老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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このような素晴らしい日本人がまた取上げていただきました。
反日でしか思考できない日本人、朝鮮・韓国人に改めて読ませてやりたい。
読む学力があるのなら。ごめんなさい、学力ではありません。いろんな角度から判断できる度量があるのなら。




国際派日本人養成講座

人物探訪: 枡富安左衛門
~ 韓国民の精神開発を使命とした日本人
 日本人校長は韓国人学生に「本当に独立を
望むなら学ぶのだ」と口癖のように説いた.


------------------------------------------------------------

■1.韓国政府から国民勲章を授けられた日本人■

 1995(平成7)年12月16日、韓国の京郷新聞は次のような
記事を掲載した。[1,p195]

 15日午前、ソウル市鐘路区三清洞にある中央教育研修
院の講堂では、国民教育に寄与した功労で、3092人に
達する国民教育功労者の褒章式が開かれた。

 そのなかで、もうすでに故人になった一人の日本人が、
私立学校の設立に功績があったとして追贈され、国民勲章
の牡丹章の受章者に選ばれて注目された。(その人物の名
前は)枡富安左衛門氏(ますとみ・やすざえもん)。

 国民勲章とは、政治や経済、社会、教育などの分野で韓国民
の福祉向上と国家の発展に大きく寄与した人物に与えられる勲
章で、日本の文化勲章に相当する。等級は5段階に分かれてお
り、その中で「牡丹章」は2番目に高いクラスである。

 故人の娘の石井武子さん(75)が、父親の代わりに勲
章を受け、参加した人々から熱い拍手喝采を浴びた。・・

 枡富氏は1918(大正7)年から全羅北道富安郡に富安教会、
富安小学校、高敞高等学校を設立して、この地域の人々の
精神啓発に一生を捧げた。・・・

 高敞高校出身のハングル学者の韓甲洙さん(83)も、
「日本人にかかわらず、自分の私財を投じて学校と教会を
建てるなど、韓国を愛し、この地方の開花に種をまいた先
駆者だ」と話し、「日本人だというだけで罵倒してしまう
には、あまりにも大切な方だ」と述懐している。

 1995年といえば、韓国にとっては「光復(植民地からの解放)」
50年にあたっていた。光復節の8月15日には、旧朝鮮総督
府の建物が日本統治の象徴として解体撤去され、その式典で、
金永三大統領が「植民地支配と侵略行為を日本は素直に反省す
べきだ」と演説した。

 こうした反日感情の中で、日本統治時代の朝鮮に生きた一人
の日本人が、韓国政府から「国民勲章」を受けるとは、どうし
たわけか。そこには日韓両国にまたがる人々の強い絆があった。

■2.韓国農業で国利民福を志す■

 枡富安左衛門は、明治13(1880)年、福岡県門司市の醤油製
造業を営む家に生まれた。下関商業学校在学中に父を失ったた
め、17歳にして家業を継ぎ、店を切り盛りしながら、学校で
商業を学んだ。

 明治37(1904)年2月、日露戦争勃発と共に、枡富は出征し
て、食料・物資の調達・分配など後方の兵站部門に従事した。

 出征前から「韓国農業に付きて之れが経営をなして国利民福
(JOG注:国に利益をもたらし民を幸福にする)を謀る考えな
り」と、韓国での農業経営の志を抱いていたが、出征の途上で、
全羅北道(朝鮮半島南西部)の沃野を自らの目で確かめて、そ
の意思が固まった。

 当時の朝鮮半島は、停滞した李朝王朝のもとで農業も荒廃の
極みにあり、しばしば飢饉に襲われていた[a,b]。そこに日本
の進んだ農業技術を導入することで、生産性を飛躍的に上げる
余地があった。

 日露戦争が終わって帰国した枡富は、明治39(1906)年6月、
再び全羅北道を訪れた。この地は李朝末期の東学党の乱の発祥
地であり、この頃でも残党が山野に潜伏して、韓国人地主を襲
撃したりしていた。そんな中を馬にまたがって、土地を物色し
て廻る枡富の姿は、農民たちから「無謀な行為」として驚きを
もって迎えられた。

■3.尊敬と思慕の念を集めた農業経営■

 枡富は、この地で4万坪の土地を購入して、農業経営を始め
た。当時の朝鮮半島での農業は原始的な零細農で、面積当たり
の収穫も少なかった。また毎年のように洪水や日照りに襲われ
ていた。

 枡富は半島でも有数規模の水利組合の結成に参画し、近くの
湖から農業用水を確保して、干ばつや洪水の被害防止に大きな
成果を上げた。また湖からの水流を利用して発電し、この地方
に電灯をともすことに成功したという。燃料源として乱伐が進
んでいた付近の山々の植林事業にも、近隣の日本人農業主や韓
国人農民と協力して取り組んだ。

