老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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元自民党の幹部野中広務は正に売国奴・国賊という表現に値する下らない人物ですが、その彼は、最近左翼からお座敷が良く掛かり、後援会員の中国帰りの兵士の妄言を各地で垂れ流しています。
東京でご奮闘されている最近入られたマイミク様のお使いの記事から転用しました。
ご参考に以下をお読み下さい。


野中広務の講演会報告再録

・同志社大学メディア学科ゼミ(浅野健一ゼミ)

○ 参考:浅野ゼミ06年度2回生の野中広務さん講演会の報告です。


 私たち浅野ゼミは2007年1月18日、同志社大学に於いて、元衆議院議員・野中広務さんをお招きし、講演会を開催しました。これはある意味で歴史的なことであったと思います。自民党の保守本流であった野中さん。それに対して、私たちは権力の監視役としてのマスコミの実現に日々思案を続けている身です。ご本人も講演の中で「どうして私が招待されるのだろうと思った」と語ってらっしゃいました。本来、相容れることのないように思えた野中さんと私たちが、アジアを、そして日本の将来を考えるうえで接点を持った。この事実は将来に大きな意味を持つと確信しています。ここでは講演中の発言から、野中さんの政治的思想やアジア観に迫り、そこから現代に生きる私たちが語り継ぐべきもの、そしてこれからの進むべき道を探ります。

 小泉前総理とマスコミ

――(小泉前総理の就任から退陣まで)5年10ヶ月。やれやれと思う。あれだけ演技力の上手な、あれだけ説明をしない、こんな人が高い支持率を得る。日本国民は一体どうなっている、これをまたこのようにもっていく日本のマスコミはどうなっている。一つも批判するマスコミがいない。これは戦時中の私たちが経験した青少年時代と同じだ。

 南京大虐殺

――南京大虐殺記念館に行った政治家は、私が日本の政治家として初めてだ。日本人はどんなひどいことをしたかを、戦地から帰ってきた多くの人達から聞くべきだ。まだ中国が独立、国交正常化ができていない時に、私は後援会の慰霊の旅で200名の人々と南京に行った。その時、私達の中に、南京の城壁の前で倒れて動かない人がいた。ようやく落ち着いて立ち上がって、「どうしたんだ」、と聞くと「私はここにいたのです。ここにいて、いろんなものを見て、経験した。南京に入りかけた時、中国兵が倒れてしまって、手を合わせて命乞いをした。自分の水筒も残り少なかったが、一滴ずつ与え、すると、彼らは我々の姿が見えなくなるまで手を合わせて拝むようにしていた。これは、私の大変心温まる思い出です。しかし南京市内に入ると、中は女性と子供ばかり。しかし、上官は「その中に兵隊がおるか、女・子供でも容赦しない、命令だ!」と言った。我々は目をつぶって、そこにいた女性と子供を殺してしまいました。辛い、辛い話を、この場にきて思い出して、体が崩れてしまって、地の中に体が引きずり込まれる思いがしてしまった。」こう言って話をしてくれた。この話を私はずっと心に留め、そしてその想いが、南京虐殺記念館が出来た時に私をそこへ向かわせてくれた。未だに記念館に行く(日本の)政治家は少ない。嫌なものを見ないで避けて通ることはやめなければいけない。

 日本の戦争責任

――日中戦争や、朝鮮戦争の植民地化について、いろいろ言う人がいるが、向こうから攻めてこられたことは一度もない。日本が植民地化し、日本名に代え、日本の軍人として働かせ、あるいは軍属として働かせた。その償いが出来ていない。60年経った今でも戦争の傷跡をまだ残している。私も戦争の中心にいた者として非常に恥ずかしく思う。

 マスコミのあるべき姿

――マスコミの諸君が自分たちの責任がいかに重いかを知らなければならない。我々の知らないところでされる話し合いがどのように進んでいくか、国家の行方をどうあるべきかをマスコミは国民に訴えていくべき。国の税金を使って平気でおれる政治家は辞めさせねばならない。それが戦争で死ぬことなくここまで生きてきた我々の責任であると思う。

 現代に生きる若者達へ

――戦争を知らない若い皆さん。どうぞもう1度歴史に学び、中国・韓国・北朝鮮・東南アジアを実際に歩いてください。(日本が)どんだけ残忍なことをしてきたか。その反省をもとに私達はこれらの国と謙虚に信頼関係を構築し、そしてこれからお互いに連帯や友好親善ができるように日本を作り上げなければならない、と思います。

 講演に寄せて 実行委員長 山田遼平

 この他にも野中さんは靖国問題について学生から質問を受けた際、「靖国神社は歴史の再清算を行わなければならない」と、問題の核心に触れていました。靖国神社が辿った歴史的経緯をきちんと理解し、その特殊な奉祀構造、戦犯合祀問題などの諸問題をクリアすることなくして、首相の参拝は行われるべきではない。靖国問題に関して、これ程までに深く言及した与党関係者は今までにも例を見ないと思います。マスコミや、私たちの中で靖国問題に対する再考の動きが活性化することに期待したいものです。
 歴史を学び、そこから未来への手がかりを導き出す。野中さんは私たちにその重要性を教えて下さったのだと思います。これからも私たちは日本の背負う「戦後保障」というあまりに大きな負の遺産から目を背けることなく、謙虚な姿勢でアジア各国と向き合う決意を持ち続けていかなくてはならないでしょう。
 
