老兵の独り言

八尾市をはじめとする全国での左翼情報チェックと真正保守の陣営拡大を願っています。 国連をはじめとする人権条約を基礎とする国内法の点検と法破棄運動も行っています。

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朝鮮学校は、民族教育を行う民族学校ですね。文科省の指導下になっていません。

前提が違っているのですよ。
これでは、日弁連ではなくて、朝弁連と名称を変えたら如何ですか。


学習権侵害 日弁連が国に勧告
 (NHK 2008/3/27)

 http://www3.nhk.or.jp/news/2008/03/27/d20080326000110.html


 これは、東京と神奈川の朝鮮学校と中華学校の校長や保護者会が行った人

権救済の申し立てを受けて、日弁連が調査していたものです。



 日弁連が26日に記者会見して明らかにしたところによりますと、朝鮮学

校や中華学校は国からの助成金がなく、寄付に頼らざるをえないにもかかわ

らず、税制上の優遇措置がないことで、校舎の建て替えや教材の購入が十分

できず、学校運営が難しくなっているとしています。



 また、朝鮮学校については、生徒が大学を受験する場合、受験資格がある

かどうかをそれぞれの大学が判断することになっていて、受験を認めない大

学も一部に残っていると指摘しています。



 日弁連は、いずれも生徒の学習権を侵害するものだとして、外国人学校へ

の寄付金に税制上の優遇措置を適用するとともに、朝鮮学校の生徒に一律に

大学受験の資格を認めるよう、文部科学省や財務省などに勧告しました。


 (NHK 2008/3/27)

 http://www3.nhk.or.jp/news/2008/03/27/d20080326000110.html


 これは、東京と神奈川の朝鮮学校と中華学校の校長や保護者会が行った人

権救済の申し立てを受けて、日弁連が調査していたものです。



 日弁連が26日に記者会見して明らかにしたところによりますと、朝鮮学

校や中華学校は国からの助成金がなく、寄付に頼らざるをえないにもかかわ

らず、税制上の優遇措置がないことで、校舎の建て替えや教材の購入が十分

できず、学校運営が難しくなっているとしています。



 また、朝鮮学校については、生徒が大学を受験する場合、受験資格がある

かどうかをそれぞれの大学が判断することになっていて、受験を認めない大

学も一部に残っていると指摘しています。



 日弁連は、いずれも生徒の学習権を侵害するものだとして、外国人学校へ

の寄付金に税制上の優遇措置を適用するとともに、朝鮮学校の生徒に一律に

大学受験の資格を認めるよう、文部科学省や財務省などに勧告しました

前回 山川健次郎(上)をお送りしましたが、今日は(下)です。
世情賑わうなかですが、じっくり人づくりを考えて見ましょう。

■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

人物探訪 :国作りは人作り 〜 山川健次郎(下)

 健次郎はいくつもの大学の基礎を作り、明治
・大正の日本の発展を支える人作りに貢献した。


■1.人を育てる■

 山川健次郎が勤め始めた東京開成学校は、明治10(1877)年、
東京大学に編入され、健次郎もその理学部教授補に横滑りした。
教授は全員外国人だったが、2年後、健次郎は日本人として初
めての物理学講座教授に昇進した。

 当時は物理学を学ぶ学生は少なく、学生はいつも数人しかい
なかった。健次郎は英語で講義をし、学生は教科書を丸暗記し
て授業に臨んだ。

 健次郎の最初の弟子となったのが、田中館愛橘(たなかだて
・あいきつ)だった。後に東京帝国大学教授となり、文化勲章
を受章する人物である。

 健次郎は教授を務めながら、次第に教育に関心を深めていっ
た。自分が今日あるのは、何人もの人々が助けてくれたお陰で
ある。研究に徹し、発明・発見をして科学技術の発展に貢献す
る道もあるが、人を育てることによって、発明・発見が倍々に
増えていく。そんな仕事も大事ではないか、健次郎はそう思う
ようになった。教育者・山川健次郎のスタートである。