 さらに悲惨な生活を送っていた小作人たちの救済のために、
畑作の改良、緑肥の調整、二毛作、間作などに取り組ませた。
こうした農業経営を進めた枡富は、小作人を含め近隣住民から
尊敬と思慕の念を集めた。

■4.「韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」■

 枡富の農業経営に思想的な基盤を与えたのが、妻・照子の影
響で入信したキリスト教だった。韓国での農業経営を始めた翌
年の明治40(1907)年、枡富は照子と結婚した。照子は福岡英
和女学校(現在の福岡女学院)在学中に、アメリカ人女性宣教
師と出会い、卒業の年に洗礼を受けていた。

 当初、照子は韓国に渡って新婚生活を営んだが、慣れぬ土地
で体調を崩し、病気がちになったため、国内に戻って療養生活
を送るようになった。以後、枡富は韓国を、照子は日本国内を
本拠地とし、数ヶ月単位でお互いに行き来するようになった。

 照子は枡富にキリスト教入信を勧めたが、枡富は「仏教にも、
儒教にも良い所はある。すべての宗教の長所をとって、国のた
めになしたい」と言って、なかなか聞き入れなかった。

 しかし、照子とともに教会通いをしているうちに、ついに折
れて、「僕も信者になる。韓国の仕事は信仰を元としてやりた
い」と言った。結婚3年後のことであった。

「信仰に基づいた農業経営」を目指した枡富は、デンマークを
自らの事業のモデルとした。この点を次のように語っている。

 850年代(*)に一人の牧師が現れて、信仰に基づいた農業
と教育の振興を唱え、それが広く国民に受け入れられた。
その結果、やせてどうにもならなかった土地が開墾され、
世界にも模範的な農業国になった。[1,p145]

(*JOG注:[1]では「1850年代」となっているが、960年頃
デンマーク初のキリスト教王が登場しているので、「850
年代」の誤りと思われる)

 枡富は、まずは自身の信仰を確かなものとするために、大正
元(1912)年、神戸の神学校に入学した。韓国での事業は、一時
的に友人に託した。さらに将来の韓国での教会事業は、韓国人
自身の手によらなければならないとして、3人の優秀な韓国人
学生を呼び寄せ、自分とともに神学校に入学させた。この後、
枡富は多くの韓国人学生に奨学金を出して、日本やソウルの大
学、神学校で学ばせるようになった。

■5.私立小学校の設立■

 神戸の神学校で学んでいる間に、枡富は韓国の農場の近隣で、
子ども向けの学校として「私立興徳学堂」を設立した。当時の
韓国全土には、370万人の就学年齢の児童がいたが、寺子屋
のような私塾を含めても、18万5千人、全児童の5%しか、
教育を受けていなかった。

 当初は、村人たちも子供を通わせるのをいやがり、入学希望
者は非常に少なかった。経済的な理由からであろう。そこで枡
富は、児童全員に教科書やノート、鉛筆などを無料で提供し、
授業料までもただにした。村民たちは、こうした枡富の教育へ
の熱心さや、正規の小学校と変わらない充実した教育内容ぶり
を知って、すすんで子供たちを学堂に通わせるようになった。

 神戸神学校で学んでいた3人の奨学生が大正5(1916)年に卒
業して教員に加わった。彼らは学校に寝泊まりして、教育内容
の充実に智恵を絞った。

 こうした努力が実って、大正8(1919)年、興徳学堂は学校法
人としての認可を受け、私立吾山普通学校と改名した。当時、
普通学校は1郡に1校を原則として設立が進められていたが、
いち早く普通校を持てた高敞郡は、他地域の住民たちから非常
に羨ましがられたという。

■6.学校存続に立ち上がった郡民たち■

 大正7(1918)年、枡富は所有する土地約2100坪を使って、
「私立吾山高等学校」を設立し、中等教育に乗り出した。早く
も2年後に、正式な学校法人としての認可を受け、「吾山高等
普通学校」に昇格した。当時の高等普通学校は、朝鮮全土でも
12校しかなかったところに、近隣6道での初めての高等普通
学校が人口まばらな寒村に出現したことは、大きな話題となっ
た。

 ここまでは順調に成長してきたが、第一次大戦後の経済不況
の波が、枡富の事業経営を直撃した。今まで農業で得た利益を
学校経営につぎ込んできたのだが、それも難しくなった。

 枡富は、大正11(1922)年3月31日限りで、吾山高等普通
学校を廃校させざるをえない、と発表した。生徒全員は他の学
校に転校させ、その学費と交通費を負担することとした。

 しかし、この地方ではかけがえのない高等普通学校を潰して
はならない、と高敞郡守・金相鉛の呼びかけのもと、地元郡民
たちが立ち上がった。もともと独立意識の強い地方で、「自主
独立は教育を通じての知性の開明が伴わなければならない」を
合い言葉に、学校存続を決議した。

