老兵の独り言

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2011.07.16    編集

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連続しているこの論考には考えさせられ、勉強させていただいています。



  靖国神社とそのあるべき姿 by 葦津泰国
    第6回 国家護持運動後の歪(ゆが)み

[1]祭神を決めるのは誰か?

 靖国神社が昭和53(1978)年10月、東京裁判での刑死者など14人を新たに祭神に加えて合祀したことが、いま、靖国神社を論ずる上で大きな話題になっている。

 この問題に関しては、それを正しいとする者と問題だとする者が対立して、どちらも譲らず、それは解決への糸口も見えぬところにはまり込んで、不毛な対立が続いている。

 私は、東京裁判はもちろん認められるものではない、と信じている。日本をミスリードしてしまった者への責任追及は、外国などのするべきことではないからだ。主権を持つ日本自身が、どう解決するかを判断すべき唯一の権利者である。

 だが、彼らを新しい靖国の英霊と認めるのは新しい判断に属するので、日本に権利があるとしても、しっかり判断する当事者は国民であり国であって、靖国神社の祭神にするか否かも、これまで祭神決定権を行使したことのない靖国神社が独自に判断しうる問題なのか否かには、異論も持っている。

 もちろん、宗教法人であるいまの神社には、合法的にそれを決める法的自由はあるのだが、それを決める権利の実行は、靖国神社に宗教性を付け加え、国家護持への道を遠くすることになりかねない。

 戦後の靖国神社をどうするか、この大切な問題に関して、合祀はのどに刺さった骨のような問題となってしまった。


[2]祭祀制度委員会の委員だった父・珍彦

 少し脱線を許されたい。

 じつは当時、私は全国神社を対象に出している週刊新聞である「神社新報」の編集長をしていて、この問題にも深いかかわりがあり、思い出もある。

 そんなところから、その前後の状況、なぜこんな事態になってしまったのか、に関して解説し、私なりにどう解決を考えたらよいかを、国民にまじめに考えてもらいたい、と考えている。

 前章まででもちょっと触れたが、靖国神社は明治12年に招魂社から「神社」と改称された。戦前は陸海軍省に属する機関で、同じく戦前は旧内務省系の管轄に属した全国神社とは異なるのだが、戦後は神道指令によって宗教法人として存続の道を求めねばならなくなった事情があり、全国神社の集まる「神社本庁」とは仲の良い付き合いもある。

 靖国神社は「全国神社と靖国神社の違いを明瞭にして、一日も早く独立回復後は国家護持を果たしたい」との思いから、神社本庁に参加はせずに、法的には一社独立した存在としてやりながらも、日常においては、いつも連絡を取り合っていた。

 両者はきわめて親しい関係にあり、ときにはお互いに神職の人事の交流も行って、共通の問題などに共に取り組むこともある。

 神社本庁の報道機関として戦後すぐに発足した神社新報も、そんな関係で靖国神社とはきわめて近い間柄にあり、終戦直後に占領政策を先読みして神社本庁を設立、全国神社の存続を図った私の父・葦津珍彦(あしづ・うずひこ。神社新報創立者の一人で元主筆。明治42[1909]年生、平成4年没)は、もう一人の神社本庁からの派遣されたO役員とともに、靖国神社の祭祀制度委員会の委員をも兼ねていた。


[3]手探りの組織運営

 この祭祀制度委員会とはどんな組織だったのか、を説明すると……。

 国家の施設であった時代の靖国神社には、国が定めた英霊をまつり、儀式を行うが、祭神決定権は持っていなかった。戦後、やむなく宗教法人として独立はしたが、独立をしたのちになっても、その軍の施設であった最後のときに行った臨時大招魂祭により、従来の国の祭祀基準に合致する祭神は合祀できる道だけは確保していた。けれども、その他の祭神合祀に関しては決まりも持たなかった。

 そんなままで、外見は独立した宗教法人に法制度上は移ったのだが、その後の新しい事態が起こるたびに、どう対応するか、祭式、催事などの運営にどう対応するかなども、模索しながら進む状況にあった。

 しかも将来は、速やかに国の機関に復古をしたいという思いもある。そんな条件付きでの運営だったのだが、そんな神社の活動していく基本方針を審議するためにはかなりの配慮が必要になる。

 そこで宮司直轄の機関として設けられたのが、この祭祀制度委員会であった。

 靖国神社には宗教法人になってからも、厚生省から新たな祭神名簿は次々に送られてきていた。そのたびに神社では新しく祀る英霊を宮中に報告、陛下の御内覧の後に合祀をしていた。

 それらはかつての管轄であった陸海軍省が、官房の審議室で審査し決定した英霊の条件に従っていた。政府は20年11月の臨時大招魂祭で、調べ残した英霊があることを予想して、それらの霊も合わせて霊を招く祭りを末に実施していた。

