を扱うべき役人や、司法に当たる裁判官、法案作成を手伝う役人などの解釈は、宗教をまったく理解しているとは思えないひどいものだ。

 日本国の公務員だ。当然、第一に、日本国民の国民生活が円滑に滞りなく進むように、不断にこころがけるべき義務を彼らは負っている。

 だから国の立法府・司法・行政府などの各機関の関係者は、日本の憲法条文を解釈するに際しても、日本の社会をよく眺めて、国民が円滑に日常生活を営めるように解釈し運用すべき義務があると思う。

 残念ながら日本の現憲法は日本人が作ったものではない。

 この憲法の基本条文は占領軍の作った英文のものであり、それを米軍から和文に直して使用するように政府が押し付けられたものだということは、占領史を少しでも学んだ者にとっては常識となっている。

 だが、それにはそれであっても、いまの憲法には、西欧的な合理精神や知識を生かした条文も随所に取り込まれているのだ。


[3]靴に合わせて足を切る論の横行

 それを常識的に読み取らずにおかしな解釈をして、まるでその解釈を押し通すために国民生活を曲げようとするような方法、例を挙げるならば国民生活という足に合わない小さな靴を、無理やりはかせようとするような憲法の条文の解釈が横行し、「靴(憲法解釈)に合わなければ、足(国民生活)を切るか削ればよい」と言わんばかりの論が横行している。

 憲法が何のためにあるのか、そんな基本さえも理解せず、意味もない無謀な観念の押し付けが随所に横行して国民を悩ませている。

 官僚たちのこの種の頑なな解釈論は、素直に憲法を条文で読むのではなく、日本が戦争に負けて占領されている時期に、進駐軍の出した占領政策(この場合は神道指令など)の精神を基本にして解釈するところから生じていると言わねばなるまい。占領軍は日本の精神構造を変えるために徹底的な洗脳作戦を行った。その洗脳がいまだに残っている。

 占領軍の洗脳は、反対しそうなものは公職から追放し、マスコミや教育制度などを独占した上で強行した強力なものだった。その徹底的洗脳工作のため、頭がすっかり影響されてしまった大量の国民が生まれ、60年以上たったいまでも、日本に大きな混乱を生みだしている。

 いま注目する宗教条項とされる20条解釈などはそのもっとも代表的な例である。

 いまの日本はもう、占領下で占領軍の命令や宣伝に忠実に従わなければならない米国軍の支配に隷属せねばならない時代ではなくなっている。

 政治や立法や司法は、知らず知らずに身につけてしまったその影響を、頭を冷やして冷静に排除して、主権者である国民のために政治を心がけてもらいたいものだ。


[4]憲法20条の政教分離規定

 日本国憲法にはその20条に次のような規定が設けられている

 第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
 2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 じつに明瞭に解釈しやすい形で条文が示されている。分類すると、

 〈1〉「信教の自由」を、全国民に保障する

 〈2〉「宗教団体」が、国から特権を受けることや政治上の権力行使の禁止する

 〈3〉「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事」に、参加を強制することを禁止する

 〈4〉「宗教的活動や宗教教育」を、国やその機関がすることを禁止する

 と、それぞれの概念に分けてはっきりした規定をしている。

 いわゆる法学の世界でいう「政教分離」の規定だが、日本人には、その規定の必要が、国民各層に痛切に感じられた歴史経験が過去に少なかったために、「ああそうなっているのか」と思われる程度以上の緊張感もなく受け取られている感がする。


[5]西欧諸国が体験した宗教抗争の悲劇

 政教分離の原則が憲法上の大切な基本原理として出来上がる背景には、宗教教派間の争いなどで、過去に西欧諸国などが身をもって経験してきた苦々しい体験が基礎にある。

 国家権力である世俗の政治権力と、ある一つの教派が結びついて、他の教派に属する人々の弾圧に動き、その結果、あるいはこれに反抗する連中との騒動によって、何百万、何千万人もの人が殺され、あるいは弾圧され追放される悲劇が、過去に多くの国で発生した。

 西欧のひどい国では、何割もの人口がこれによって殺されてしまった。宗教を世俗の争いに持ち込むことの恐ろしさは、世界ニュースなどをこの観点で眺めれば、いまの人にも容易に理解ができるだろう。