 郡民は募金活動を展開し、約30万円を集めた。意気に感じ
た枡富も生徒たちへの弁済にあてるつもりだった1万5千円を
寄付した。枡富はしばらく校長、理事長の立場に留まることと
なった。

 同時に人里離れた吾山から郡庁のある高敞に移転され、こ
こに「高敞高等普通学校」として再スタートした。大正15
(1926)年、校舎を近代的な赤レンガ造りの2階建てに改築した
際の落成式には斎藤実・朝鮮総督が参列した。斎藤は「文化政
治」を標榜していた。枡富と親交があり、人作りを最優先した
枡富の事業に共感を抱いていたのだろう。

 吾山普通学校も、枡富は敷地、校舎、施設のいっさいを当局
に寄付し、富安公立普通学校と改称された。

■7.「本当に独立を望むなら学ぶのだ」■

 枡富は「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように生
徒たちに説いた。韓国の人々の独立への思いに共感し、そのた
めには現地の青年たちが将来様々な方面で活躍し、自分の力で
発展できるよう、生徒たちの教育に心を砕いた。

 その精神は、高敞高等普通学校にも受け継がれた。抗日運動、
独立運動に参加して公立学校を退学させられた生徒たちを進ん
で受け入れ、勉学の場を提供した。やがて高敞は「民族運動揺
籃の地」として、朝鮮全土に知られるようになる。

 冒頭の新聞記事に登場したハングル学者の韓甲洙氏もその一
人だ。昭和5(1930)年に光州学生独立運動に参加して、それま
で学んでいた学校から退学処分となり、監獄出所後はどこの学
校も編入学を認めようとしなかった。風の噂をたよりに高敞高
等普通学校の門を叩くと、応対に出た職員は「韓国のために戦
う学生は、勉強させなければならない」とただちに入学を認め
てくれた。

 韓甲洙氏は、教鞭をとっていたハングル語学者・鄭寅承に出
会い、ハングル研究の道を志す。後に韓国で初めてのハングル
辞典の編纂委員の一人となり、戦後は李承晩大統領の秘書室長
も務めるなど、韓国の政界、教育界の中枢で活躍した。

■8.「私の使命は韓国民の精神開発」■

 昭和10(1935)年に高敞高等普通学校を卒業した一人が鄭成
沢氏である。枡富はすでに日本に戻り、その前年に亡くなって
いたので、直接の面識はなかった。鄭氏は卒業後、教育者の道
を歩み、戦後の1966(昭和36)年、富安国民学校の校長に任命
された。

 鄭氏が教育の一環として、生徒たちに学校の歴史を調べさせ
たところ、同校が枡富の手によって設立されたことを初めて知っ
た。自分でも関連資料を探したところ、近隣の老人が『枡富安
左衛門追想録』と題した分厚い本を差し出した。枡富の夫人・
照子が編纂したもので、枡富自身の手紙や文章が収録されてい
た。それを読んだ鄭氏は深く心を動かされた。

 鄭氏は翌年の創立記念日に、全校児童にこう語りかけた。

 皆さんは、日本人が建てた学校に通っている。韓国民を
熱烈に愛した日本人が、その熱情に動かされて建てられた
学校に通っているのだ。皆さんは、それを誇りに思って貰
いたい。

 鄭氏は枡富の命日に追悼式を行い、さらに私費を投じて顕彰
碑を建てた。「枡富先生教育功労碑」としたかったが、当時の
反日感情の中では打ち壊される恐れもあったので、「学校設立
記念碑」とし、裏面に設立の歴史として、枡富の事績を記した。

 しかし、反日教育を受けた若い職員らから「倭人を称えるな
ど、もってのほかだ」と批判され、その一人が「親日校長」な
どと非難する投書を教育委員会などに送り続けた。鄭氏は、学
校や同僚にも迷惑がかかるとして、教職を去った。

■9.「私の使命は韓国民の精神開発」■

 1995(平成7)年、枡富の60回忌の年に、鄭氏は韓甲洙氏
らとともに再び立ち上がった。学校を設立した外国人が韓国政
府から相次いで表彰されていたので、同様の政府表彰を申請し
たのだった。「日本人を表彰するなどもってのほか」と担当の
役人たちは迷惑そうな表情を隠さなかったが、韓氏の人脈を通
じて粘り強く説得し、ついに大統領の決裁がおりたのである。
こうして冒頭の「国民勲章牡丹章」授賞が実現した。

 富安国民学校の校庭には、開校時に植えられたアカシアの苗
木は今は巨木となって、子供たちに格好の日陰を提供している。
校庭の片隅には、鄭氏の建てた石碑が今も残っている。その側
面には、鄭氏の好んだ枡富の言葉がさりげなく刻まれている。

 私の使命は韓国民の精神開発であり、私のすべてのもの
は、即ちそのためにあるだけだ。
(文責:伊勢雅臣)
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