老兵の独り言

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小生のマイミク様が 「なぜ、お盆に祖先供養するのか?」とご自分の日記に書かれていました。この日記を拝見して小生の感じたことを書かせていただきましたが、この日記にも転載しました。
纏めていないのですが、ご感想などがありましたら、コメントなどにお寄せください。


「なぜ、お盆に祖先供養するのか?」と書かれていますが、間違いがあると言うのでなく、かなり混乱したご理解があるようなので、小生の意見というより、この道の専門家であられる加地伸行先生(阪大名誉教授・中国哲学史専攻)のご意見を参照してここにご紹介します。

貴殿のご意見には、もちろん貴殿だけでなく多くの日本人もそうなのですが、仏教と儒教が混在してしかも混乱してご理解されています。

思いつくまま、順不同で書いてみます。整理してご理解ください。文章の末尾は整理していません。

仏教では、死者の肉体は単なる物体にすぎない。死者は成仏したと理解する。成仏しない場合はその霊魂は、生の時間から(中陰という)別の時間に入ったのです。すると残る肉体には仏教的意味は無い。

一方儒教では、肉体は死とともに脱け出た霊魂が再び戻ってきて、よりつく可能性を持つものとされる。だから死後遺体をそのまま地中に葬り墓を作る。これが骨を重視する根本感覚となる。儒教的立場からすれば、死者は泣くべき対象で、家族がきちんと管理する対象で、出棺のときに僧侶は関係ないから、儒教的には家族が関係し柩を運ぶのは当然である。

儒教的には死者の肉体は焼くべきでない。土葬するのが儒式。仏教は火葬にする。死者の肉体には仏教的意味は無いからである。焼いた後の骨を拝むのは仏教的にはおかしい。
お骨を収めたお墓は仏教と無関係です。シャカが亡くなってその骨を納めた塔が建てられ崇拝されているのは例外。追慕の極まった形。

葬式の終了後帰宅したとき「清めの塩」を降りかけるが、死の穢れを清める塩という考えは、仏教でもなく儒教でもない。日本古来の死生観で、神道につながっている。
日本古来の死生観は仏式葬儀の中に生きている。儒式葬儀と日本人の死生観とが重層するところが多い。

だから、仏式葬儀の中に儒教や神道の考えが色濃く流れ、普通は意識しないままで、知らないままでいる。

人には必ず死がきて、その人の生涯が終わる。生・老・病・死この4苦が人間の宿命で、誰にでも訪れるこれ以上の平等はない。

肉体の死とともに、霊魂は浮遊する。肉体は抜殻であるから荼毘に付す。仏教本来の立場に立てばお骨に意味はなく、山でも川でも捨てるべきである。

一方成仏しない限り霊魂は肉体の死とともに、中陰という時間に入る。その時間の長さは四十九日間であり、その間に次に生まれる場所が決まる。少しでも良いところに生まれることが出来るように、僧を通じて供養する。初七日に始まり七日ごとに行われ四十九日の当日、その人の生前の行為の良し悪し、すなわち因果応報によって生まれ変わる先が決まる。ここで中陰にいる時間が終わり、「中陰を満たした」ことで、「満中陰」となる。
生まれ変わりには六つのランクがあり、生は苦しみでもありますから、生まれかわることは苦しみの始まりでもある。このように霊魂が転じ生まれる、転生するわけで苦しみの循環を「輪廻転生」という。

永遠に輪廻転生していたのでは、救いが無い。この束縛から解き脱したいという願いこれが解脱で、解脱とは仏と成れることである。

仏教の理論に従えば成仏していないときは他国人になっていたか、他の動物になっていたかもしれないし、豚になっているかもしれない。トンカツなどは食べるわけにいかなくなる。殺生をしないというのは論理的に理解できる。

祖先供養とは何を意味するのか。
祖先は成仏しているか生まれ変わっているかどちらか。仏教的には祖先の霊は何処にも存在しない。


儒教における死について。
中国人は、現実的・即物的である。特に金銭に対しての執着はものすごい。現実的・即物的中国人に納得できる死を説明して納得させたのが儒家です。
現世に一秒でも長くいたい現実的願望を持っている中国人は、死後でもこの世に帰ってくることが出来ることを最大願望としている。
死後この世に帰ってくることが出来る方向で考える。生と死の境界を交通できると考えるのは中国人だけでない。

そこで「儒」は考える。人間を精神と肉体に分け、精神の主宰者を<魂>、肉体の主宰者を<魄(はく)>といい、両者が一致しているときが生きている状態という。逆に言えば分離するときが死の状態という。即ち、呼吸停止が始まると一致していた魂と魄が分離して、魂が天上に、魄が地下へと行く。これが死である。
理論的に言えば分離していた魂と魄とを呼び戻し一致させると、<生の状態>になるということになる。問題は何処に呼び戻すのか。
最適は死者の肉体であるが、時が経過して白骨が残るだけ。白骨化した骸骨のうち頭蓋骨が特殊な意味を持っていると考えられるのでこの頭蓋骨を残しておく。残りの骨は後に埋葬するようになり、それが発展して墓となってゆく。だから一般にお骨を大切にするのは当然となる。そして命日の日に招魂儀礼を行う(詳細は省略)。死者は再生できるという理論で死の恐怖や不安を解決しようとした。

この儀礼の継続のうちに頭蓋骨が魌頭(きとう)に代わりさらに木の板に代わり、この板上に文字で姓名を書き、中国人はこれを死者になぞらえて祭る。これが仏教に取り入れられて位牌となっていく。

招魂儀礼とは、祖先崇拝そして祖霊信仰を根核とする。祖先を祭祀する主催者は子孫である現在の当主で、この当主もいずれ死んでいくと祭祀を続けてくれる一族が必要。即ち子孫を産むことが必要。この過去・現在・未来の関係を儒は統合する。この三行為をまとめて<孝>とした。「父母への敬愛」だけが孝と考えるがそれは間違いで、「祖先への祭祀」も「子孫を産む」ことも孝である。

孝の行いを通じて、自己の生命が永遠であることの可能性に触れることが出来る。この死の理論は永遠の生命を認める生命論となっていて親殺しや子殺しは自己の生命を絶つことなのである。命をつなぐのは家族であり、だからこそ家族を大切にする社会の仕組みをつくることが大事となる。

儒における孝は、日本では仏教に吸収されていて、家庭における仏壇は、仏教本来のものではなく、儒教における祖先堂である。仏壇の最上段に座します本尊を拝み、読経するのはこれは仏教である。中段に並べられている祖先の位牌は空中に浮かぶ祖先の霊をよりつかせる神聖な存在で、そこに祖霊を招き慰霊するこれは儒教であります。仏を崇める経文を読み、一方香を焚き祖霊に祈るのは儒教の招魂儀礼です。

日本人はお彼岸やお盆に墓参りをする。これは仏教ではない。儒教であり、儒教の儀式をお盆やお彼岸にするのは日本仏教です。儒教で墓参りをするのは、清明節(春分の日からあとの十五日間)でありお盆やお彼岸とは無関係です。

簡潔ですが、以上のように考えます。詳細は 加地伸行著「儒教とは何か」(中公新書)をお読みください。素晴らしい本です。
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