■2.生徒一人■

 物理学を学ぶ学生は数人だったが、さらに物理を専攻する学
生は年に一人か、二人しかいなかった。それがゼロとなっては、
日本の科学技術の振興にブレーキがかかる。健次郎と田中館は
良い学生を見つけることに懸命だった。

「先生、理学科に頭が切れる男がいます」と田中館が知らせに
きた。物理学を専攻したいと周囲に漏らしていたのを、聞き込
んだのだった。健次郎は気になって、理学科の教室までその男
を見に行った。目元の涼やかな端正な顔立ちの男だった。後に
原子物理学の開拓者となる長岡半太郎であった。

 健次郎と田中館は長岡の勧誘に力を入れ、長岡が物理学科へ
の進学を決めたときには、二人で祝杯を上げた。この年の物理
学科の入学生は、長岡一人だった。健次郎はほとんど毎日、長
岡につきっきりで物理学を教えた。

 健次郎は、時には長岡に人としての生き方を説いた。

 西洋文明や欧米人を無批判に礼賛する輩が増えているが、
それは違う。日本には日本のよさがある。アメリカは人種
差別がひどすぎる。日本人たるもの日本の心を忘れてはな
らぬ。

 長岡は武士道を学ぶべく、剣道を始めた。上級生になると、
健次郎に似てきて、下級生に対して「欧米人に負けてはならぬ。
日本の科学の発展こそが我々の使命だ」と励ました。

 健次郎は長岡が人間的にも立派に成長しつつあることを知っ
て、教育者冥利につきる、と喜んだ。

■3.教師の仕事とは、その人間をどう開花させるか■

 明治15(1882)年、健次郎は26歳の田中館を卒業と同時に
東京大学準助教授に抜擢した。「頼むぞ」と健次郎が手を差し
出すと、田中館はハンカチで目頭を拭き、やがて泣き出した。
田中館は健次郎の期待に応えて、その年のうちに助教授に昇進
し、主任教授の健次郎を助けた。

 明治19(1886)年3月2日、帝国大学令が発布され、東京大
学は東京帝国大学となった。帝国大学とは国家の必要とする学
問を研究・教育する機関とされた。

 田中館は学生時代から地磁気の研究を進めていたが、それを
計測する器械の制作にも成功した。いまでもこの器械が世界で
使われており、東京帝大物理学科のレベルは世界的水準に達し
ていた。田中館は明治21(1888)年からイギリスとドイツに3
年間、留学し、帰国後、教授に昇進した。

 明治24(1891)年10月、岐阜・愛知一帯が濃尾大地震に襲
われた。健次郎に命ぜられた田中館はすぐに現地に赴き、崩壊
した寺にテントを張って調査を開始した。田中館は地磁気が地
震で変動するのではないか、と思いつき、これが契機となって
日本の地震研究が飛躍的に進歩した。健次郎が陣頭に立って、
東京帝大は地震研究所の設立に向けて動きだした。みな国家の
ための学問をしようとする気迫に満ちていた。

 明治26(1893)年、健次郎は助教授になっていた長岡をドイ
ツのベルリン大学に留学させた。長岡はドイツの専門雑誌に次
次と研究論文を発表し、学界の注目を集めた。

 健次郎はこれまでの経験から、人間は周囲の人々の愛情や叱
咤激励によって、自分を見つめ、己の人生を築いていく、と考
えていた。教師の仕事とは、その人間をどう開花させるかであっ
た。二人の弟子は、健次郎の愛情と励ましを通じて、見事に開
花したのである。

■4.青年たちの「理学普及運動」に協力■

 弟子の育成と並行して、健次郎は教育行政に打ち込んでいっ
た。明治14(1881)年、東京大学を卒業した青年たちによって、
「理学の普及を以って国運発展の基礎と成す」の信念のもと、
東京物理学講習所が設立された。東京大学の卒業生はほんの一
握りで、日本の科学技術を発展させるには、広く学生を教育す
ることが必要だという考えからだった。

 健次郎はこの青年たちの「理学普及運動」に共鳴し、率先し
て協力した。同校は明治16(1883)年に「東京物理学校」と改
称する。現在の東京理科大学の前身である。当時、物理学を教
える学校は、東京帝大とこの東京物理学校しかなかった。

