老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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伊勢雅臣先生の  国際派日本人養成講座  より転載しています。

地球史探訪: ラスト・エンペラーと「偽」満洲国
 日本は最後の清国皇帝を傀儡として、
「偽」満洲国をでっちあげたのか?

--------------------------------------------------------
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下さい。薄謝として、本誌総集編(電子ブック版、¥800)
を贈呈します。
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■1.最後の皇帝の東京裁判での証言■

 清国の最後の皇帝であり、後に満洲国皇帝となった愛新覚
羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)は、東京裁判にソ連側の証
人として召喚され、「満洲国においては自分は日本軍閥の傀
儡(かいらい)に過ぎなかった」と答弁した。

 当時、溥儀はソ連に拘留されており、日本が満洲を侵略した
とするソ連の望むとおりの証言をしたのである。

 満洲事変当時、溥儀が陸相・南次郎に宛てた親書の中で、
満洲国皇帝として復位することを希望すると書いていた事実を
突きつけられても、溥儀はそれを偽造だと撥ねつけた。

 この強弁には弟の溥傑(ふけつ)でさえも憤慨し、日本軍
閥はわれわれを利用したかもしれないが、われわれも彼らを
利用したということを、どうして証言しないのかと、兄のふ
がいなさを嘆いたという。[2,p401]

 溥儀が清国皇帝として北京の紫禁城で成長し、後に生命の危
険が迫って日本公使館に逃げ込むというドラマチックな場面で
常に溥儀の側にいたのはイギリス人教師レジナルド・ジョンス
トンであった。ジョンストンは、その体験を『紫禁城の黄昏』
[1,2]という浩瀚な本にまとめている。この本の日本語訳監修
者の渡部昇一氏は次のように述べている。

『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判(東京裁判)に証拠書
類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかっ
たであろう。

 こう言うだけで、本書の価値を知るには充分である。も
ちろん、何が何でも日本を悪者に仕立て上げたかった東京
裁判所は、本書を証拠資料として採用せず、却下した。
[1,p8]

■2.清国と満洲■

 さて清国皇帝が満洲に逃れて、そこで再び皇帝となった経緯
を理解するには、清国と満洲との歴史的関係を知っておかなけ
ればならない。

 清国とは、1636年に満洲族の愛新覚羅氏が建国した国である。
満洲族は漢族とは言葉も文字も習俗も異なるまったく別の民族
であった。清国は1644年に北京を攻略して、首都を移した。そ
れ以来、シナ本土は、満洲族による異民族支配の下にあった。
その後シナに革命が起こって清国は滅ぼされ、溥儀は故郷の満
洲に戻って満洲国の皇帝となったのである。

 しかし現在の中国は、溥儀は日本の傀儡であり、彼が復位し
た国を「偽満洲国」などと呼ぶ。さらに「満洲」という地名も、
「東北」と呼び変え、あたかもシナの一部であるかのように見
せかけている。

(注: ジョンストンの著書では、「中国(Chung Kuo)」と
「シナ(China)」を区別して使っているので、弊誌もこれに従っ
ている。「中国」は中華民国、または中華人民共和国の略称で
あり、シナは歴史的に漢民族の住んでいた地域を表す地理的概
念である。満洲は満洲族の住んでいた土地であり、当然、シナ
には含まれない。)

 おおよそ、これが満洲族とその皇帝のたどった歴史であった。
今回は溥儀が満洲に帰還するまでの時期を、ジョンストンの記
述を通じて辿ってみよう。そこから、日本が本当に「悪者」だっ
たのか、も見えてくる。

■3.ロシアから満洲を取り返してやった日本■

 19世紀末、清国は西洋諸国に領土を蚕食されていた。光緒
帝(溥儀の先代)は日本に倣って近代化路線をとり、国勢回復
を目指した。しかし、叔母にあたる西太后がその試みを絶ち、
光緒帝を監禁してしまう。清国は再び無気力な状態に戻った。

 1989年当時、満洲に住んでいた英国の商人たちは、「ま
さに現実のものとなっていくロシアの実質的な満洲併合」
について語っている。英国の宣教師の指導者も「私のみな
らず、私のもとで働くどの宣教師も口をそろえ、満洲とは
名前だけで、ことごとくロシアのものと思われると明言し
た」のである。

 これは、眼前にある今の満洲問題の背景を理解しようと
する者なら、絶対に忘れてはならない事実である。シナの
人々は、満洲の領土からロシア勢力を駆逐するために、い
かなる種類の行動をも、まったく取ろうとはしなかった。