 その争いの苦悩の中から、この憲法に定めた一つ一つの条項が、世俗国家を宗教が支配してはならない、国民の心の中の信仰の世界にまで、国が土足で踏み込むことがあってはならない、という規制が成立したといういきさつが政教分離の根本となっている。

 この原則は、19世紀の時代までは、国民一人一人の自由な宗教信仰を弾圧してはならない、と保護するもので、無宗教や反宗教は、国民生活を乱すものとして、それまでを保護するものにはされていなかった。当時の人々はほとんどが神を信ずる生活をしていたし、信仰は人々の生活になくてはならないものと思われていた。

 そんな宗教信仰そのものを否定するものは、文化を否定する危険な連中であり、人類共通の敵だと思われていたのだ。


[6]世俗国家は宗教に関与せず

 しかし二十世紀になってから、宗教信仰も、政治思想やイデオロギーなどと同列に論ずべきだとする法概念が一般的になってきて、いままでは除外されてきた、「宗教を信じない自由」、あるいは「否定する共産主義や無政府主義などの無神論」者にも適用されるように解釈は拡大された。

 その精神は、一つの教派を「国教」と定めて運営されている国教制度を採用している国においても、国民のために、全部ではないが、かなりの部分が取り入れられるようになってきている。いまでは国の国民の権利を定める大原則だ。

 日本の憲法の条文を素直に読めば、日本は国民一人一人の心の中にある宗教心は大切なものだが、国などの公共的な機関は、それを国民の間にあるがままにまかせて干渉せず、特定の宗教教団に、その教団であることを理由にしての特権も与えてはならない。

 宗教の問題は、世俗国家の関与する次元とは別問題のことだという態度に終始することを求めている、と読むのが自然である。

 国や公共機関の取る態度は、これ以上でもこれ以下であってもならない。

 国民は一人一人が自由な信仰を持ち、自由に暮らすことが望ましい。

 宗教的精神生活は、国民生活に潤いを与える。

 世俗国家では満たされないものを、宗教信仰は埋めてくれる働きがある。

 しかし自由な信仰の状態を、国の力で故意に変えるような助成ないしは圧迫をすると、国民内にいろいろある宗教教派のバランスに対する国の干渉となる虞もあり、また西欧の過去の時代に逆戻りするような可能性もあるからだ。


[7]参加を強制しない

 しかし、こんな多様な信仰をもつ人々が構成する国であるから、国が行為や祝典、儀式、行事などを行うときには、それが民間で行われている国内の常識に従って、国がそれらを宗教と関わりのある形で、みずから主催することもあるだろう。

 それを禁止したのでは国民の宗教環境に悪影響を及ぼす。反対の意味での宗教的活動にもつながる。

 そんな場合はむしろ、あるがままの宗教的環境は国なども大事にするほうが望ましい。

 しかしそんなときでも、国民の信仰は多様だし、その儀式などに参加したくない人も出るだろうから、国は決して参加を強制してはならない。

 宗教的に、一般的だとどの教派の儀式をおこなっても、あるいは無宗教という役人の考え出した新宗教のかたちで行っても、多様な国民の中には、どんなかたちであっても、必ず違和感を持つ者は出てくる。

 そんな場合には、(民主主義だから多数者の慣習は大事にしながら)、せめて彼ら(これに不快感を持つ少数者に)に参加を強制しないという、少数者に対する配慮だけは残しておかなければいけない。

 そう言っているのが憲法の規定なのだ。

 憲法はさらに求める。

 国が行う教育などは、国民の中にある各種の宗教信仰がどんなものであるかを知識として教えるところまでは、国民として生活する上の大切な知識であるから認めても、国などの公教育が、特定のある教団の教えが望ましいから、その信者になれとか、あるいは、あの教団に入るな、などの宗教教育・反宗教教育(これはどちらも作用としては同じ宗教的活動として、いまはとらえられている)は行ってはならないと戒めている。


[8]諸外国の解釈もほとんど変わらない。

 諸外国でも、この「信教の自由と政教分離の解釈」は、私が説明したような解釈の下で、至極当然のこととして実行されている。

 西欧諸国など、キリスト教徒が多く、もしくはキリスト教が国に大きな影響力を持つ国では、国の儀式は多数の属するキリスト教のある教派か、あるいはそれらの共通するキリスト教各派共通の国内常識を取り入れるようなかたちで儀式などは行われる。