 明治26(1893)年、健次郎は40歳の若さで、東京帝国大学
を構成する5つの単科大学の一つ、理科大学の学長に任命され
た。

■5.東京帝大総長■

 明治34(1901)年3月、健次郎は東京帝大総長に選ばれた。
当時の東京帝大総長は、日本の学界、教育界を代表して、政財
界、官界、軍部とあらゆる分野に影響力を及ぼし、国家の期待
度は今日の東京大学の比ではなかった。

 今まで賊軍として虐げられてきた各地の会津人たちは快哉を
叫び、次は大臣だ、と期待した。しかし、権力欲のない健次郎
はそんな話がでると、プイと横を向いて、不機嫌になるのだっ
た。

 やがて日露戦争が勃発し、戦局が日本に有利に進むと、東京
帝大法科大学の戸水教授らは、講和の条件として「バイカル湖
以東を割譲させよ」などと過激な主張をした。文部省が総長の
健次郎の頭越しに戸水教授の休職処分を断行した。

 健次郎自身は早期講和すべきと考えていたが、文部省の一方
的な処分は学問と言論の自由から問題あり、として抗議し、同
時に混乱を招いた責任をとって、学生たちも含めた全学の慰留
運動を振り切って、総長を辞職した。

■6.「私腹を肥やすにあらず、余は教育にその利益を投ずる」■

 東京帝大総長を退いても、健次郎はゆっくりしている暇はな
かった。九州の大財閥・安川敬一郎が健次郎の自宅に訪ねてき
た。

 安川は炭坑の経営にあたっていたが、日清・日露戦争で巨利
を得ると、「私腹を肥やすにあらず、余は教育にその利益を投
ずる」として、本業以外の財産をすべて投じて、科学教育の専
門学校を作ろうと考えたのである。そして、学校経営の一切を
健次郎にお任せしたい、と言う。教育を天職と考える健次郎が
断れるはずもない。

「校名は安川工業専門学校としてはいかがであろうか」と健次
郎が提案すると、安川は即座に断った。「私は自分のために学
校を開くわけではない。校名も山川さんに一任します。」 そ
こで健次郎は「明治専門学校」と名付けた。後の九州工業大学
である。

 明治42(1909)年4月1日、孫のような新入生55名を迎え
て、開校式が行われた。「本校はたんに技術者をこしらえるの
みの学校ではない。技術に通じるジェントルマンを養成する学
校である」と、健次郎は訴えた。

 同時に「私は会津の戦争で辛酸をなめた。祖国を守るための
軍備は絶対に必要である」として、軍事教練にも力を入れた。
生徒たちは健次郎を「親父、親父」と呼んで慕った。健次郎は
若者を手塩にかけて育てる喜びを再び味わっていた。

■7.「今日ほど嬉しいことはない。会津は朝敵ではないのだ」■

 明治43(1910)年秋、第2次桂内閣は、東北と九州に帝国大
学を設置することを決め、健次郎に九州帝国大学の初代総長就
任を求めた。健次郎は明治専門学校の総裁と兼務しても良い、
という条件で引き受けた。

 九州帝大総長を2年間務めた後は、再び、東京帝大総長への
出馬を求められた。工科大学・理科大学・文科大学の拡張、安
田講堂の建設など、今日の東大の基礎を作った。また短期間で
はあったが、京都帝国大学の総長も兼任した。

 健次郎はいまや教育界の重鎮となり、総理大臣や文部大臣も
教育問題については健次郎の意見を聞いてから取り組むのが通
例となった。

 大正3(1914)年3月、健次郎は東宮御学問所評議員に選ばれ
た。時の皇太子、後の昭和天皇を教育する、という重大な職務
である。学習院院長を務めていた乃木希典大将が明治天皇崩御
に際して殉死する前に、健次郎を推薦しており、その意向を聞
いていた東郷元帥が強く要請したのである。「畏れおおいこと
です」と健次郎は感無量の思いで大任を引き受けた。

 かつて会津人は皇室に刃向かった朝敵の烙印を推されていた
が、その会津人の一人が次代天皇を育てる役割を与えられたの
である。山川は「今日ほど嬉しいことはない。会津は朝敵では
ないのだ」と言って、盃を重ねながら、涙を流した。