 野中 広務(のなか ひろむ 1925年10月20日)氏略歴

 京都府船井郡園部町(現南丹市園部町)出身。
 園部町議会議員、園部町長、京都府議会議員、
 京都府副知事を経て、1983年衆議院に初当選。
 衆議院議員時代の選挙区は京都4区(当選 7 回)。全国土地改良事業団体連合会会長。
 京都府身体障害者団体連合会会長。日中友好協会名誉顧問。社会福祉法人京都太陽の園理事長。
 2006年 10月より平安女学院大学客員教授。


(2)
http://blogs.yahoo.co.jp/yfqsx494/35292256.html
http://blogs.yahoo.co.jp/yfqsx494/archive/2007/08/17
平和の井戸端会議
[Peace_Community][04373]
野中広務と南京虐殺 「第21回アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む集会」
上記から転載
引用開始

野中広務と南京虐殺

 「第21回アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む集会」は、昨年よりも100人多い、500人の参加で、無事終了することができました。


 特に、印象深かったのは、野中広務さんのお話でした。

 自民党の大物政治家として、長い間、権力の中枢にいた野中さんが、このような集会で、南京虐殺や自身の戦争体験について語るというのは、すごいことだと思います。

 講演では、野中さんのとても貴重な戦争体験を聴くことができました。

 南京虐殺に関する部分のみ紹介します。 


 野中さんは、南京虐殺について、次のような体験を話してくださいました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 71年に、後援会員200人と南京を訪れた。城門にさしかかった時、あるひとりの後援会員が、がくがく震えだし、倒れて動けなくなった。看護士を呼んで手当てをし、1時間後、平静を取り戻した彼に事情を聞いてみると、彼は、自分は京都の福知山第20連隊で南京戦に従軍し、戦争の時、まさにこの場所にいて、そのことを思い出した時、体ががくがく震えて、足が地の底に沈んだように動けなくなった、と言った。そして、私は、彼から南京戦のことを聞いた。

(以下、彼の話)

 南京へ向う途中、5人の中国兵が土手で手を合わせて命乞いをしていた。その時は、「彼らにも家族があるんだ」と思って、残り少なくなっていた水筒の水を彼らに与えた。彼らは涙を流して喜んでわれわれの姿が見えなくなるまで手を合わせて拝んでいた。
 南京市内へ入っていって、掃討戦が行われている時、私が土のうの大きな扉を開けると、そこにはたくさんの
女性と子どもがいた。私が、「ここには女性と子どもしかいません」と上官に言って扉を閉めようとすると、上官は、「何を言ってる! そこに便衣兵(ゲリラ)がいるんだ。例外なしにやってしまえ!」と言った。私たちは、目をつぶって、女性と子どもを殺さざる得なかった。
 これが戦争から帰って、ずっと私の夢にあらわれてきて、うなされることがあった。いつも心の傷になっていた。今日、南京に来て、当時のことを思いおこすと、もう立っていられなくなった。

 こんな話を彼から聞いた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このような体験を、野中さんがしていたことは驚きでした。

 野中さんは、その後も何度か南京を訪問され、96年には、日本人政治家としてはじめて、南京虐殺記念館を訪問し、また、日中友好協会の会長として、頻繁に中国を訪れ、残留孤児や、日本軍の遺棄化学兵器がもたらしている実態などを見て回ったそうです。

 
 講演後も残られて、南京事件で家族9人のうち7人を殺害されるという体験をした夏淑琴さんの証言を聴いていた野中さんは、涙を流していたそうです。

 そして、花束贈呈では、野中さんが夏さんに花束を渡していました。


 野中さんは、「皆さんにとっては私は自民党の極悪人だと思いますが…」とか、「皆さんにとって、私は保守反動だということになるのだと思いますが」とおしゃっていて笑いをとっていましたが、どういう立場の人がやっている集会かを百も承知の上で来てくださっていること自体に、野中さんの戦争に対する特別な熱い想いを強く感じました。

 
 野中さん自身も、45年3月に召集され、将来指揮官となるための幹部候補生の試験を受けた後、高知の部隊で、米軍の上陸にそなえて壕を掘る土木作業などに従事していたそうです。

 連隊本部へ食糧をもらいに向っていた時、立ち寄ったおばあさんの家で、はじめて敗戦を知ったのは、8月17日。終戦から2日たってのことでした。

 
 敗戦を知った野中さんは、高知の空港で特攻隊になる訓練をうけ、出発の時に別れを惜しんだ仲間の顔が忘れられず、「米軍が上陸してきたら、自分たちは殺されるか、捕虜になるかのどちらかだ、それならば、いっそこの場で死のう」と、仲間4人とまさに死のうとしている時、上官がやってきて、野中さんや皆を殴って、「こんなところで死ぬくらいなら、東京にいって、あやまった戦争をした東条英機を殺してこい。死ぬのはそれからでも遅くない。そして、命ながらえたら、日本の復興のために協力せよ」と諌めたそうです。

 その時の野中さんの仲間のひとりは、実際に東条を殺そうとして亡くなったそうです。



 野中さんのその後の政治活動には、この戦争体験がつねに原点としてあったんだなぁ~っと、お話を聴いて強く感じました。


 あの戦争をきちんと「侵略戦争」と呼び、今回の自民党の大敗を「天誅」といい、小泉前首相を「アメリカの使用人のよう」と批判し、テロ特措法で米軍のために膨大な経費を使う一方社会保障費を切り捨てることに憤り、刻む会が21年間このような集会を続けてきたことに敬意を表してくださった野中さん。
 
 今、野中さんのような自民党議員がどんどん減って、南京虐殺を否定する戦争を体験していない自民党議員が増えています。

引用終了
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