 これがあるから、当時の基準を満たすかぎり、祭神のお名前を付け加えることが、いままでとまったく変わらぬ、という解釈の下に、できたのである。


[4]国家護持回復が先決

 だが、昭和41年、厚生省からは先の東京裁判の刑死者並びに拘禁中の刑死者の名簿が届けられた。

 東京裁判が国際法にも違反する裁判の名を借りた報復劇であることは、日本の国会でも認めている。したがって、厚生省では彼らに対して、すでに恩給や年金を支給しているし、少なくとも厚生省の判断からみれば、彼らは先の大東亜戦争により、戦死した殉職者ということになるのだろう。

 厚生省から通知があったことを知り、靖国神社の総代会は、彼らを新たに祭神に合祀すべきだと決議を行った。

 靖国神社が一般の宗教法人なら、ここで合祀の検討に入るところだろう。だが、祭詞制度委員会で合祀延期を提案したのが、葦津珍彦と神社本庁の委員O氏だった。

 その理由はこうである。

 「宗教法人であるいまの靖国神社には、法的には祭神決定の権利がある。しかし、それまでの靖国神社にはそれはなかった。それを取り入れることは、靖国神社の姿を靖国神社の方で以前と変わったものにすることになる。しかも、東京裁判に関してはそれを肯定するような理屈のわからぬ勢力もあり、大きな波紋を招く事態も考えられる。いまの靖国神社は総力を挙げて国家護持を回復し、英霊たちの御霊を慰めるべき時期なのだ。まずは国家護持を実現する運動に取り組み、余計な批判の種になると予想される問題は避けるべきだ」

 これは葦津の意見だった。


[5]前例のない処理をすべきでない

「靖国神社の関係者が、彼らを祭神に加えてほしいと思う気持ちは理解する。しかし彼らは日本国の兵士ではなく、指導者であった。いま、神社は国家護持回復を最大の目標に運動している最中だ。靖国神社に祀られている部下の英霊たちは、一日も早い国の慰霊追悼を受ける日が来るのを待っている。その日が来るまで、あなた方は指導者なのだから待ってください、と東京裁判殉難者に言えば、これらの祭神も我慢してくれるはずだと思う」

 このように葦津は力説して、この件は宮司預かりにして、直ちに合祀はしないことを主張した。

 かくしてこの問題は、葦津らの提案を受けて、宮司預かりとなり、合祀は先送りされることになった。

 葦津珍彦は私の父である。父は、国から預かっている靖国神社は、できるだけそのままの形で国に戻したい、と考えていた。

 祭神決定権は宗教法人の最も大切な基本である。しかし東京裁判のようなケースは、負けたことのない日本の過去の歴史で、経験したことがなかったケースだった。前例はもちろんない。

 戦時中には、今まででも、各地で軍事裁判によりさまざまなケースがあった。いわゆるB、C級とされる裁判の処刑者などは、前例に従ってそれで処理ができた。だが、従来の日本になかった種類の死亡者を靖国神社にまつるのは、神社がいままでの方針を変更して、宗教的機能を発揮することに繋がるものだ。

 この種のものはやはり、祀りたいと思っても、国に神社をお返しして、国が国の方針として決めるのが妥当だ、と考えたのだ。


[6]松平宮司を問い糾したが

 だが、こんな葦津の主張の意図する肝心なところは、靖国神社に充分に伝えることができなかったようだ。それで靖国神社は、その後、混乱に巻き込まれることになった。

 祭神合祀を預かっていた筑波宮司が死亡して、新任宮司に松平永芳氏が就任した。

 宮司が死亡しても、審議のときに同席していた権宮司(ごんぐうじ)は残っている。祭詞制度委員会も存続していた。神社は新任宮司に、どこまで細かく説明し、松平宮司に説明したのかはわからない。

 昭和53年、松平宮司は東京裁判関係者を合祀してしまった。

 私はこのことを知って、父の代理として何度か松平宮司を訪問し、今回の判断が軽率であり、しかも提案者には何の報告もなく実施された。今後に大きな禍根を残す恐れがあると抗議し、あえて判断を変更して合祀に踏み切ったその動機を問うた。

 松平氏は、理屈はよくわかる人だが、父の代理で訪れた私に、どんなに私が説明しても「失敗だった」とは言われなかった。

「なぜこんなことになったのか」との問いに対しても、「すでにお上(陛下)にもご報告して合祀してしまったことだ」と、それ以外は口をつぐんだままだった。

「部下にミスがあった」「引き継ぎのミスだった」などとは、あの人の性格である。口が曲がっても言えないのだろう、と思った。男子がひとたび行った行為の結果は、たとえどんなミスがあろうとも甘んじて受けて責任をとる。そんな頑なな姿勢に、私は何度か訪問の末に諦めた。