■8.72歳の校長■

 大正9(1920)年6月、健次郎は東京帝大を退官した。東京開
成学校に勤め始めた頃から数えると、44年に及ぶ奉職だった。

 退職後は講演活動で全国を行脚していたが、それも長くは続
かなかった。大正14(1925)年2月、7年制の武蔵高等学校か
ら顧問就任の要請があった。現在の武蔵大学、武蔵高校である。

 この学校は実業家・根津嘉一郎の出資によって作られ、設立
の段階から健次郎は相談に乗ってきたが、いよいよ開校の段に
なって顧問就任を依頼されたのだった。健次郎は72歳になっ
ていたので、激務は無理だが顧問ならば、と引き受けた。

 ところが、初代校長・一木喜徳郎が宮内大臣に就任すること
になり、根津は「山川先生、なんとか校長をお願いできません
か」と何度も健次郎の家を訪ねて懇願した。「それは、しかし」
と健次郎は困ってしまったが、「山川先生、日本の将来はいか
に有意な青年を育てるかにかかっております」とまで言われる
と、もう断れなかった。こうして72歳の校長が誕生した。

 武蔵高等学校でも、健次郎は人格教育を重視し、寮生活を取
り入れた。「生徒に万一のことがあってはならん」と、健次郎
は毎日のように自ら寮の井戸水の水質検査を行い、舎監や調理
人にも厳しく衛生面を注意した。これからの青年は世界を見な
ければならない、と生徒の外遊制度を作り、その資金として自
ら200円を出した。

 寮生の一人が発疹チフスに罹って、重態に陥ったことがあっ
た。日頃の注意もあって、他の生徒への伝染は避けられた。健
次郎はすぐに病院に見舞いに行ったが、その生徒はそのまま帰
らぬ人となってしまった。健次郎は遺族に自分の懐から弔慰料
を贈り、遺骸を浅草駅まで見送った。家族は健次郎の行為に感
泣し、生徒たちも感動した。

 会津戊辰戦争で白虎隊士として多くの若者の死を見た健次郎
にとって、若者が開花の前に命を失うことは耐え難いことだっ
た。

■9.「国作りは人作り」■

 この間にも、健次郎は陰ながら会津のために尽くした。旧主
松平家が窮乏生活に陥っていたのを、宮中から3万円の下賜を
いただけるよう働きかけた。

 また幕末会津史の編纂にも力をいれ、『京都守護職始末』に
よって幕末の会津藩の立場を鮮明にし、『会津戊辰戦史』で戦
争の全容を明らかにした。今日、この2冊は幕末会津史の根本
資料とされている。

 さらに会津戊辰戦争で戦った長州との和解を進めるため、会
津藩の最後の藩主・松平容保の次男・英夫を長州の山田顕義の
もとに婿入りさせている。山田顕義は日本大学、國學院大學の
学祖とも言われており、健次郎とは教育への情熱で相通ずる所
があっただろう。

 健次郎の晩年の功績として、松平容保の四男・恒男の娘・節
子を昭和天皇の弟宮である秩父宮雍仁(やすひと)親王の妃と
して皇室入りさせたことがある。節子姫は皇后陛下と同名だっ
たため、勢津子と改名して、秩父宮妃となった。

 健次郎は御納采の答礼使として宮中に参内し、御礼を述べた。

 武蔵高校に戻った健次郎に、教頭・山本良吉が「会津家ご先
代の御志がいま初めて御上に通じ、定めて地下でお喜びでござ
いましょう」と言うと、健次郎は無言のまま涙を流し、その涙
が机の上に落ちた。

 松平容保は幕末、京都守護職として孝明天皇の厚い信頼を受
けていたのだが、一転朝敵とされ、会津城での悲惨な戦闘では
多くの人命を失い、降伏後も賊軍として蔑まれてきた。その会
津藩の最後の藩主の孫娘が、今、宮中に迎えられたのである。