 タイやアジア諸国のような仏教国では、仏教式で行われることが多いし、その他のイスラム教などの諸国でも、多くはこの考え方を採用して儀式を行っている。

 一方、共産主義など無神論である唯物史観思想が国の政権を持っている国々では、いまの日本のような、神の存在をなるべく無視した形で儀式が行われる。

 このように当たり前の見方で憲法を眺めれば、日本に馬鹿らしい「無宗教儀式」などというものが出てこなければならない理由はない。

 日本は伝統的に国民の間では葬儀や法会、橋やトンネルなどの開通式、供養、年祭などの大半を仏教各派の儀式によって行い、結婚式や地鎮祭、上棟式、公的儀式や式典などの大半を明治以降は神道儀式を主として行ってきた。

 そのほかに長崎など、キリスト教の儀式で行ってきたところもあるが、そのあるがままの実情を眺めて、ことさらに違和感をもたらすことのないように実施すればよいだけである。

 ただその場合、気をつけなければならないのは、それでも違和感を感ずる人に対しての救済策だ。

 たとえそれが少数者であっても、国は決して参加を強制してはならない。多数の者は自然に日常的に儀式が行えるように配慮する。

 ただ少数者には、それを彼らに合わせてすることは多くの国民に違和感を持たせるのでできないが、せめてむりに参加を求めない。もっとも現状に合う原則なのだ。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。


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 3 「国家神道」異聞 by 佐藤雉鳴
    第2回 GHQの国家神道観
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◇1 D・C・ホルトムが与えた影響

 GHQの国家神道観は、D・C・ホルトム『日本と天皇と神道』(昭和25年)、W・P・ウッダード『天皇と神道』(昭和63年)が参考になる。

 まず『日本と天皇と神道』を読んでみよう。

 ──他国の国民、とくにいまや急速に日本の制圧と威力の支配の下に狩り立てられている極東諸国の国民にとって何よりも意味深いことは、この宗教的祭祀が神から授かった使命を担うという気持ちをもっていることである。これが国家神道である

 ホルトムのこの著作は、昭和25年に日本語訳として出版されたものである。そしてこの本の主要な部分を占める原著は、昭和18年に出版されていたとある。GHQへの影響力はもっとも大きい著作だったはずである。

 ただ、ホルトムが日本国家主義というものと神道をない交ぜにしていることはやむを得ないだろう。今日に至っても整理のついていない事柄だから、この時点で「国家神道」を読み解くことは至難の業である。

 ──すなわち彼らによれば、万世一系の皇室は神より出たものであるとの歴史的事実と、神に祀られている祖宗の霊が、国家と臣民とに永劫(えいごう)に変らぬ加護を垂れていることと、日本国民が比類なきその国民生活を他の国の人々にも施し、かようにして世界の民を救うという神聖な使命を担っていることの自覚とが、日本国家主義の本質的な基礎だというのである

 著作中のかずかずの引用文は、名前が違うだけでその内容はほとんど同じものである。そして必ずしも良質な言説とはいえないものが多いのである。ただ、大正から昭和戦前の言説を集めれば、上記のような文章にはなるだろう。皮相的にはこのとおり、といっても良い。しかし「世界の民を救うという神聖な使命」はどこから来たのだろう。


◇2 加藤玄智の謬論を疑いもなく引用

 ホルトムの研究に与えた加藤玄智らの影響は小さくない。その加藤玄智の『我が国体と神道』から、「天皇は昔から「あきつ神」(眼に見える神)、「あらひと神」(人間の姿をした神)および「あらみ神」(人間の姿をした大神)と呼ばれて来た」という説を何の疑いもなく引用している。

 当サイトの「人間宣言異聞」にも述べたところであるが、この加藤玄智の説は謬論である。現在確認できるものでは、明治26年発行、久米幹文著『続日本紀宣命略解』あたりから、現御神=天皇、という説が出てくるのである。本居宣長『続紀歴朝詔詞解』を解読できず、宣命(せんみょう)にある「現御神止(あきつみかみと)」の「止(と)」の意味が説明できなくなってしまったのである。