 もし日本が、1904年から1905年にかけての日露戦争で、
ロシア軍と戦い、これを打ち破らなかったならば、遼東半
島のみならず、満洲全土も、そしてその名前までも、今日
のロシアの一部となっていたことは、まったく疑う余地の
ない事実である。[1,p43]

 満洲がソ連のものとなったら、次は朝鮮であり、そして日本
の独立も風前の灯火となる。日本は生き残りをかけてロシアに
決死の戦いを挑んだ。

 日本は、1904年から1905年、満洲本土を戦場とした日露
戦争で勝利した後、その戦争でロシアから勝ち取った権益
や特権は保持したものの、(それらの権益や特権に従属す
る)満洲の東三省は、その領土をロシアにもぎとられた政
府の手に返してやったのである。その政府とは、いうまで
もなく満洲王朝の政府である。 [1,p105]

■4.共和国の中の皇帝■

 1908年8月、光緒帝の弟である醇親王の子で、3歳にもなら
ない溥儀が第12代皇帝として即位した。同年11月14日に
光緒帝が亡くなり、翌日、西太后も没した。死期を悟った西太
后が、光緒帝を毒殺したという説もある。父親の醇親王が摂政
となったが、無知無力な人物であり、再び、政治的停滞の時代
が続いた。

 1911年、辛亥革命が起こり、翌年、中華民国が成立して、孫
文が臨時大統領に就任した。しかし、皇帝は一切の政治的権力
は剥奪されたものの、その地位は保全され、宮廷は維持された。
少年皇帝はそのまま紫禁城での生活を続けたのである。

 王政を倒し、国王を殺害したフランス革命やロシア革命と比
べれば、奇妙な妥協に見えるが、それは漢民族の間でも共和国
政府よりも皇帝への忠誠心がはるかに高かった、という実態を
踏まえたものだろう。

 清朝は漢民族を異民族支配したが、それは圧政とはほど遠かっ
た。宮廷の無気力と官吏の腐敗は甚だしかったが、過去3百年
間に渡って、民衆は自由に暮らしていた。西洋諸国や日本の外
圧がなければ、革命などは必要なかったのである。

 アメリカ人学者ウェルズ・ウィリアムズ博士は、著書『中国
総論』の中で次のように述べている。

 シナ人は個人的に不公平な課税に反抗したり、互いに結
託して不当に厳しい役人を殺害、放逐したりするが、その
一方で、彼らの皇帝への計り知れない畏敬の念ほど、シナ
の政治で注目に値するものはない。[1,p166]

■5.皇帝の家庭教師■

 しかし、共和制が始まっても、国内抗争は止まなかった。
1913(大正2)年には第2革命が起こり、袁世凱が大総統となり、
孫文は日本に亡命した。1915年には袁世凱は皇帝になろうとし
たが、第3革命が勃発し、翌年死去。1917年には帝政復古を図
るクーデターが起こったが失敗。軍閥間の抗争が激しくなった。

 ジョンストンが少年皇帝の「帝師(皇帝の家庭教師)」となっ
たのは1919年だった。溥儀は13歳になっていた。この時点で
の大総統は、袁世凱の友人で、学者や官僚としての立派な経歴
を持つ徐世昌だった。

 徐世昌は、共和制が失敗して民衆が旧体制を支持した場合に
は、溥儀を皇帝とする立憲君主制をとることを考えていた。そ
してその際には、溥儀が立憲君主にふさわしい役割を演じられ
るよう教育したいと考え、英語と初等の西洋の学問の師として
ジョンストンを招いたのである。

 教え子の皇帝と私との関係は、当初から友好的で仲睦ま
じいものであったが、時が経つにつれ、ますますその関係
も深まっていった。・・・

 陛下が最も興味を持ったのは、世界の時事問題(ヴェル
サイユ条約前後のヨーロッパの出来事も含まれる)、地理
と旅行、初歩的な物理科学(天文学も含む)、政治学、英
国憲政史、そして自国シナの政治の舞台で日々繰り広げら
れる劇的な諸事件である。

 私たちは、これといった手順を踏むわけでなく、このよ
うな話題についてシナ語で自由に話をする。したがって当
然のこと、あれこれと話をしているうちに時間がとられ、
英語の学習時間も削られることになる。[2,p31]

 紫禁城に閉じ込められた少年皇帝の目は、中国国内の動乱と
世界の情勢に向けられていた。

■6.満洲、蒙古の独立を望む声■

 この間にも、中国の国内情勢は混乱の度を増していった。

 一般大衆の意見はというと、当時のシナの多くの地域で
人々が共和国に幻滅しきっていたことは間違いない。共和
国はよいことを山ほど約束しておきながら、貧苦以外は、
ほとんど何ももたらさなかったからだ。[2,p57]