 健次郎が会津落城後、15歳にして長州藩士・奥平謙輔の書
生として越後に赴いて以来、多くの人々に支えられ、導かれて
エール大学を卒業した。帰国してからは、今日の東京大学、東
京理科大学、九州工業大学、九州大学、京都大学、武蔵大学な
どの基礎を作り、明治から大正にかけての日本の躍進を支える
人作りに打ち込んできた。

 山川健次郎の77歳の生涯を振り返ると、改めて「国作りは
人作り」と思われてならない。
(文責:伊勢雅臣)

先だっても、林道義先生が道徳教育に関してコラムをお書きだとお知らせしたことがありましたが、今回産経新聞紙上に掲載されました「道徳は教えられる」を、ここに転載してお知らせいたします。



先だっても、林道義先生が道徳教育に関してコラムをお書きだとお知らせしたことがありましたが、今回産経新聞紙上に掲載されました「道徳は教えられる」を、ここに転載してお知らせいたします。



『産経新聞』教育面「解答乱麻」欄に掲載された最近のコラムのなかで、「道徳教育」に関する最近のコラムをお知らせします。



最近のコラムには「卑怯を憎む心育てよう」「道徳教育で何を教える ?」  「食育は精神面も大切に」「他人の目を意識させよう」などがあります。



詳細は  http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/kyouiku8.html



32 道徳は教えられる(平成20年2月27日)

 教育再生会議の最終報告が提出され、「徳育」を重視すべきことと、その「教科化」が提言された。また新しい「学習指導要領」が発表され、週一時間とはいえ「道徳」の時間が設けられている。世論もまた道徳教育の必要なことを強く支持している。

 しかし、抵抗も根強いものがある。なにしろ中教審の会長が「道徳は教えられない」と発言したり、また必要性を認める人でも「強制はいけない」といって「教科化」には反対する人が少なくない。

 道徳を教えるためには、人格的感化力が必要だが、そんな立派な教師は少ないから、学校で道徳を教えることは不可能だ、という理屈は説得力がありそうに思える。しかし道徳を教えるのに、特別に立派な教師は必要ないのである。立派な人のことを紹介する教科書を読ませるだけで、子供は感動し感化されるからである。

 自分の体験を持ちだして恐縮だが、私は不幸なことに高校までに尊敬できる立派な先生に出会ったことがなかった。しかし国民学校の「修身」の時間に二宮金次郎の話を読んで感動した覚えがある。青年になってもその商人版ともいえる石田梅岩の教えを読んで、これも感動した。教科書には野口英世やパストゥールの話、ジョージ・ワシントンの「正直」の話やリンカーンの奴隷解放のことも載っていた。子供心に、そういう立派な人になりたいと思った。

 私だけではない。このごろ同級会で会ってみると、小・中・高いずれの同級生も、それぞれに学歴も違うし人生も違ったが、みな立派な人生観と志をもって生きてきたと感じられる。子供のころに高い志と目標を与えられたせいではないかと思われる。

 教える先生は普通の人でよいのだ。教科書の話自体が感動を与えるのである。私が特別に素直で真面目だったのではない。子供はみな素直で真面目なのだ。とくに低学年ほどそうである。

 大人(親)がわざと反抗心を煽ったり、価値を貶めるようなことをいって、子供の心をよごそうとするのがいけないのである。とはいえ、そういう大人(親)はいくらでもいるから、それに抗して強い動機付けを与えるような感動的な教科書を作る必要がある。

 教科書に金太郎を登場させるという案もあるそうだが、ただ昔のものを復活させればよいというものではない。どういう意味でその話が必要なのかについて、目的を明確にし、社会のコンセンサスを得る努力が必要になる。

 道徳教育などしなくても、大人が立派に振る舞ってみせればよいという意見もあるが、立派でない大人はたくさんいる。だからこそ、それを批判できるだけの判断力をもたせる道徳教育が必要になるのである。

 道徳教育を単に規範意識や協調精神を教えたりすることに(それももちろん必要だが)限ってはならない。崇高な志を持たせることをこそ目標にすべきである。

 みんなのためになる人間になりたい、弱きを助ける勇気のある人間になりたい、研究や的確な判断力で多くの人を救った人のようになりたい、こういう気持にさせるような「道徳」の時間を実現したいものである。