 原因は「しらす」という天皇統治の妙(たえ)なる日本語の意味が分からなくなったことにあることは、同じく「人間宣言異聞」に述べたところである。加藤玄智の「あきつ神」論は事実に基づいていない。

 ──まことに、日本の国体は世界に冠たる強みと優秀さとを持つ、との主張は、その当然の帰結として、日本国民以外の国民は、日本の勢力の下に置かれてこそ、はじめて恵まれた国民となる、との思想が生まれて来なければならないわけである

 帝国主義の時代にあって、勢力拡大の途上にある国家なら上記のようなことも語られるだろう。宗教的なことに関係なく議論されるものである。しかし当時の我が国の言説の多くに、「神がかり」的な文言が氾濫している。日本の急激な版図拡大の基にある精神力の出所は気になるところだろう。


◇3 教育勅語は儒教主義ではない

 ──この国家主義を再確認した聖典は教育勅語であって、これはあらゆる点から考えて、近代日本の歴史の生んだもっとも有名で重要な文書である

 さすがに知識人の皮相的な言説を集めただけでも、教育勅語に行きつくのは当然といえば当然である。文部省『国体の本義』は昭和12年であって、ここに至るまでの文書では教育勅語が気になるということは間違っていない。大日本帝国憲法に「世界の民を救うという神聖な使命」は述べられていないから、残るは教育勅語となるのだろう。

 ホルトムの教育勅語に対する見方は専門性を欠いている、と言わざるを得ない。教育勅語の官定解釈あるいは公定註釈書といわれた井上哲次郎『勅語衍義』が正しく教育勅語を解説できなかったことは、当サイト「教育勅語異聞」に述べたところである。

 教育勅語渙発時の文部大臣は芳川顕正であり、『勅語衍義(えんぎ)』には叙を寄せている。その芳川顕正の「教育勅語は四つの徳を基としている。仁義忠孝がこれである」を引用して、教育勅語を儒教を手本とした道徳と読み解いているのである。

 教育勅語が儒教主義などではないことは、教育勅語草案作成者である井上毅「梧陰存稿」にある。『勅語衍義』は明治天皇がその稿本にご不満であり、修正もされないまま、井上哲次郎の私著として出版されたものである。そして井上毅は文部大臣として『勅語衍義』を小学校修身書「検定不許」としたのである。仔細は「教育勅語異聞」にある。


◇4 天皇主権親授説という誤解

 『日本と天皇と神道』には見落とせない文章がある。

 ──もっとも日本の儒教には一大修正が加えられた。儒教は元来無能な統治者を追い出し、人民の選択によって新しい統治者を迎えることを認めている。ところが、天皇主権神授説を基礎とする日本の国体は、この儒教の教をもって天皇に対する叛逆(はんぎゃく)および神性の冒涜(ぼうとく)なりと断ずるとともに、侵すべからざる、また他をもって変えることのできない万世一系の天皇をもって、国家の中枢機関と定めている。

 支那の易姓革命と我が国の万世一系との比較から、「日本の儒教には一大修正が加えられた」というのである。この文章は幾重にも誤解が重なっているので分かりにくい。芳川顕正は教育勅語の内容を徳目のみととらえて、仁義忠孝を語っているのである。しかし教育勅語は徳目だけではない。「しらす」という意義の君徳がはじめに語られているのである。また仁義忠孝などは儒教の占有物にあらず、は井上毅の述べたところである。

 天皇主権神授説というのも誤りである。大日本帝国憲法に「主権」の文字はなく、神授説も我が国には存在しない。

「かの神勅のしるし有て、現に違はせ給はざるを以て、古伝説の、虚偽ならざることをも知べく」(本居宣長『玉くしげ』)とあるように、歴史を顧みるとまったくその通りだと思わざるを得ない古伝説がある、ということなのである。また古事記のような古伝説は、誰かが言い出したものではなく、したがって恣意性もないものである。

 教育勅語が儒教に基づくという誤り、天皇主権神授説という誤解、これらはホルトムだけではない。ホルトムが参考にした我が国著作の執筆者たちが、そもそも教育勅語を正しく解釈できなかったのである。