 その後、松平宮司は、国家護持の活動よりも、国民護持を旗印に、宗教法人のままで独立して経営力を高めていく、との方針を打ち出して、私どもの考える方針とはやや違った方向に神社を強力に引っ張って行こうとされた。

 私とはあのときかなり強引な言い争いを展開したが、その後も格別に親しいお付き合いをいただいた。


[7]奥までたるみ果てた宮中

 東京裁判をめぐる祭神合祀に関しては、いくつもの誤解や誤認が積み重なっていると思う。それからはまた10年以上も後の話になるが、元宮内庁長官の「富田メモ」などが伝える昭和天皇のお怒り騒動なども、混乱をいよいよ大きくした。

 昭和天皇がご高齢になられてからの、それも宮中内部においての晩年の私的なご発言とされるメモが、こともあろうに前長官の筋からスクープのように発表されるという、あってはならない事件があった。

 国民の個人個人に対する批判などは、公ではとくに気にされて慎んでこられた陛下である。しかも松平宮司が合祀に当たっては宮中に名簿は提出し、ご覧になったのは、かなり以前にはなるが、間違いない問題だ。

 それにも関わらず、かなりの時間が経過した陛下の晩年に、きわめてご不満であったと洩らされたとのご発言メモが表に出されたのだ。

 いくら御不快に感じられても、それをいくらお歳を召されたとはいえ、表に出されるような陛下ではないはずだ。しかも陛下は明治天皇を誰よりも崇拝され、その御心を継いでいくことを生涯のお役目と信じて終始された。靖国神社に対してのお気持ちも、変わるところがなかった、と私は拝察申し上げる。

 それにもし、万一に、迂闊(うかつ)にもそんなご発言があったのなら、忠義な臣下であったなら、なぜその場で陛下をお諫(いさ)めしなかったのか?

 日本伝統の忠義の道は、西欧などの絶対君主に接するように、「イエスマン」に徹することではない。

 一億国民一人一人のことを思ってお祭りをされる陛下は、民の声、批評や意見をつねに御歌に託して、聞きたい、とお洩らしになっておられる。そんな陛下に対しては、間違いは間違いだ、と真正面からお諫めしながら接してこそ、日本における忠義者である。

 似たような陛下もお気持ちというものが、侍従長はじめ陛下の側近からいくつか漏らされて、国民を不安に陥れた。困ったものである。宮中のもっとも奥までがたるみ果てている。

 こんな無神経な陛下との応対をし、そのうえ不用意なメモなどを残したり、自分の回顧録などを芸能人のエピソードでも書くような気軽さで後に残す軽率な側近などが出るから、歴代の天皇がもっとも御心を寄せられた靖国神社の英霊たちまでが、さびしい思いをすることになる。

 だが、それよりも重要なのは、日本の主権が回復した講和条約が締結されて60年近く、靖国神社に祀られている英霊を放置し、歯を食いしばってお守りしてきた留守を預かる関係者にねぎらいの言葉も掛けず、逃げ回ってばかりいる政府や国会議員の無責任だろう。


[8]問題を放置してきた為政者たちの責任

 護持をしてきた連中にも、もうあれから60年を超えている。疲れも見え、ときには思わぬことが起こるのも人間だから当然ではないか。

靖国神社の問題は、これは前にも第2回「宗教的儀式に対する憲法の立場」〈http://www.melma.com/backnumber_170937_4750317/〉で述べたように、まともに憲法を見て解釈をすれば、直ちに解決しうる問題である。

 だが、それでもこんな難問が次々に出てくるのは、日本が戦争に負けたという重い現実があるからなのだろう。

 憲法をひねくりまわして解釈し、憲法条文を骨抜きにしてやっと可能にしている防衛問題などより、取り組もうとすれば素直で簡単な問題でも、解決しない背後には、復古させたくない力もまたあるからなのだろう。

 それに、日本には、政府にも国会議員にもマスコミにも、国のために自分の意志ではなく命まで失い、単純に国の命ずるために死んだのに、何かの意図をもって彼らが動いたかのように、曲げて解釈する気風もある。

 軍国主義のレッテルまで、現場のものに押し付けて、真の命令責任はどこにあったのかなどには、頬(ほお)かむりして平然としている、いまの無責任な体質も問題である。何とかしなければならない問題は山ほどある。

 英霊たちは国の主権行為である戦争の指導者ではない。責任があるとすれば、それは日本国を引き継いだ指導者たち、国や日本を導いてきたマスコミなどが負うべき問題なのだ。(つづく)


 ☆斎藤吉久注 葦津様のご了解を得て、「私の『視角』」〈http://blog.goo.ne.jp/ashizujimusyo〉から転載させていただきました。適宜、若干の編集を加えてあります。
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