義務教育に歴史科目が無い不思議 


常々不思議に思っているのは、義務教育で何故「歴史」という授業がないのか
ということです。他の国々では、義務教育期間であっても必ず「歴史」という
単独の授業があります。


日本は、「歴史」を「社会」という授業の中で教えることになっていますが、
そもそも「社会」と「歴史」は全く別物です。同じ枠に捉えること自体おかし
な話ですが、なのに日本では、誰もその矛盾を指摘しません。


また、高校になって初めて、「日本史」「世界史」と、歴史が単独での授業と
なっていますが、「世界史」は必修でも「日本史」は必修科目にはなっていま
せん。


私もそうですが、義務教育の期間、それに疑問もなく全く不思議とは思っても
いませんでした。高校に入ってから詳しく勉強するからといわれ、そうですか
と納得していました。


でもよく考えると、義務教育の間にちゃんと自国の歴史を教えておかなければ
ならないのではないでしょうか。自分の国の成り立ち、辿ってきた道を知らず
しては、社会のありかたについても理解できないのではないかと思います。


単純に比較はできませんが、あの歴史の浅いアメリカであっても、小学校から
「歴史」授業があり、他の教科より分厚い教科書で授業を行っています。


それが日本では「社会」科の中に組み込まれ、一部しか教えられていません。
これほど自国の歴史を軽んずる国民は、他にいないのではないでしょうか。


日本自身が、国民にまるで歴史など知らなくて良いと言わんばかりの態度と思
えます。これでは他国から「歴史を鏡に」云々と言われても、反省も反論もで
きるはずがありません。 自国の歴史を他国から知らされ、それを鵜呑みにし
てしまう。これでは公的精神も生まれませんし、国際貢献というものも理解で
きなくなってしまうと危惧します。


何故このようなことが起こってしまったのか、それを辿る、やはり昭和20年
8月15日がターニングポイントになっているのではないかと思います。占領
軍であるアメリカは、矢継ぎ早に改革を断行します。


その第一弾が、昭和20年12月15日に出された「神道指令」です。これを
よく見ると、現在の憲法の「政教分離」の原点が見えます。


内容を簡単にいうと:

1.公的機関の人間は、神社に公的資格で係ってはならない。
2.公的機関は、神社に対していかなる援助も行ってはならない。

3.神道の教義、布教などのいかなる行為の禁止。
4.公の教育機関での、神道を教えること、研究することを禁止する。

5.大東亜戦争、八紘一宇などの、神道に係る言葉は使用禁止とする。
6.天皇に係る、家系、血統など主義・主張は禁止とする。

7.神話に関する教育は禁止とする。


占領軍(GHQ)は、何故このような指令を出したのでしょうか?


それは、日本が戦争を起こしたその原因は国家神道にあり、これが元で侵略戦
争に向かっていったとの認識があり、神道を否定することが新しい日本(所謂
アメリカに刃向うことのない日本)、国民ではなく市民を作ることだと考えて
いたからに他なりません。


何故かというと、欧米には「国力の源には必ず宗教がある」という認識があり
ます。日本の国力というのは「神道」に基づいているから、まずこれを否定す
るということになったのです。靖国神社など目の仇にされて当然でしょう。


以前にも申しました通り、「神道」というのは日本の文化・風習を表している
ものともいえるわけで、神道を破壊するということは、それまでの日本の歴史
を否定しているということに繋がります。


ですから、義務教育の中から「歴史」教育が排除され、「社会科」の中で「市
民」を作る教育になったと推察されます。左翼が、国民とはいわず「市民」と
いうのは、テイよくアメリカの思惑に乗せられたよい例といえましょう。


この神道指令がベースになって、日本国憲法の「政教分離」が唱えられます。
しかし、これはあくまで神道が対象であって、その他の宗教(特にキリスト教)
には誰も何も言いません。例えばある国会議員が「私はクリスチャンで、毎週
日曜日に教会へ行きます」と言ったところで、誰もクレームしません。