◇5 教育勅語を誤解していた日本の知識人

 そして教育勅語の「我が皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること宏遠に」について、皇祖は初代天皇以前の祖先と神武天皇を指し、皇宗とは第二代から今上天皇までを指すとしている。このことから天照大神に直接触れているとし、それが教育勅語に宗教的文書としての性格を与えるものであり、そのため教育勅語は国家神道の主要な聖典となるのだと述べている。

 皇祖皇宗について、井上毅は「梧陰存稿」において、明確に皇祖を神武天皇とし、皇宗を第二代から先帝まで、としている。天照大神は「天しらす神」であり、「国しらす神」ではないということである。

「梧陰存稿」は明治28年に出版されているが、ホルトムは参考にしていなかっただろう。したがってホルトムはじつのところ、教育勅語がどういうものか理解していなかったと思われる。ただ、加藤弘之や井上哲次郎らのいわゆる国家主義者たちによるキリスト教と教育勅語は相容れないものだとする議論から、教育勅語を捉えていた感がある。

 ホルトムが日本国家主義をより分かりやすく把握し、教育勅語を重要視せざるを得なくなった基には、文部省『国体の本義』があるだろう。「惟神の国体に醇化」「教育に関する勅語」「皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業」「国体に基づく大道」がはじめに語られている。そしてホルトムは次のように述べているのである。


◇6 文部省『国体の本義』からGHQ神道指令へ

 ──日本文部省は1937年(昭和12年)、『国体の本義』と題するすばらしい本を刊行した。この本はいわゆる精神的基礎という観点から、日本国家を研究したものである。これは日本国家主義の宗教的基礎について、政府自身の古典見解を披瀝(ひれき)したものである。本書はわれわれがいま前に掲げた詔勅よりももっと徹底したものであって、祭祀と政治と教育との間の三重の相互関係を確立するものである

 そうしてホルトムは、日本の著作家たちが挙げている日本国家主義の本質的な基礎として、先に引用した文章を書いたのである。

 論点を整理すると次のとおりである。

 〈1〉万世一系の皇室は神より出たものである、との歴史的事実

 〈2〉祖宗の霊が、国家と臣民とに永劫に変らぬ加護を垂れていること

 〈3〉日本国民が比類なきその国民生活を他の国の人々にも施し、かようにして世界の民を救うという神聖な使命を担っていることの自覚

 これらは神道指令の「日本の支配を、以下に掲ぐる理由のもとに、他国民ないし他国民族に及ぼさんとする日本の使命を擁護し、あるいは正当化する教え、信仰、理論」にある3つの内容にほぼ類似している。

 日本の天皇・国民・領土が特殊なる起源を持つゆえに他国に優るという主義、といったものであるが、これにほぼ等しい。神道指令にいう国家神道は、やはり『日本と天皇と神道』を無視しては解明できない。


◇7 国家神道を定義できなかったGHQ

 ウッダードの『天皇と神道』は、副題に「GHQの宗教政策」とあるように、国家神道なるものを解体しようと実行した当時の経緯をまとめ、昭和47年に出版したものである。しかし、ここに国家神道の具体的定義は見当たらない。

 ──国体のカルトは、政府によって強制された教説(教義)、儀礼および行事のシステムであった。天皇と国家とは一つの不可分な有機的・形而上学的存在であり、天皇は伝統的な宗教的概念が過激派によって宗教的、政治的絶対の地位に転用された、すこぶる特異な意味での「神聖な存在」であるという考え方が、その中心思想になっていた

 この文章で国体のカルトは分からない。儀礼と行事はあっても政府によって強制された教説・教義は見当たらないからである。そして天皇と国家の来歴はもともと神秘的なものである。ここは特別問題になるところではない。「神聖な存在」とは大日本帝国憲法第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」よりは、加藤玄智や『国体の本義』にある、天皇=現御神・現人神からの連想だろう。

 ──それは国民道徳と愛国主義のカルトであって、「民族的優越感を基礎として、新しく調合された民族主義の宗教」であった

 これはホルトムらの言説を包含した見方であって、古来の日本にないものが新たに創造された、と見る考え方である。ただ、過激派が誰で、いつごろ「新しく調合」されたか、は明らかにしていない。