 ジョンストンはこう述べて、証拠の一つに中国で発行されて
いる欧州人による新聞の次のような記事を紹介している。

 増税したことと官吏が腐敗したことにより、国民は満洲
朝廷の復帰を望むようになっている。満洲朝廷も悪かった
けれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。
満洲王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえ
るだけでなく、他の地方でも満洲朝廷を未だに望んでいる
のである。[1,p58]

 満洲王朝を望む声は、当然ながら、満洲および蒙古(モンゴ
ル)では一層強かった。蒙古族は、満洲族がシナ本土を征服す
る際に協力し、その後、清国に属して、清朝皇帝に忠誠を誓っ
てきた。だから、漢民族が独立して共和国を作っても、それに
従う理由はさらさらなかった。外蒙古はすでに1912年、中華民
国が成立した際に独立を宣言している。

 同時に、日本の後ろ盾を得て、満洲を独立させようという動
きも、ジョンストンの耳に届いていた。

 同年(1919年)の7月20日、私は個人的な情報筋から
次のような報告を受けた。「張作霖は君主制を復古しよう
と企んでいるが、その意図は翌年の秋に奉天で若い皇帝を
帝位につかせ、同時に日本の保護下で満洲を独立国として
宣言することだ」というものだった。[2,p70]

 日露戦争でロシアを駆逐して、満洲を返してくれた日本の力
を借りようという考えは、ごく自然なものだったのだろう。

■7.招かれざる客■

 1924年11月5日、大規模な内乱の中で、反乱軍の一部が紫
禁城に乱入し、溥儀に3時間以内の退去を命じた。溥儀はごく
わずかの身のまわりの物をまとめ、父・醇親王の邸宅に身を寄
せた。ここも反乱軍の監視下にあったため、ジョンストンは危
険だと考えて、皇帝を連れだし、受け入れ先を捜した。

 私はまず日本公使館に向かった。そうしたのは、すべて
の外国公使の中で、日本の公使だけが、皇帝を受け入れて
くれるだけでなく、皇帝に実質的な保護を与えてくれるこ
ともでき、それも喜んでやってくれそうな(私はそう望む
のだが)人物だったからだ。[2,p344]

 ジョンストンは日本の芳沢公使に皇帝を保護して欲しいと懇
願した。公使はしばらく考えてた後、その懇願を受け入れた。

 溥儀は数カ月間、日本公使館で保護された後、天津の日本租
界に移り、同地で7年もの亡命生活を送った。この間、日本政
府は溥儀を利用しようという素振りすら見せなかった。

 それどころか、日本や、日本の租借地である満洲の関東
洲に皇帝がいては、日本政府が「ひどく困惑する」ことに
なるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほど
である。[2,p368]

 日本政府にとって、溥儀は招かれざる客であった。

■8.龍は古き故郷に帰って来た■

 1930(昭和5)年、ジョンストンは溥儀と別れ、イギリスに戻っ
た。翌1931年9月、満洲事変が勃発。ちょうどその直前に、ジョ
ンストンはイギリスの外交関係の任務を得て、中国を再度、訪
問し、天津で溥儀とも再会していた。

 11月13日、上海に戻ってみると、私的な電報で皇帝
が天津を去り、満洲に向かったことを知った。

 シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意思に反して連
れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘
拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信
じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。

 ・・・皇帝が誘惑されて満洲に連れ去られる危険から逃
れたいと思えば、とことこと自分の足で歩いて英国汽船に
乗り込めばよいだけの話である。[2,p393]

 1932年、関東軍(大日本帝国陸軍)は満洲国を設立し、溥儀
を「執政(最高行政官)」として招請した。

 皇帝が北へ向かうと、彼の乗った特別列車はあちこちの
地点で停車し、地方官吏やその他の役人たちが主君のとこ
ろへ来て敬意を表するのを許したのである。・・・

 龍は古き故郷に帰って来たのである。[2,p394]

 その後、溥儀は満州国の皇帝となった。満州国は関東軍の庇
護のもとで、五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古
人)のスローガンを掲げ、平和な国土作りに邁進した。戦乱の
続くシナ大陸から毎年100万人以上の民衆が万里の長城を超
えて、豊かで平和な満洲国になだれ込んでいった。[a]
(文責:伊勢雅臣)
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