政教分離をいうのであれば、公の場でそんなことを言ってはならない筈です。
それとも、キリスト教は平和の宗教であって、神道は邪悪な宗教なのでしょう
か? 歴史上、一番多く戦争や争いに係っている宗教はキリスト教に他なりま
せん。欺瞞や詭弁はいい加減にしてもらいたいものです。


そして、昭和21年元旦に、いわゆる「天皇の人間宣言」が出されます。


この「人間宣言」という言葉も、戦後左翼が作った言葉であって、国立公文書
館では「新日本建設に関する詔書」となっています。(但し、国会図書館など
には「人間宣言」として所蔵されている)


この文章の中において、天皇の神格化の否定は一部であって本筋ではなく、本
来は、明治天皇が示した「五箇条のご誓文」に則って民主的な国づくりを進め
ていこうとするものでした。


結果的には、神格化の否定だけが大きく捉えられ、今でいう「人間宣言」とい
う言葉が一般的になってしまいました。高校の教科書においても「人間宣言」
という言葉はあっても「新日本建設に関する詔書」とは一切記述されていませ
ん。


確かに神道の本家本元を究極的にいうと「天皇」ですが、GHQは天皇という
存在は認めても、その意義・歴史は徹底的に否定する方針を進めたわけです。
暫くしてできた教育基本法においても、この認識が強く影響され、日本から、
本来の「歴史」教育が消えていったのだと思います。


私は、戦前の歴史教育が正しいとは言いません。また、戦前を全面的に肯定す
るものでもありませんが、真正面に歴史と向き合うことを日本人は避けている
のではないでしょうか。


不定期になるでしょうが、私なりに向き合っていきたいと思います。

改めて納得するニュースでした。ご紹介します。


国際派日本人の情報ファイル■

タイ紙が「日本の教育に学べ」

伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1391 ■ H20.01.21 ■ 9,473 部 ■■■■■■■


 2006年3月28日付のタイ英字紙「バンコク・ポスト」が、
「世界の産業勢力の一つとなった日本から教育改革を学べ」と
する特集記事を掲載した。その視点が興味深い。[1]

 タイはバンコクの中心街こそ、高層ビルの間を縫う高速道路
をピカピカの車が走っていて、いかにも「東洋のデトロイト」
という印象を受けるが、地方に行くと、貧困家庭が多く、都市
部との教育格差も大きい。これはタイばかりではなく、世界の
ほとんどの中進国、後進国での共通の社会問題だろう。

 貧しいから進学できず、学歴がないから豊かになれない、と
いう悪循環からいかに脱するか。「バンコク・ポスト」紙は、
日本が貧困層や僻地(へきち)に対しても都市部同様に教育を
充実させたことが、タイにとって大いに学ぶべき点になるとし
ている。

 近代日本の「学制」は明治5年8月に公布され、全国に大学
校8、中学校256、小学校5万3760を設置しようという
壮大な計画であった。「それらが基本的に身分・階層の別なく
すべての国民に開放された単一の体系を採ったことは、当時米
国を除けば国際的にもほとんど例を見ない画期的な特徴であっ
た」[2]

 さらに驚くべきことは、施行2年後の明治8年には、現在と
ほぼ同数の2万4千校以上の小学校が設立された事である。当
初の計画の半分以下とはいえ、わずか2年間で全国津々浦々に
これだけの小学校を作り上げた明治の先人たちの教育への信念
と熱意には驚くべきものである。

 こうして都会と田舎とを問わず、貧富の差を問わず、全国民
に平等に基礎教育を行ったことが、明治日本の躍進につながっ
たのである。ひたひたと迫り来る西洋列強に対抗するには、一
日も早い「富国強兵」が必要だったが、明治の先人たちは急が
ば回れと、長期的な人材育成に取り組んだのである。

 世界の多くの国々が21世紀の現在においても、教育格差の
問題に苦しんでいることを考えれば、130年前の我が先人の
先見性には頭が下がるばかりである。

 現在の我々が、その先人の遺産の上にあぐらをかき、「ゆと
り教育」の美名のもとに、公立校で学力崩壊・学級崩壊を招き、
私立校との「教育格差」まで生み出してしまった事は、先人に
対して申し開きようのない愚行であった、と言わざるを得ない。