 この『天皇と神道』で理解できることは、GHQの民間情報教育局(CIE)が明確に国家神道を定義することに成功していなかったということである。


◇8 天皇の神格化は残してはならない

 ──ともあれ、11月の末近くに行われた話し合いの際に、明治天皇の「教育勅語」が話題にのぼった。ヘンダーソンが、一方では超国家主義および軍国主義を排除し、また一方では、日本の教育を民主化する責任を担うアメリカ軍の士官としての立場からこの問題をみると、問題は「教育勅語」自体にあるのではなかった。彼個人の意見としては、文書自体は差し支えないものであった

 CIE教育課長のヘンダーソンは、前田多門文部大臣とは旧知の間柄であった。前田多門の教育勅語解釈は『勅語衍義』にほぼ同じである。徳目としか捉えていない。その影響があったのかもしれないが、ヘンダーソンからすると、どう考えても教育勅語はいわば儒教的な倫理綱領である。英語訳を読んでいたとしても、おかしなところは見つけられないだろう。

 ──ヘンダーソンにとって困るのは、学校でのそれの取り扱いかた、とくに大勢の生徒を集めてその前で勅語を奉読する儀式であった。彼は、この儀式が「天皇の神格の教義を教え込む」という意図に出たものであることは疑いないと考えたのである

 日本および日本人が二度とアメリカに立ち向かうことのないよう、軍隊と日本人の精神を解体する必要がある。民主化という名前の下でその解体を行うには、天皇の神格化は残してはならないものだったろう。ホルトムらが国家神道の聖典とした教育勅語は、この観点から問題だとしたのである。


◇9 「神道を宣伝する」という意味

 また『天皇と神道』によれば、CIEの宗教課長であったバンスは、教育勅語について以下のように整理をしていた。

 ──(1)いかなる日本人にあっても、他人に向かって日本が膨張しなければならぬ使命を持つとか、あるいは、〈a〉祖先や家系ないしは独自の起源のために、天皇および国民が比類のない優越性を有し、〈b〉いわゆる神による独自の創造のために日本列島が他の国々よりも優れている、という理由によってその支配を他の諸国および国民におよぼす試みが正当化されると主張することは、愛国心の表現でもなければ天皇あるいは日本国家への奉仕にもならないことを明らかにすること

 これを読む限り特別なものではない。ホルトムや他のスタッフたちの感想をもとにまとめたもののようである。

 ──(2)神道の理論、学説、著述、あるいは教義を根拠として、日本がその他の諸国および諸国民に支配をおよぼす試みを正当化してきた人びと、あるいはそのような使命があると主張した人びと、ないしは歴代の天皇の詔勅、とりわけ1890(明治23)年の「教育勅語」をそのような使命の天皇による裁可の表現だと解釈した人びとは、すべて天皇および日本国家に迷惑をかけたものであることを明らかにすること

 明治の教育勅語に替えて新しい教育勅語という案があったことは周知の事実である。前田多門を父にもつ神谷美恵子の『遍歴』に非常に重要な文章がある。安倍能成文部大臣とダイクCIE局長との対談メモである。

 安倍大臣 新しい教育勅語とはどういうことをお考えなのか。

 ダイク 教育勅語としては、すでに明治大帝のものがあり、これは偉大な文書であると思うが、軍国主義者たちはこれを誤用した。また彼らに誤用されうるような点がこの勅語にはある。たとえば「之を中外に施してもとらず」という句のように、日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝するというふうに、誤り伝えた

 安倍大臣はこれに対し、「之を中外に施してもとらず」の真意を説明できず、「天壌無窮の皇運を扶翼(ふよく)すべし」は問題になり得る、と答えている。しかしダイクはそのことに興味を示していない。

 ここに解明すべきポイントがある。「日本の影響を世界に及ぼす、というような箇所をもって神道を宣伝する」とはどういう意味か。そしてなぜここに神道が出てくるのだろう。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 佐藤さんのご了解を得て、佐藤さんのウェブサイト「教育勅語・国家神道・人間宣言」〈http://www.zb.em-net.ne.jp/~pheasants/index.html〉から転載させていただきました。読者の便宜を考え、適宜、編集を加えています。
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